様々な感情を 2

 王太子レーヴェの部屋へ向かうラウドの嬉しげな背を見つめながら、少し重みのある真鍮缶を運ぶ。


「カレル、持とうか?」


 途中一回だけ、カレルの方を振り向いてそう言ったラウドに、カレルは微笑んで首を横に振った。


「王太子殿下」


 レーヴェの部屋の軽い扉を、ラウドは音を立てないように静かに押し開ける。夕刻の光の下、小さな卓を使って従者のヴィクターとチェスに興じている王太子レーヴェの姿が、ラウドの後ろにいるカレルの瞳にもはっきりと、映った。


「ラウド」


 先程までとは打って変わり、おずおずとしてしまったラウドに、レーヴェの従者の一人であるヴィクターがにこりと笑う。


「どうした」


「あ、の。……レギが、薬湯を作ってくれたので」


 ラウドの言葉に、ラウドの方を全く見ないレーヴェの口がへの字に曲がる。


「苦いやつじゃ、ないだろうな」


 そう言って、レーヴェはその傲岸な蒼い瞳でラウドとカレルを見つめ、そしてヴィクターに、カレルが持つ真鍮缶を持って来るよう言った。


「味見しろよ、ヴィクター」


 普段は聞かない、明るくくだけた調子のレーヴェの声に、ほっと胸を撫で下ろす。


「大丈夫です、レーヴェ様」


 真鍮缶の中身を味見したヴィクターは、別の椀に注いだ薬湯をレーヴェに差し出した。


「確かに」


 薬湯を飲み干した後の椀をヴィクターに返してから、レーヴェはおもむろに、まだ入り口近くでもじもじしているラウドの前に立つ。


「ありがとう、ラウド」


 それだけ言ってから、レーヴェはラウドの髪を乱暴に撫でた。


「丁度良い、またチェスを教えてやろう」


 レーヴェの言葉に、ラウドが頬を紅潮させる。


「はい」


 微笑んだラウドに、カレルはほっと胸を撫で下ろした。


 次の瞬間。部屋の奥にあるチェス盤の方に身体を向けたラウドの背を、レーヴェが持つ短剣が襲う。


「えっ」


 戸惑いの声を上げる前に、持ち前の反射神経で身を捻ったラウドの右腕に血が滲んだ。


「ラウド様!」


 攻撃の手を緩めないレーヴェと、そのレーヴェを呆然と見上げるラウドの間に割って入る。レーヴェの瞳が暗い紅に染まっているように見えた次の瞬間、カレルの身体は横に弾き飛ばされた。


「ラウド様!」


 次にカレルの瞳に映ったのは、レーヴェの腕がラウドの胸に短剣を振り下ろす、無造作にも見える、動作。


「レーヴェ様!」


 血に濡れた短剣を握り締めたレーヴェの腕を必死の形相で止めるヴィクターを見る前に、カレルはありったけの素早さで、レーヴェの足下に頽れたラウドの身体を抱き締め、レーヴェからなるべく遠くへ引き離した。


「ラウド様!」


 身動き一つしない、冷たい身体を、大きく揺する。それでもラウドは微動だにせず、カレルの腕にぐったりと凭れ掛かっていた。


〈……そんな〉


 先程までは確かに赤かった、血の気の失せた頬を、恐る恐る、撫でる。レーヴェの短剣が床に落ちた音も、激しい物音を聞きつけて現れた近衛騎士達の声も、カレルの耳には全く届いていなかった。

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