残痕の先へ 2

 はっとして、顔を上げる。


「疲れているのか?」


 ラウドが持って来た薬草を選り分けていた、目の前の老婆の皺の多い顔の中にある優しげな瞳に、ラウドは首を横に振った。疲れていないと言えば、嘘になる。それが、本音。だが、母と、産まれたばかりの妹の為に、疲れを見せるわけにはいかない。ラウドはもう一度、首を横に振ると、薬草を潰す為の薬研に再び手を掛けた。


 単調な音と、眠気を誘う草の匂いが、再びラウドを物思いの中へと引き込む。眠気を覚ます為に額に手を当てると、左こめかみに走る傷の鈍い痛みが、ラウドの心を怒りで満たした。


 新しき国の王太子であるレーヴェが、ラウドにこの傷を付けたのは、この前の冬。そしてレーヴェが居た、あの城を母とともに去ったのは、その次の春のこと。そして、新しき国に敵対する隣国、呪いを使うという噂を持つ女王が支配する『古き国』と呼ばれる国と新しき国の境にある小さな森に落ち着いた母が、森の中にあった打ち捨てられた小屋で妹を産んだのは、この夏のこと。そして、今は秋。夏の間は森中に繁茂していた、摘み取って森の傍にあるこの村で食べ物と交換することでラウドと母の糧となっている薬草は、少なくなってきている。妹を産んだ母は体調を崩し、掃除や洗濯の為に身体を動かすことすら難しいように、ラウドには思えた。


 もうすぐ、冬が来る。その時に、あの薄っぺらな壁しかない寒い小屋で冬を越すことが、できるのか? ラウドは首を横に振った。できない。しかしだからといって、母とともにこの村に来ることも、できない。ラウドが持ってくる薬草を買ってくれ、薬草を煎じる手伝いをするラウドに温かい牛乳とスープを飲ませてくれるこの老婆は優しいが、ラウドは、新しき国の王の血を受けている。古き国の中にあるこの村で暮らしていて、ラウドの出自がばれてしまったら、母も、妹も、優しい老婆も、……殺されてしまう。それは、嫌だ。ラウドはもう一度、首を横に振った。


 森の向こう側、新しき国の方にも、小さな村がある。そちらに行くということも、考えた。だが、新しき国の王妃は、母が王子であるラウドを産んだことを深く憎んでいると、母はラウドに告げていた。それ故に、母とラウドは王宮を追われた、と。それならば、新しき国に留まることも、危険極まりない。ラウドは正直途方に暮れた。


 レーヴェのことも、……正直、怖い。傷が疼いたような気がして、ラウドは再び左こめかみに左手を当てた。新しき国に居るより、古き国に居た方がましな気がする。母もそう思っているから、古き国に属する村に薬草を売りに行くよう、ラウドに指示したのだろう。母の体調は、大丈夫だろうか? 悪くなってはいないだろうか? 森の中の母のことを考え、ラウドはほうと息を吐いた。


 その時。壁の向こうから響く罵声に、はっと顔を上げる。


「また、やってるよ」


 薬草の選別が終わり、ラウドの前で編み物を始めた老婆が眉を顰めるのが、はっきりと見えた。


 壁の向こう、村の中での騒ぎの原因を、ラウドも老婆も知っている。古き国と新しき国の争いを良いことに、国境地帯で暴れているならず者が、この村にも居る。身体だけはやたら大きい暴れ者が、静かに暮らす村人達を威嚇する為に大声を出している。それだけのことだ。恐怖に動く心を静める為に、ラウドは耳を塞ぎ、大きく息を吐いた。道理の分からないならず者は、相手にしないに限る。常に冷静でいなさい。それが、母の教え。そして、その言葉通り、ラウドの母は、常に冷静で、そして何処か冷たい感じのする女性だった。しかしラウドは、母は本当は温かい人なのだと、知っていた。レーヴェに大怪我を負わされ、生死の境を彷徨った時、目覚めたラウドの傍には泣き腫らした目をした母がいた。そして母は、まだ意識がぼうっとしているラウドを抱き締め、「無事で良かった」と言いながら大声で泣いた。気丈で冷静な母が泣くのを見たのは、この時が、最初で最後。二度と、母を、泣かせてはいけない。あの時、ラウドは静かにそう、決心した。そしてその決意が、今のラウドの支え。


 そっと、耳から手を離す。怒鳴り声は、聞こえない。どうやらならず者達は叫ぶだけ叫んでから、別の村へ行ったのだろう。臆病な彼らは、悪霊が跋扈するといわれている森の中へは絶対に来ない。そのことだけは、ラウドを安堵させていた。


「もうそろそろ帰らないと、暗くなるよ」


 老婆の声に、頷く。老婆が持たせてくれたパンとチーズを、薬草を入れてきた籠に大切に収めると、ラウドは老婆に深くお辞儀をして村を離れた。

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