悪しきモノ 1
カレルの右側を歩いていたラウドの唇が、きゅっと横に伸びる。表情を曇らせたその原因が、雪解けの泥濘ではないことは、すぐに分かった。
「居るな。右側」
「ええ」
カレルとラウドの前を歩くリュングの、あくまで軽い声に、カレル達の後ろを歩くミトが重い返答を返す。瞳だけで横を見ると、春近い森の木々の向こうに、赤と黒の制服が見えた。『古き国』の騎士達だ。五人、居る。木々の隙間を音を立てないように歩きながら、そこまで確認する。こちらは、四人。そのうちの二人、ラウドとカレル自身は、前の秋に古き国の女王と騎士達から受けた傷がまだ治りきっていない。無理は、禁物。心配そうにラウドを見つめるミトの方を振り向いてから、カレルは再び前を向いた。
「どうする?」
対応を尋ねるリュングの声に、ラウドが首を横に振る。
「向こうが何かしてくるまで放っておこう」
ここは、森の中。人間達の領域では無い。カレル達が所属する『新しき国』の領土内の森とはいえ、人間の方が侵入者にあたる。カレル達も、向こうに居る『敵』達も。だから、カレル達に彼らを咎めることはできない。それが、カレルの主君であり、新しき国の第二王子であるラウドの思考。確かに、カレル以外の三人の剣技が群を抜いているとはいえ、四対五ではこちらが負ける可能性がある。向こうがこちらに、あるいはここに居る誰かあるいは何かに危害を加えない限り、こちらからは手を出さないのが無難。こちらは、こちらの職務――王都付近の探索と治安維持――を行えば良い。
だが。
「あれは!」
不意に立ち止まり、剣を抜いた古き国の騎士達に、ラウドが飛び出す。
「ラウド様!」
また、無茶なことを! カレルが叫ぶより先に、口の端を上げたリュングと無表情を崩さないミトは叫ぶことなくラウドを追っていた。
前触れもなく発生したどす黒い『靄』と、その靄に対峙する古き国の騎士達との間に、ラウドが割って入るのが見える。明らかに戸惑いを見せた古き国の騎士達の背中を剣で容赦無く殴る、リュングとミトの姿も。歴史を、そして靄の正体を知っているラウドだから、靄に危害を加えようとする古き国の騎士達を制止するのは当然の行為。だからこそ、ラウドを、助けなければ。その想いだけで、カレルは、振り下ろされた重い刃を軽い剣で簡単に止めたラウドに横から降り注ぐ刃を、低い姿勢から敵の足を薙ぐことによって止めた。次の瞬間。
「なっ!」
突然放たれた光に、目が眩む。ほんの一瞬の間に、優勢だった状況はひっくり返されていた。
「武器を捨てろ!」
ラウドの華奢な身体を後ろから羽交い締めにした影と、そのラウドの首筋に鋭い切っ先を突きつけている影を認め、剣を地面に落とす。カレルの後ろに居たリュングもミトも、カレルと同じように剣を手放したことが、背後に響いた重い音で分かった。僅かな間に古き国の騎士達が退治したのか、それともラウドが庇ったことで納得したのか、幸いなことに靄は消えている。そのことだけが、カレルをほっとさせていた。靄には手を出さないことが、新しき国の方針。しかし靄の脅威を、カレルもラウドも知っている。
そのカレル達を鋭い視線で睨んだ、ラウドに切っ先を突きつけている騎士が、おもむろに、ラウドを上から下まで見つめる。
「どうして止めた?」
静寂を打ち破る騎士の声は、底知れぬ怒りに震えていた。
「『悪しきモノ』は全てを喰らい、全てを滅ぼすものなんだぞ!」
そう言って憎悪の瞳をラウドに向けた、おそらく古き国の騎士達のリーダーだと思われる騎士に、ラウドはあくまで冷静に答える。
「あの靄を、『退治』させない為に」
森や道端に時折発生する黒い靄、古き国で『悪しきモノ』として忌み嫌われるその存在については、これまで何度も、元『古き国』の騎士であったリュングを交えて騎士団内で話し合っている。靄が、特に人間に憎悪を向ける理由と、古き国の騎士達がその靄に固執する理由、そして靄に危害を加えてはいけない理由を、カレルもラウドも理解していた。
昔、まだ古き国すらも存在していなかった頃にこの地に現れ、全てを支配しようとした不定形の存在の、滅ぼされた後の成れの果て。それが『靄』の正体。滅ぼした張本人達である、古き国を打ち立てた女王と騎士達の血を引く者達を、感情に組み込まれた積年の恨みから襲うことはあるが、それでも、領域を守る限りは何者も襲わない存在、だったもの。その靄が人々を襲うようになったのは、人間側の誤解から。靄に妹を奪われたと思い込んだ古き国の女王ラヴィニスが悪しきモノの討伐を命じたことが、きっかけ。女王の命を受けた古き国の騎士達は靄の討伐に力を注ぎ、その攻撃から身を守る為に、靄は、時には古き国の騎士でも手が付けられないほどの凶暴さを身に付けた。
だが。女王ラヴィニスの妹であるその女性が消えた理由は靄の所為ではなかった。女性を誘惑し、その事実が明るみに出ることを恐れた古き国の高位の貴族の一人、鷲辺境伯が、古き国の女王や騎士達が多かれ少なかれ持っている、過去や未来に『飛ばされる』力によってその女性がたまたま消えてしまったという好機にかこつけ、飛び戻って来た女性を誰にも知られることなく殺した。その事実を知ったラウドの曾祖父、獅子辺境伯リュカは女王ラヴィニスを諫めたが、女王はリュカの、調査事実を突きつけた上での諫言を一顧だにしなかったばかりか、あろうことかリュカの親友であった騎士ロルにリュカの暗殺を命じた。全ての事実に怒りを覚えた獅子辺境伯リュカは女王と決別し、古き国を、全ての原因となった女王を滅ぼす為に『新しき国』を打ち立てた。それが、今も続く古き国と新しき国の対立の原因。
「『悪しきモノ』がこの場所に棲むあらゆる存在に何をしているのか、知っていてのことか?」
主君を人質に取られて動くことができないカレルの目の前で、怒りに満ちた騎士の腕が、ラウドの襟を掴む。
「ええ」
首を締め付けられて苦しいのだろう、唇を歪めたラウドは、それでも静かに、言葉を紡いだ。
勿論、ラウドもカレルも、『靄』が人々に危害を加える様を見て知っている。騎士団領で飼っていた動物が靄に喰われたことは数知れず、背中に黒い靄を背負った盗賊があらゆる命を断ち斬っていたのを何とか止めた経験も、ある。それでも、記録された歴史に従い、ラウドもカレルも、黎明騎士団所属の騎士達も、靄には手を出さない。靄の方も、黎明騎士団が彼らを滅ぼそうとしていないことを理解しているのであろう、最近は、靄による動物の行方不明事件が減っていると、騎士団領からの報告にあった。
ラウドの冷静さが騎士の怒りに油を注いだらしい。不意に、騎士がラウドの身体を持ち上げる。
「ならば」
『悪しきモノ』の残忍さを、その身で味わえ。吐かれた呪いの言葉とともに、騎士はラウドの身体を、いつの間にか発生してた靄の方へ投げ入れる。その光景が思考に行き着く前に、カレルはラウドに続いて黒い靄の中へと飛び込んだ。
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