明日への思考 2

「悔しいのか?」


 普段通り揶揄を含んだリュングの言葉に、息を吐いて手にした桶を地面に下ろす。


「そんなことは」


 感情を押し隠し、カレルは井戸から汲み上げた水を桶に移した。


 ラウドが目覚めてから、既に三日経っている。目覚めたばかりの頃はまだぼうっとした表情で枕に頭を預けているだけだったラウドだが、今ではすっかり生気を取り戻している。少しなら歩くこともできるし、眠っている間に溜まりに溜まっていた騎士団領からの報告書を読んで署名もできるようになっている。そのことが、カレルをほっとさせていることは、確かなのに。それでも、心の隅に蟠っていることが、一つ。レーヴェの呼びかけでラウドが目覚めたことが、何となく悔しい。ただそれだけ。カレルのその蟠りを、カレルの倍は生きているリュングは正確に見抜いていた。


「ま、ラウドにとってレーヴェは『特別』なんだろうな」


 リュングの言葉に、仕方無く頷く。そう、ずっと付き従っているカレルではなく、傲慢な兄であるレーヴェの方が、ラウドにとっては特別な存在。だからこそ、ラウドはレーヴェの『身代わり』になることに固執した。既に分かっていることとはいえ、やはり、指摘されると辛くなる。カレルは無意識に首を横に振った。


「それよりも、もう戻って来たのですか、リュング師匠」


 嫌な気持ちを切り替える為に、殊更明るくリュングに問う。ラウドが目覚めてすぐ、リュングは報告の為に黎明騎士団領へ向かっていた。


「みんな喜んでた」


 カレルの問いに軽く頷いたリュングに、ほっと息を吐く。ラウドが目覚めて、本当に良かった。安堵を感じながら、カレルは水の入った桶を持ち上げ、ラウドが休んでいる王宮の端の小さな部屋へと戻った。おそらく騎士団領からの報告を持っているのであろう、カレルの後ろからリュングも部屋に入ってくる。


「ほれ、騎士団領からの新しい報告書」


 カレルの予想通り、リュングは懐から封印付きの羊皮紙を取り出すと、ベッドに上半身を起こして羊皮紙を広げていたラウドの膝に放った。


「面白いことが起きてるぜ」


 にやりと笑うリュングに促されるまま、ラウドが膝の上の羊皮紙を手に取る。その報告書を広げたラウドの瞳が大きくなるのが、ベッド傍の棚の上に置かれた水差しに水を移し替えているカレルの位置からも分かった。


「ローレンス卿が、騎士団領に?」


 驚きに満ちたラウドの声が、部屋に響く。


「助けてもらったから、恩返しがしたいんだと」


 目を丸くしたラウドに、普段通りの軽い調子で言葉を返したリュングが口の端を上げた。


「そう」


 そう言って、ラウドが目を伏せたのが、カレルには不思議に映る。古き国でも一、二を争うほど有力であった、味方としては頼もしいローレンス卿が騎士団に入ることが、嬉しくないのだろうか? かつては『敵』であったことで、卿を危険視しているのだろうか? それとも、……あの凛とした少女を殺してしまったことをに対し、慚愧の念を覚えているのだろうか? カレルの予想は、しかし悉く外れた。


「戦が終わったから、もう、騎士団は要らないのに」


 思いがけないラウドの言葉に、カレルもリュングも押し黙る。確かに、黎明騎士団は、ラウドが古き国を打ち倒す為の力を得る為のもの。古き国が滅ぼされ、戦が終われば、存在理由を失う。


「だが」


 沈黙を突いて、リュングが言葉を紡ぐ。


「今すぐ黎明騎士団を無くすとして、所属している者達はどうするつもりだ?」


 リュングの言葉に、ラウドは唇を震わせて項垂れた。


「皆、おまえを慕って集まっているんだぞ」


 そのラウドを更に責める、リュングの言葉に、カレルの心も痛くなる。確かに、現在黎明騎士団に所属する面々は、レーヴェの下で騎士になることも、騎士団領の元々の所有者であったセナとレット兄弟の許に行くことも厭がるだろう。しかし、戦は終わったのだ。どうすれば、良いのだろう? 背中を震わせるラウドの苦悩を、カレルは自分のこととして考えて、いた。

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