様々な感情を 4

〈とにかく、良かった〉


 ラウドの部屋に持って行く水を汲む為に、井戸の釣瓶に手を掛け、カレルはほっと息を吐いて重い釣瓶を引き下ろした。穏やかな気候故か、ラウドの怪我は化膿することなく、順調に回復に向かっている。右腕の傷は浅く、すぐに癒えた。右胸の傷も、まだ痛みが残っているのかラウドは時折顔を顰めるが、それでも、短い距離なら何とか歩けるほどに回復している。しかしそれでも、懸念が、一つ。


〈何故、王太子殿下は、ラウド様を刺したのだろうか?〉


 凶行時に見た、レーヴェの毒々しい紅色の瞳を思い出し、無意識に首を横に振る。ラウドがレーヴェを慕っていることを、レーヴェも承知しているはずなのではなかったか。なのに、何故、レーヴェはラウドを殺そうとした? やはり、いつかは王位を窺うライバルになると、レーヴェはラウドを認識しているのだろうか? しかし、その思考では、ラウドが可哀想だ。カレルはもう一度、首を横に振った。その時。


「手伝おうか?」


 聞き知った声とともに、カレルの腕の負担が軽くなる。顔を上げると、王太子レーヴェの従者の一人であるヴィクターが、浮かない顔をカレルに向けていた。


「ラウドは、その、もう大丈夫なのか?」


 汲み上げた水を手桶にあけながら、ヴィクターがカレルに問う。その問いにカレルが頷くと、ヴィクターは目を伏せて微笑んだ。


「それは、良かった」


 そして。


「戦陣でも、二回ほど、あったんだ。レーヴェ様が、あんな風にいきなり暴れること」


 ヴィクターの告白に、カレルは手桶を持ち上げようとした手を止めた。


 二回とも、レーヴェの周りにいた従者達が軽い怪我をしただけで済んだから、公にはなっていない。しかし、従者達の間では、何時レーヴェが豹変するか、戦々恐々としているらしい。レーヴェの許を去った者も複数いると、ヴィクターは悔しさの滲んだ声でカレルに告げた。更に。


「薬師の長様が言うには、『古き国』の女王がレーヴェに呪いを掛けているらしい」


 続くヴィクターの言葉に、はっと顔を上げる。


「あの国は昔からそうだったけど、呪いなんて卑怯な手をまた使ってくるとは」


 怒りを含んだヴィクターの声に、はっと記憶が揺さぶられる。


 新しき国に敵対し、隙あらば侵略を繰り返す『古き国』。その支配者である代々の女王は強力な魔力を持ち、その力で以て新しき国を悩ませている。ラウドとレーヴェの、ラウドと同じ名を持つ叔父が斃れたのも、王族に降りかかる呪いを身代わりとして受け続けた為らしい。ラウドがレーヴェに刺された夜、薄暗い廊下の隅で獅子王と薬師の長がそう話しているのを、カレルは聞いた。女王の呪いを躱す為に、レーヴェには心を強く持ってもらうしかない。そう言って、獅子王が深い息を吐いたことを、カレルはふと思い出した。


 古き国の女王の呪いが新しき国の王族に降りかかるものであるならば、王族の一員であるラウドを守る為にカレルができることは何だろうか? 水の入った重い手桶をラウドの部屋まで運びながら、カレルの思考はぐるぐると回り続けた。その思考を続けたまま、ラウドの部屋に入る。部屋にいるはずのラウドの姿が見えないことに気付き、カレルは慌てて辺りを見回した。部屋にいないとなると、後は。手桶を床の隅に置くなり、カレルはラウドの部屋を飛び出し、その近くにある目立たない扉を強い力で押し開いた。


「あ、カレル」


 そのカレルの前で、背伸びをして背の高い棚から本を取り出そうとしていたラウドが静かに微笑む。


 カレルが押し開けた部屋は、王宮にある図書室の裏口。自分の部屋の近くにこの裏口があることに気付いたラウドはこっそりと扉の鍵を壊し、暇を見つけてはこの静謐な空間に入り浸っている。しかし埃っぽい空間は、ラウドの怪我には毒になる。


「戻りましょう、ラウド様」


 本が必要なら、自分が取りに行きますから。ラウドの腕を掴んだカレルの言葉に、ラウドは微笑んで首を横に振った。


「手伝って、カレル」


 そして部屋の奥まで続く本棚を指差す。


「呪いを解除する、あるいは呪いを代わりに受ける術が書かれた本を探してほしいんだ」


 ラウドの言葉に、ぎくりとする。レーヴェが理由無くラウドを刺した理由に、ラウドはとっくに気付いていた。だからこそ、呪いに関する本を探したいのだろう。しかしながら。ラウドに、これ以上の負担は、掛けたくない。古き国の女王がレーヴェに向けて放つ呪いにラウドが関われば、ラウドの命が削られることは必至。そこまで考えてから、カレルはそれでもこくんと、頷いた。自分以外の者を守る為に、ラウドはこれまでにもしばしば無茶をしてきている。まだ幼い頃、レーヴェに打ち据えられたカレルを、自分がレーヴェに殴られるかもしれないという危険を省みずに庇ったことは、カレルの脳裏にしっかりと焼き付いている。ラウドの心を知っているから、ラウドを止めることができない。本当は、ラウドに無茶をしてほしくないのに。矛盾が、カレルの心を支配していた。


 そのカレルを助けるかのように。


「何処を探しても無駄ですよ、ラウド」


 凛とした声が、静かな空間を震わせる。顔を上げると、レギの長身が書棚の向こうに見えた。


「呪いを解除する術も、呪いを代わりに受ける術も、ここにはありませんよ」


 レギの言葉に、ラウドは唇を震わせ、そして首を横に振った。


「でも、叔父上が父上の身代わりをしたのなら、その方法が」


「王弟殿下が亡くなられた時に、獅子王陛下は身代わりの術が書かれた書物を全て焼却処分されたのです。『苦しむのは、弟だけで十分だ』と、おっしゃって」


 レギの言葉の内容よりも、その声が内包する想いに、息が詰まる。掴んでいたラウドの腕を引くと、ラウドの身体は力を失ったようにカレルの胸に凭れた。


「熱が、出てますね、ラウド」


 そのラウドの、血の気が見えない額を、レギが優しく撫でる。


「ベッドに戻って。今日はもう出歩いてはだめです」


「……はい」


 憔悴しきったラウドを、カレルはベッドまで運んだ。

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