暗闇に約する 1

 暗闇が、左手に掲げたカンテラの明かりを小さくする。頼りないその明かりで前を見透かすと、少しの風にがさがさと不気味な音を立てる木々に囲まれた、真っ直ぐだが暗闇へと続く道がカルの全身を震わせた。目的地は、まだ遠い。しかし、行かなければ、長兄であるケイオスに半年以上は馬鹿にされ続ける。それは、嫌だ。しかし足が思うように動かない。カルはもう一度、身を震わせた。長兄も怖いが、闇も、恐ろしい。


「カル?」


 カンテラを持っていない方の手が、少しだけ、温かくなる。横を見ると、カルの目線の少し下に、暗い色の髪に縁取られた丸い灰色の瞳があった。


「大丈夫だ」


 その瞳に、強がった答えを返す。カルより一つ年下の、まだ幼い少年、ラウドに、弱いところを見せるわけにはいかない。カルの父、鹿辺境伯キーエル卿の友人である隼辺境伯ローレンス卿が連れて来た、ローレンス卿の養い子だというラウドとは、二、三日前に出会ったばかり。だから、尚更、初めの印象が、肝心。だが。カルのなけなしの強がりは、カルの手を引っ張ったラウドによって無残にも崩れ去った。


「ま、待って」


 暗闇の方へカルを引っ張って前に出たラウドを、無意識に止める。そのカルを振り返って見たラウドが首を傾げる姿に、カルは思わず「しまった」と舌打ちした。暗闇が怖い。そのことを、年下のラウドに知られるわけにはいかない。カルはごくりと唾を飲み込むと、何とか自分を叱咤し、カンテラを掲げて暗闇の方へ歩を進めた。


 虫の鳴く音と、草が揺れる音が、耳に静かに響く。ラウドは、森も暗闇も怖くないのか? カルよりも少し先を歩くラウドの、小さいが怯えの見えない姿に、カルは首を傾げた。暗闇には、悪霊が跋扈している。領域を超え、人を喰らう『悪しきモノ』も。


「星明かりがあるから、暗くない」


 カルの心を見抜いたかのように、ラウドが空を見上げ、一人言葉を紡ぐ。


「道を外れなければ、精霊も悪霊も何もしないよ。みんな、それぞれの領域で静かに暮らすのが、好きなんだって」


 母から聞いたという、ラウドの言葉に、ふうんと頷く。「領域を超えない」。その言葉は、カルも昔祖父から聞いた覚えがある。領域を超えて人を喰らうという『悪しきモノ』は確かに怖いが、ここは鹿辺境伯キーエル卿の屋敷の裏手だ。人に害を為す悪しきモノは、鹿辺境伯に仕える騎士達が細心の注意を払って駆逐しているだろう。だから、怖いものなんて、無い。ラウドの言葉に、カルはもう一度頷いた。そして。


「人間の方が、よっぽど怖い」


 思いがけない、ラウドの呟きに、歩きながらはっと息を吐く。ラウドの方を見ると、俯いたラウドの左こめかみに走る鋭い傷が、暗闇の中で僅かに見えた。


「怖いから、打ち返せないのか?」


 その傷に、尋ねる。カルの思った通り、ラウドは小さく頷いた。


 昼間、カルとラウドは館の中庭で行われた騎士達の武術訓練に参加させてもらった。年上の騎士達の、子供に対する甘めの攻撃をカルは打ち返すことができたのだが、ラウドは、対峙した騎士を模擬武器で叩くことができなかった。降ってきた鋭い攻撃を避けることも、模擬武器を止めることも、できていたのに。そして攻撃を返すことができなかったことで、ラウドはカルの長兄ケイオスに批判され、そして「騎士になるのなら、度胸が要る」という侮蔑の言葉で、暗闇を恐れるカルとともに夜の森へ肝試しに出された。森の真ん中にある祠の中に入っている水晶を取ってくること。それが、長兄ケイオスが出した試練。勿論、夜出歩くことは、父から厳に禁じられている。人気の無い森の中を歩くなど、もっての外。見つかれば、父からこっぴどく叱られることは目に見えている。だが、父より長兄の方を恐ろしく思うカルは、長兄の言うがままにラウドとともに館を抜け出した。これまでも、父や母に見えないところで、ケイオスはカルを苛めていた。ある時は言葉で、またある時は武術訓練にかこつけた物理的な殴打で。体格も良く、頭も回る長兄には、どう足掻いても敵わない。それが、カルの中にある、諦めの感情。


「己の中の恐怖を克服することができないのなら、騎士になることなんて諦めるんだな」


 そう言って口の端を歪めた長兄ケイオスの残忍な顔と、その言葉に俯いたラウドの震える背を思い出し、カルはそっとラウドの手を握った。そのカルを、ラウドがそっと見つめる。そして再び、ラウドは思いがけない言葉を紡いだ。


「ここで、泣き喚いて引き返した方が、良いのかな?」


 カルのお兄さんは、それを望んでるんでしょ? ラウドの言葉に、はっと胸を突かれる。確かに、兄の性格を考えれば、ラウドの言う通りかもしれない。祠に行って水晶を取って戻ってくれば、自分の思惑を外されたケイオスは面白くないと思うだろう。禁を破って夜の森に入ったカルとラウドのことを父に言いつけるだけではなく、次の日の武術訓練で誰にも見えないところでカルとラウドを打ち据える可能性も、ある。だが。ケイオスの好きには、させない。何時にない決意が、不意に、カルの心に沸き立った。


「避けることも止めることもできるのに、打ち返さないのは、馬鹿にされたって俺なら思う」


 殊更、強い声を出して、ラウドの手を強く握る。


「俺は引き返さない。ケイオスの好きにさせてたまるか」


 ラウドに、というより、カル自身に向けた言葉が、暗い森に響いた。


「そう、だね」


 カルの横で、ラウドがこくんと頷くのが見える。


 先程よりも、暗闇が怖くなくなったように感じる。幾許も行かないうちに、カルとラウドは目的地である森の真ん中に建つ祠の前に立っていた。その祠の、小さな扉を開けて、中に入っていた冷たく透明な石を一つだけ取り出す。これで、ケイオスに大きな顔はさせない。カルとラウドが禁を破って夜の森に出掛けたことをケイオスが父に告げ口しても、ケイオスが強制したのだと言い返す自信も、ある。負けるもんか。小さな声で、カルはそう、呟いた。そして。


「明日の武術訓練は、ちゃんと打ち返すんだぞ」


 祠から水晶を取り出す間カンテラを持っていたラウドからそのカンテラを受け取りながら、ラウドにそう、念を押す。カルの言葉に、ラウドは躊躇いの表情を見せたが、すぐにこくんと頷いた。


 次の瞬間。森を漂っていた靄が、急に濃くなる。その靄がラウドとカルを隔てた一瞬の間に、ラウドの姿は、夜の闇の中に消えていた。

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