小さな背中と 3

 空の暗さが、急に濃くなる。


「雪が降るね。片付けないと」


 空を見上げたラウドがそう言った直後。冷たく太い雨が、カレルの頬を打った。


「早く、片付けよう」


 的の方へと走り、辺りに散らばった練習用の矢を拾い集めたラウドの後から、中庭を囲む屋根付きの回廊に避難する。ラウドの濃色の髪も、カレルの少し汚れた白い制服も、冷たい雨に濡れていた。


「何か拭くものが、いるね」


 カレルの髪を見上げたラウドが、回廊横の小さな部屋に入る。部屋から出てきたラウドの両手には、手拭いが二枚。


「ここが、私の部屋」


 手拭いの一つをカレルに差し出したラウドが、部屋の戸を指し示してにこりと笑う。北側の、小さい部屋。ここからも見える、南側にあるレーヴェの部屋と比べて、あまりにも侘びしすぎる。カレルはそっと、ラウドを見つめた。新しき国を統治する獅子王には、正妃と副妃、二人の妃がいる。王太子レーヴェは正妃の息子、そして第二王子ラウドは、副妃の息子。その違いが、与えられた部屋の違いなのだろう。カレルはそっと、息を吐いた。華やかで横柄なレーヴェと、ただ静かに、そのレーヴェに従うラウドとの。


「服も、着替えなきゃね」


 そう言いながら、再び、ラウドが自分の部屋に入る。そして両手に白い上着を持って現れたラウドに、カレルは慌てて首を横に振った。


「上着は、従者達の詰所に余分がありますから」


 ラウドが持ってきた上着は、新品らしく、輝くような白色をしていた。差をつけられているとはいえ、それでも王子らしく厚手で上等な布地の服を誂えてもらっているのだろう。そのような上等の上着を、カレルのようなみそっかすが使うわけにはいかない。


「なら、早く行って着替えないと」


 手早く上着を着替えたラウドが、カレルの腕を強く引く。カレルとラウドは並んで回廊を進み、王太子レーヴェに仕える従者達が使っている、王宮南側の大きめの部屋に入り込んだ。もちろん、カレル以外の従者は皆王太子レーヴェとともに遠乗りに行っているので、部屋はがらんとしている。


「あ、これ」


 用意されている予備の上着を部屋の隅にある長持から取り出したカレルの耳に、物珍しそうに辺りを見回していたラウドの明るい声が響く。顔を上げると、ラウドは、年上の従者達が時折遊んでいるチェス盤の前で顔を綻ばせていた。


「王太子殿下が従者達と遊んでいるの、見たことある」


 そう言いながら、ラウドは駒を手に取り、時々首を傾げながら駒を初期状態に並べていく。


「カレル、ルール知ってる?」


 そして。何とか駒を並べ終わったラウドの言葉に、カレルは曖昧に頷いた。チェスなら、他の従者達が対戦しているのを何度か見ている。駒の動かし方も、多分、分かる。盤を挟んでラウドの向かいに座り、カレルは小さく駒を動かした。と、その時。


「その動かし方は、違うぞ」


 傲慢な声が、耳を打つ。顔を上げると、何時の間に遠乗りから戻ってきたのだろうか、王太子レーヴェの大柄な影が、ラウドとカレルの目の前にあった。


「王太子殿下」


 兄であるレーヴェを見て目を丸くしたラウドが、立ち上がって頭を下げる。


「チェスをやりたいのか、ラウド?」


 あくまで横柄なレーヴェの言葉に、ラウドは目を輝かせ、そしてこくんと頷いた。


「なら、教えてやらないこともない」


 ラウドを見たレーヴェは、そう言って、カレルを押しのけてラウドの向かいに座る。そして。


「『兄上』と呼んでくれたら、だがな」


 意外にくだけたレーヴェの言葉に、カレルははっと、少し目を細めてラウドを見るレーヴェを見つめた。そういえば、ラウドは兄である王太子レーヴェのことを『兄』と呼んではいない。常に『王太子殿下』と呼んでいる。遠慮、なのだろうか。カレルはそっと、ラウドを見た。


「え……」


 レーヴェの言葉に、ラウドも戸惑っているようだ。駒を動かそうとした手を止めて、レーヴェを大きな瞳で見つめている。


「でも、王太子殿下は王太子殿下、ですから」


「その遠慮は、いらない」


 不機嫌そうな口振りでそう言ってから、レーヴェは駒の動かし方をラウドに教えた。ラウドを教えながらの、レーヴェとラウドの対戦を、じっと見つめる。考えに詰まるのか、時折小さく呻くラウドに、カレルは内心はらはらしていた。傲慢なレーヴェをラウドは怒らせてしまわないだろうか。その感情だけが、ラウドを見守るカレルの心を支配していた。

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