初陣の後 3

〈全く〉


 女性に見紛うような顔をしたラウドの、疲労で青白く見える頬に浮いた汗をそっと拭ってから、その華奢な身体に毛布を掛ける。ラウドが眠っている間に、水差しの水を補充しておこう。ラウドの治療を優先した所為か、クライスが手早く立ててくれた狭い天幕の中は武器や防具、そして細々とした日用品で雑然としていた。その薄暗い天幕の中を見回してから、カレルはラウドを起こさないようにそっと、ベッド側に置かれた長持の上の金属製の水差しの一つを手にすると、音を立てないように天幕から出た。


 獅子王レーヴェの現在の本陣は、レーヴェが寝起きに使っている小さな砦の周りにたくさんの天幕を並べた形になっている。飲用に適する井戸は、砦の中にしか無い。カレルは早足で、白色が多い天幕群の真ん中にある砦に急ぎ、水差しに水を一杯にする間も無く再び早足で、ラウドの居る天幕へと戻った。


 と。


〈……あれは〉


 光の少ない天幕の間を歩く、大柄な影に、足を止めて全身で警戒する。だが、その影の肩で揺れる黄金の髪に気付き、カレルはほっと息を吐いた。あの影は、獅子王レーヴェ。ラウドが眠っている天幕の帳を上げ、音も無く天幕の奥へと消えたレーヴェの背中を、カレルは安堵とともに見守った。ラウドの懸念は、これで無くなるだろう。良かった。重い水差しを両腕で支え立ち尽くしたまま、カレルは息を吐いた。


 次の瞬間。天幕の向こうに響いた、何かが固い地面に落ちる音に、はっとする。腕の中の水差しを無意識に落とすより先に、カレルはラウドが眠る天幕の帳を大きく跳ね上げた。


「ラウド様!」


 僅かな松明の光で見えたのは、レーヴェがその大きな手でラウドの首を絞めている光景。その光景を認めるや否や、カレルは全力で、自身の倍の体格を持つレーヴェを横に突き飛ばした。


「ラウド様!」


 おそらくレーヴェが身に着けている鎧であろう、金属が木製の長持にぶつかる音が聞こえてくる前に、ぐったりとしたラウドの両肩を強く叩く。呼吸をしていないように見えたラウドの唇が喘ぐように動いたのを見て、カレルはほっと息を吐いた。次の瞬間、ラウドとカレルの間に割って入ったレーヴェの太い腕に、カレルの身体は後ろに突き飛ばされる。固い地面に叩き付けられ、カレルは背中の痛みに呻いた。それでも。


「ラウド様!」


 再びラウドの首を絞め始めたレーヴェに、何とか飛びかかる。だが、カレルがレーヴェに飛びかかるより先に、俊敏な影がラウドからレーヴェを引き剥がした。


「弟を殺す気か! 獅子王レーヴェ!」


 カレル達に剣術を教えている時よりも鋭い声が、暗い空気を震わせる。藻掻くレーヴェの巨体を右腕一本で地面に押さえつけているリュングを認める前に、カレルは再びラウドの側に一息で走り、その冷たい身体をもう一度強く叩き揺することで息を取り戻させた。


「お、俺は、……何を」


「おそらく、古き国の女王の呪い」


 小さく呟かれたレーヴェの言葉に呼応したのは、ランタンを持って現れたレギ。気を失い、カレルの腕にぐったりと上半身を預けているラウドをその明かりで確かめてから、レギはリュングとレーヴェの方に身体を向けた。


「もう、放してあげてください、リュング」


「……大丈夫、なのか」


 レギの言葉に、リュングが不信感を露わにする。


「もう、落ち着きましたね、陛下」


 確かめるレギの言葉と、頷くレーヴェに納得してから、リュングはレーヴェから腕を放した。


「……女王の、呪い、とは、何だ?」


 続いて上半身を起こしたレーヴェが、レギを鋭く睨む。


「昔、ラウドを刺し殺そうとした時と同じことが起きてしまっているのです、陛下」


 レギは簡潔に、レーヴェの質問に答えた。


「その時に、父上付きの薬師、私の師匠が言いましたね。『意思を強く持たねば、呪いに引きずられて取り返しのつかないことを起こしてしまう』と」


「そう、だったな」


 頷いて立ち上がったレーヴェが、一足でカレルの側に立つ。また、ラウドを殺そうとするのか。レーヴェの攻撃に備え、カレルはラウドを庇うように、その華奢な身体に腕を回した。ラウドを助ける為にレーヴェを突き飛ばした時に見えた、あの毒々しい紅色の瞳は、今のレーヴェには無い。それでも、ラウドを守ろうとするのは、半ば無意識と化したカレルの意志。


「確かに、昼間のラウドの奇襲は、上手だった」


 だが。すっかり血色を無くしたラウドの、ぐったりと眠る顔を見つめたレーヴェが発したのは、静かな賞賛の言葉。


「うまく戦力を切り離せば、こちらの戦力が少なくとも勝てる。それが分かる戦い方だった」


 自分にはできない戦い方を見せつけられ、その上盲点だった背後からの攻撃を防いでレーヴェを助けたラウドに嫉妬を覚えたのかもしれない。はっきりとしたレーヴェの言葉に、リュングが目を丸くし、レギが頷いたのが、見えた。


「その戦い方、使わせてもらうぞ」


 そう言って、微動だにしないラウドの髪を乱暴に撫でるなり、レーヴェは身を翻し、天幕の帳を跳ね上げた。


「……これで、陛下は大丈夫でしょう」


 帳が落ち着いてしばらく経ってから、レギが静かにそれだけ言う。その時になって初めてあることに思い至り、カレルは思わず声を上げた。


「レーヴェには身代わりのことを話さない。その約束だったのでは?」


「別に、身代わりのことは話してないだろ」


 カレルの疑問に答えたのは、リュング。


「私はただ、古き国の女王が陛下に呪いを掛けていることと、その対処方法を言っただけです」


 確かに、そうだ。あくまで静かなレギの言葉に、こくんと頷く。そして。


「陛下が意思を強く持っていれば、弱い呪いは陛下の前で止まる。ラウドが呪いの身代わりで苦しむことが少なくなると、私は思いますよ」


「戦況も、こちらが有利になるように変われば良いがな」


 ラウドの為にも、そうであって欲しい。レギとリュングの言葉に、カレルは腕の中の、昏々と眠るラウドを見、そして強く、頷いた。

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