第3話 連想ゲーム
第零章
昨日久しぶりに染め直した髪を左手で弄りながら、彼は紙と向かい合っていた。紫がかった黒髪は、目立たないけれどまじまじと見つめれば透き通るような美しさを見せる。クラスには茶色や金色に髪を染める生徒もいて、それも黙認されているけれど、彼はこの色が好きだった。数ヶ月に一回染め直さないと色落ちして茶髪のようになってしまうとしても。
教室は未だ帰らない女子生徒数人の話し声がかしましく、遠くからは吹奏楽部のパート練の音、サッカー部の指示を出す声なんかも聞こえたものの、彼はそれを気にしない。集中するのは得意だった。窓際の後ろから二番目の自分の席の椅子に足を組んで腰掛けたまま微動だにしなかった。
「ツユ」
開いたままだった教室の後方から茶髪の青年が駆け込んできた。
「ツーユ」
ツユと呼ばれた紫髪の青年は動かない。無視しているのではなく、気がついていないようで、茶髪の青年は心得たように青年の前の席に座ってツユの目の前で手を振った。
「ん、なに?」
「バスケの試合一人足りないんだ。来ない?」
「や、今日はバイトなんだよ。あと十分くらいしたら帰る」
「あー、今日はその日か。今は何してんの?」
茶髪が紙に書かれた文字を見る。それは進路希望調査票だった。志望する大学や、専門学校、職業を書く用紙。今日のホームルームで配られたものだった。けれども空白には名前以外まだ何も書かれていない。
「ふーん、ツユは悩むタイプなんだ。俺はもう書いたぜ」
「サトウと俺を一緒にするなよ。お前は前から語学が強い大学が良いって言ってたもんな」
「まあな。色んな国に行ってみたいと思ってるし」
茶髪の青年、サトウはにっと笑う。
「ツユは? 何がやりたいとかないのか?」
「……バスケ、戻らなくていいの?」
ツユは明らかに話を終わらせようとしていたが、サトウは「どうせ今戻っても誰も助っ人見つけられてないよ」と軽く流す。ツユは肩をすくめた。
「ないわけではない、けど。大学でそれを専門的にやりたいほど好きかと言われると分からないから、進学するかも迷ってる」
サトウは眉を少し上げたが、すぐに軽い調子でこう言った。
「進学はしとけよ。お前頭良いんだし。金も貯めてはいるんだろ」
ツユは曖昧に頷く。
バイトを掛け持ちして金を貯めているのは進学のためではなかったが、特に否定はしなかった。
やりたいことがないわけではない、というのは実のところ本当の言葉ではなかった。すごくやりたいことはあったが、それには特に大学に行く必要はなかったのだ。
「別に、入る前から好きである必要はないじゃんか。それに、悩むってことは好きってことだろ。仮にもっと好きなことが出来たら編入したり再受験したりできないわけじゃないんだし、やらずに後悔よりやって後悔だろ」
サトウの言葉にツユは微笑んだ。
「なに、俺変なこと言った?」
「いや、昔お世話になった人にも同じようなこと言われたなと思って」
サトウは安心したように息を吐いたが、すぐに好奇心をあらわにして「どんな人?」と問う。
「ツユ、あまり人の言うことを聞く印象がないから意外だ」
「そんな頑固に見えるか? 別に俺は普通だよ」
そう言いながら、ツユは頭の中で思い出を再演する。
そのまま話すにはあまりにも濃く、どうしようもない記憶だった。
「あなたの御家族が事故に遭われました」
そんな言葉を聞いたのは中学三年生の夏休みの夜だった。受験が控えているから一人家に残っていたツユと、彼を残して二泊三日の旅行に行った家族。父、母、そして弟。彼らは全員、乗っていた車ごと潰れて死んだらしかった。
その知らせは、呆気ない電話ひとつで告げられ、彼は結局旅行先に近い病院にその日のうちに行って家族だったらしいものを見て、同じく連絡を受けて来た叔母と一緒にホテルに泊まった。
必要なことは全て叔母がやってくれて、全ての出来事は流れるように過ぎ去った。結果的に彼は家を離れて叔母夫婦の家に移ることとなった。ある程度の金は残され、叔母は親切で常識のある大人だったので、それらを彼の銀行に入れ、実の子のように彼の面倒を見た。
何不自由ない生活が戻ってきた。
心に穴が開き、空虚な悲しみで満たされた。
予想できない衝撃が訪れた場合、それが自分にどうしようもないことであっても「ああすればよかった。こうすればよかった」と後悔の可能性を頭の中で模索することがある。彼も最初はそうだった。
自分も受験勉強なんて置いて一緒に旅行に行っていれば。何かに気づけたかもしれない。運転している親に注意できたかもしれない。
それか。
一緒に死ねたかもしれない。
……。
どの可能性も、夢物語に過ぎない。どうしようもない話だ。
次第に彼はそう思うようになった。中学生ではあったけれど、現実主義者かつ世の中を俯瞰して見ることが出来たから、彼は自分が不幸に浸ることを許さなかった。
そして、彼は受験勉強に戻った。
計画を立てて計算をして教科書を読んで暗記してノートを買って過去問を解いて模試を受けて復習して予習して。
それでも休息の時間は必要だ。今まで彼はリビングで親や弟と話すのを息抜きにしていたけれど、それはもうできない。叔母夫婦は優しいけれど、愚痴や勉強の話をできる気はしなかった。友達と話そうかとも思ったが、みんな勉強に邁進している時期に連絡を取るのも迷惑だろうと思われた。
だから、彼はインターネットに触れる時間が増えた。どこかの学生の面白い日記をブックマークしたり、ユーモアと鋭さを兼ね揃えたSNSアカウントにいいねをしたり、掲示板でどうでもいいことでレスバトルをしたり。
やがて彼はチャットルームに流れ着く。匿名の名前で適当な部屋に入って、その時いる人と何となく話をする。掲示板よりは穏やかな人間が多く、ルーム名に「中学生集合!」なんて書かれていることも多いから気楽に話せた。
ある日、彼は地理の川の名前の暗記をしながら適当なルームに入った。
「何となくつまらない人用の雑談」という名前のルームで、中にはすでに二人いた。会話は特に盛り上がっているわけではなく、片方がポツポツと今観ているテレビの感想を呟き、もう片方がそれに相槌を打っている風だった。
彼は、自分で考えたハンドルネームを設定して挨拶をした。
露日「こんばんは」
91「いらっしゃい!」
匿名X「どうもー」
匿名X「じゃあ、自分はそろそろ抜けますね」
91「ノシ」
露日「すいません。お邪魔でしたか」
匿名Xが退出しました、とログが流れる。絶対に他人に入られたくないルームにはパスワードがかけられる。そうなってはいなかったから邪魔をしたはずはない、と思いながらも返事を待つ。
91「いや、始めから誰かもう一人来たら抜けるという話をしててね。君が来たから抜けたというのは正解だけど、君が邪魔だから抜けたわけじゃない」
露日「安心しました」
ツユこと、露日はふう、と息をつく。ネットの距離感は難しい。こちらに悪意がなくとも相手が嫌な気持ちになることはあるし、その逆もしかり。悪意があることさえ稀ではない。
91「君も最近つまらないの?」
このルームを立てたのは91というハンドルネームの人らしく、さっきまでのテレビの話はうっちゃってルーム名に関する話をし始めた。
露日「そうですね。自分が何をしたいのかよく分からなくなって」
91「分かるよ。すごく嬉しいことがあっても悲しいことがあっても物事へのやる気がなくなることはよくあることだ」
91は短い時間でチャットルームにしては長文を書いて送ってくる。きっとネット慣れしてるんだろうと露日は思う。
露日「ええ、そんな感じです」
91「ちなみに、嬉しかったの? 悲しかったの?」
露日「悲しかった、かな」
相手は見ず知らずの他人だから、特に躊躇わずに露日は答えた。どうせこの数時間だけの付き合いに気まずさなどは無縁なのだ。
91「じゃあ、その悲しかったことの原因を晴らせるといいね」
はい、と頷けばよかった。でも露日はその原因というものは解決できないものだと強く実感していて、そのどうしようもなさを誰かに話したいと思ってしまった。
露日「いや、どうしようもないことなんです」
露日「起きたことはどうしようもない」
91「そうかな」
91はそこから少しの間沈黙した。退出したのではなく返信を考えているようだ。
91「どうしようもないなんてことはない。解決はできなくても、気持ちが晴れることはあるだろう。無能なら成長すればいい。嫌なことをされたなら、相手が嫌な別のことをやり返せばいい」
91「というのは、まあ建前だけどね。現実的には無理なことの方が大きい」
91のスタンスが分からず、露日はパソコンの前で首を傾げる。
露日「それなら、どうすれば?」
91「その悲しいことを起こした直接の原因を考える。そして、その原因に対してどう働きかければすっきりするか考える」
91「人間は考える葦なんだから、考えて想像するだけで気持ちが晴れることもあるだろうよ」
露日は暫し黙考する。家族が死んだのは事故のせい。じゃあ、その事故はどうやって起きたのか。ぶつかった相手にはどのような原因があったのか。他にも事故の要因はあったのか。
思えば、それらのことは何も知らなかった。いや、まるっきり知らないわけではなかったが、何となく頭にいれないように、残さないようにしていた。
露日「考えたことがなかった」
91「じゃあ、考えてみなよ。人間、つまらないと感じるのは頭のどこかのスペースが余ってるからだ。全てを思考に回せば暇もつぶれる」
露日「ありがとうございます」
91「いや、オジサンの説教みたいになって悪いね」
露日「いえ。今から考えてみようと思います」
お世辞ではなく、本当にそう思っていた。
91「俺はだいたいこの名前の部屋にいるから、何か気づいたらまたおいで」
挨拶をして、露日はそのルームを抜けた。
勉強でも分からない問題があれば、自分の知識の何が抜けていないか考える。悲しい出来事に対してもそうすればよかったのだ。知らないことは不安を呼び起こすが、全てを知れば怖くはない。
そうして、露日は事故について少しずつ調べるようになった。
新聞や週刊誌のバックナンバー、ネット記事を調べたところ、分かったことは三つあった。
家族の乗っていた車に衝突した車は、信号無視をして直進した結果、家族の車の横っ面に突っ込んでいた。運転手はエアバッグで無事であり過失運転致死に問われたものの、同乗者は特に罰せられていない。
事故現場は海沿いで、目撃者は付近を歩いている人ひとりだけだった。その人は関わりたくないと思ったのか事故直後はどこかに行ってしまって、防犯カメラの映像から参考人として呼び出されて後日証言をした。
また、同じく防犯カメラから家族の乗っていた車が猛スピードで走っていたことが分かったらしい。ドライブレコーダーから後ろから別の車が近距離でついてきており蛇行運転を繰り返していたことから煽り運転の被害にあっていたと分かったが、その車の運転手は起訴されている。
つまるところ、家族の乗っていた車は後続車から煽り運転にあい、引き離すために信号が青になってから猛スピードで発車したところ赤信号を無視して直進した車にぶつかられ、人通りの少ない場所であったため目撃者が一人しかおらずその一人が立ち去ったことから発覚が遅れて死亡につながったということらしい。
煽り運転をしなかったら、信号を守ったら、通報してくれたら。
要因が明確になったところで心は晴れなかった。怒りと戸惑いが形を持って現れたもののどうしようもないという諦めが勝った。示談や裁判関係の手続きはすべて叔母に任せきりで、自分は手を出せない。目撃者と煽り運転についてはもう決着がついていてどうしようもない。
情報収集で一瞬感じなくなった「つまらなさ」は、大きなものになって帰ってきた。どうしようもないことを突きつけられたせいで。自分の無力感を直視したせいで。
そして、露日はあのチャットルームを思い出す。ひとときだけでも「つまらない」を忘れさせてくれた存在のことを。
露日「あの、一ヶ月前くらいにお話ししたものです。その節はどうも」
91「ああ、覚えてるよ。また来てくれてどうも。原因は考えられた?」
「何となくつまらない人用の雑談」は91ひとりだけで、91はすぐに返答してくれた。
露日「覚えてたんですね」
91「まあね。記憶力はいいんだ」
露日「考えました。でも、原因に対して俺は何も出来そうになくて。もう全部過ぎたことだから」
91「別に、過ぎたことだからと言って打つ手がないということはないと思うけど。もう少し詳しく聞かせてくれるかな」
露日は逡巡する。自分の身に起きたことを人に言うことには抵抗があった。会話の一部として明かせば同情されそうだから。反応に困りそうだから。でも、この91という人はそうしないだろうというなんとなくの確信があった。そもそも会話の一部ではなく「その話」として扱うぶんには問題内容にも思えた。だから、露日は正直にこう書いた。
露日「家族が事故で死にました。事故の原因は複数あって、複数の人が関わっていて、一部にはもう決着がついていて俺にはどうこうできないです」
91「……」
書き込み中のマークが出ては消え、一分ほど経ってから返信がきた。
91「できるよ」
露日「どうやって」
91「自分の手で復讐すればいい」
露日「どうやって?」
復讐という言葉の意味は知っている。相手にやり返すこと。でも、どうやって? 自分は裁判官なんかではない。自分に裁く権利はない。
91「復讐のゲームって知ってる?」
どこかで聞いたことがある気がしたが思い出せなかった。ネットでちょっと目に入ったか、そのくらい。
露日「知らないです」
91「復讐のゲームは民間人による私刑である」
91「まあ、要するに裁判じゃ自分の望むような罰は与えられないから自分の手で裁いちゃおうって話だよね」
私刑。
でも、そんなこと許されるのか。
それは明らかな罪だ。
露日「そんなこと」
91「最近、レンタルスペースでの集団殺人の報道が多いとと思ったことはないか?」
記憶を探る。確かに、多いかは分からないけどここ一ヶ月でも三件くらいあった気がする。数年前はそんなことなかったはずだけれど。
91「一部の情報を持っている層の中では周知の事実だ。お偉いさんとかの楽しみの一部でもある」
露日「私刑って、何をするんですか」
91「罪人を集めてゲームをさせて、勝った人は無事に帰す。負けた人は相応しい罰を受ける。それだけだ」
露日「そんなことして、捕まらないんですか」
91「うん。だいたい呼び出された悪いやつは薄暗い事情を抱えている。それを世に暴露するのと復讐のゲームの存在を通報するのは等価交換だからね」
脅迫のように思えた。けれど、悪いことをしたならそのくらいされても当然だとも思えた。
露日「じゃあ、ゲームって何をするんですか」
91「ゲームらしいことなら、なんでも。ポーカーでも鬼ごっこでも」
そんなふざけたやり方でいいのか、と思うのもを見透かしたように続けてこんな文面が返ってくる。
91「でも、相手に勝ち負けという猶予を与えるんだから奴らがしたことよりは温情があるだろ?」
何が起きたのか分からず死ぬこと。悪いことをしていないのに命を奪われること。それに比べれば確かにぬるいようにも思える。
でも、でも……。
91「きみは悔しくないのか? 悪いことをしたやつがのうのうと生きているのが。どうせ誰かは罪を裁く必要があって、法律や警察に任せちゃどうしようもないんだ。それなら自分がやってもおかしくない、むしろ自分がやらないと、と思わないか」
91「きみは理性的な人間だ。感情に囚われず原因を見つめることができ、それらを単純化して考えることまでできる。復讐はそういう人にこそ相応しい。今までたくさん苦しんできただろう。悲しみを自分のもののように他人に扱われたことがあるだろう。でも同情になんの意味がある? 他人の不幸に酔いしれる行為がきみに何を与える? 何もないだろう。それじゃあ、きみの受けた不利益を他人が裁くことについてはどう思う? 誰もきみが何をどう感じたか知らないのにどうして普遍的な方法で罪を与えることが正解だと言える? なあ、なあ、きみはそれで満たされたかい?」
いいえ、と露日は呟く。
何も満たされなかった。システマチックに世の中は進み感情は置き去り。ただ現実を受け入れる以外に方法はないと思っていた。
でも、他に方法があるのなら。自分の手でそれをいじることができるなら。少しくらい相手に痛い目を見せたっていいのではないか。
俺の気分を晴らすために。
91「露日くん。もしきみに興味があるなら、明日の十九時にこの番号に電話してくれ」
電話番号が送られてきた。固定電話のものだろうか。露日はそれをメモする。
露日「メモしました」
91「うん。もう五分後にこのログは消えるから」
露日「え、消えるって?」
91「じゃあおやすみ。待ってるよ」
91さんが退出しました、と通知が流れた。
露日は深呼吸をしてからパソコンをシャットダウンする。
知られたらまずい内容だったから消すのだろうか。でも、ルームを消してもサーバーに残された内容までは消えないはずだ。それはどうするんだろう。チャットルームの責任者なんかにバレたらこちらの登録したメールアドレスまで割れるかもしれないのに。91はそんな迂闊な人間か? そうは思えなかった。
もしかして、チャットルームも実は91本人が作ったものだったりして。それなら第三者に見つかる可能性は更に低下する。そんな大がかりなことする意味あるのかは分からないけれど。
スマホで「復讐のゲーム」について調べてみると、ネットロアをおもしろおかしく書くようなサイトにちょくちょく載っていた。
復讐のゲームが最初に行われたとされているのは二◯一三年。ネット掲示板に「ずっと恨んでたやつ五人に復讐するけど質問ある?」というスレッドが立ち、そこではスレ主が五人を集めてゲームをやらせる計画を立てていることが語られていた。どうやって集めるか。ゲームのシステムはどうするか。いわゆる頭脳戦が好きな掲示板の住人が積極的に意見を出し、計画は細部まで練られた。そして実行当日。「行ってくる」という投稿を残してスレ主は二度とそのスレに戻ってこなかった。
それから、SNS上で「復讐のゲーム」をやるという投稿がされたこともあったが、どれも実際に行われたかは定かではなく、一時期は都市伝説のように扱われていた。
それが本当に行われていることが明らかになったのが二◯一七年の目黒事件。容疑者である目黒燿子は貸し会議室で三人の人間の腕を切って失血により死亡させた残虐な事件だが、裁判で目黒はこう言った。自分が行ったのは「復讐のゲーム」である、と。会議室に残された三本の包丁には、それぞれ付着した血液とは違う人物の指紋が持ち手についていた。それは、目黒は手を汚さず三人が自分以外の人間の腕を切ったことを意味していた。他にも残されていたトランプを見るに、三人はババ抜きをしていて、負けた人間の腕を切り落とすというルールだったのだろうと警察は考えたようだが、目黒は拘置所で自殺したためその真偽は明らかになっていない。
それから、ポツポツと、一年すると爆発的に「復讐のゲーム」をやった逮捕者が増加した。彼らはみんな復讐を望み、自分の人生を捨てていた。
警察は「復讐のゲーム」殺人の報道は潜在容疑者を感化させてしまうと考え、マスコミへの報道を禁止した。こうして、現在は「復讐のゲーム」は再び語られない現象となり実態は不明となったのだった。
露日はページを消去すると、思考をやめてベッドに横たわる。どこから手をつけて考えればいいのか分からなくなった。眉唾物の情報しかなく、情報が揃っていない状態で考えたところでどうしようもない。
うなって、文庫本を適当に手に取る。重く大きなことを考えないようにすると、思考の隙間に簡単に考えられる嫌なことが入り込んでくる。そうならないためには常に何かしらの情報を頭に入れる必要がある。そういう点で小説は打って付けなのだ。
翌日。夏休みが終わり学校は始まっていたが、放課後は特にやることもないので家に帰って受験勉強をして十九時を待った。叔母の家の夕食時間は共働きの叔母夫婦が帰ってくる二十時頃からだから、電話をしても誰かに聞かれる心配はない。
それでも、露日は心配になって家を出て駅前の公衆電話に向かった。十円玉がどのくらい必要なのか分からなかったので、あるだけ持ってきた。
そして、電話をかける。
コール音が2回鳴り、すぐに受話器は取られた。
「合言葉は?」
「え、そんなもの知らない」
露日がとっさに答えると、
「正解だ」
笑いを含んだ声がそう応対した。
「露日くん、だね」
「91さんですか」
91は読み方を「きゅうじゅういち」ではなく「きゅーいち」だと訂正した。明るくどこか軽薄な感じの男の声だった。しわがれた声ではなく、自分のような若さも感じない、年齢不詳の声。
「さて、きみは復讐のゲームに興味があるということでいいかい」
「……まあ」
「うん、決めかねてるって感じだね。いいさ、じゃあ何個か事例を説明して考えるといいよ。今は時間ある?」
「あと一時間で親戚が帰ってくるので、あまり長い時間は難しいです」
駅前の公衆電話だからもしかすると鉢合わせする可能性もある。それに気づいて露日は自宅で電話した方が安心だったかもしれないと思ったものの、電話番号を教えるのは怖いからしょうがないと気を取り直した。
「じゃあ、いつなら話す時間があるかな」
「放課後か土日ならいつでも」
「うん。……今日は金曜か。じゃあ明日でもいいかな。時間は十三時、場所は都内でも構わない?」
「はい」
露日のいる場所は都内ではないが、電車で一時間もすれば行ける距離だった。叔母夫婦には友達と勉強をするとでも言っておけばいい。
「じゃあ渋谷のマックの二階で。窓際のテーブル席でチキンナゲットとパンケーキを食べてるのが俺だからよろしく」
露日は頷く。行ったことない場所で不安だったが、そうとは言えない雰囲気があった。91の口調は親しみやすかったが、一歩横道にそれればこちらを見捨てるような薄情さも感じた。
「露日くん。きみは素質がある。じゃあまた明日」
どういう意味か聞き返す前に電話は切れた。素質って、何の素質だろう。
それに、知らない人、特にネットで知り合った人には簡単に会わない方がいいと散々言われてきたが、本当にこんな約束してよかったんだろうか。露日は罪悪感に後ろめたくなったものの、まあどうでもいいやと思った。特に失うものはないのだ。
渋谷という場所に来たのは初めてかもしれなかった。親に連れられて原宿に行ったことはあったけれど、渋谷は来た記憶がない。名前はよく聞くから身近に感じていたもののそれは錯覚だったらしい。ハチ公前に降り立ち、スマホの地図を頼りにファストフード店にたどり着く。地元と同じチェーン店のはずなのに人気店のように客が多かった。そして若い。露日は食べ慣れたエッグチーズバーガーのセットを注文し、トレーを持って二階に向かった。スツールの席とテーブル席がいくつか。窓際の方にゆっくりと近き男性を探すが、サラリーマンから制服姿の学生までいて性別だけじゃ探せないことがすぐわかった。
チキンナゲットとパンケーキ。そんな普段食べないような組み合わせをテーブルに並べた人間を探す。
高校生、違う。
メガネをかけた年配のサラリーマン、違う。
茶髪に緑色のガラスの眼鏡をかけた男性、チキンナゲットとパンケーキ。
この人なのか。他の人を一通り見るも、そんな注文の仕方をする人は一人もいなかった。男はパンケーキをピックで小さくちぎってチマチマと食べている。怪しいというか少し怖い服装のわりに食べ方は小動物じみていた。そこに親しみを感じ、露日は持っていたトレーを向かいに置くより前に「91さん?」と問いかけた。
「うん」
男はにこりと目を細めて綺麗な弧の形にして笑った。
軽薄な身なりなのに、こんなに美しく優雅に笑う人には初めて会う、と思った。
目の前に立つ少年が待ち合わせの相手だと一発で分かった。
何せ目が死んでいる。不幸にあった直後の人間の目は大体こうだ。不幸の真っ最中ならグルグル渦巻いてるし、不幸の訪れを感じているなら執着でキラキラ濡れているが、不幸の後は何も残らない。空っぽのウロ。
警戒させないように俺は意識して笑みを浮かべて自分の前を指した。少年は軽く頭を下げて向かいにトレイを置き座る。エッグチーズバーガー。俺はそのくらいの歳の時はテリヤキが好きだったなと思い出す。
「その、ゲームについて聞きたくて」
バーガーを無言で完食し、ポテトだけ残した状態で少年、露日は切り出した。俯いて視線はポテトに。俺と向き合うのはまだ怖いらしい。やっぱり緑のグラスはやめておいた方が良かったのかもしれない。でもこういう用件なんだから仕方ない。
「ん、じゃあこれ聞いてみて」
俺はスマホに刺さったイヤホンを片耳だけ差し出す。露日は首を傾げつつも受け取り耳に差し込んだ。俺は片耳を自分の耳につけてからドライブに放り込んでおいた音源を再生する。
「えっと、私の娘は昨年いじめを苦にして自殺しました。加害者の生徒は明らかだったんですけど、文章とか動画とか明らかな証拠がなくて厳重注意と数日の停学で学校で内々に処分されるだけで終わりました。それで反省しているなら頑張って許そうと思ってたんです。でも、でもですよ、またいじめをするなんてありえないですよね。じゃあ私の娘はなんだったんだろうって。でも部外者の私が告発しようがない。告発したところでまたどうせ軽い処分で終わります。それならいっそ、もっと痛い目にあって分かってもらいたいと思って。それで、たまたまSNSであなたがたを見つけて依頼をさせていただきました。ええ、ええ、満足ですよ。最初に娘について聞いた時彼女らは『いじめられる方の運が悪い』なんて言ってましたよね。そんな彼女たちにあっちむいてほいをやらせて負けた人から殺していく。すごくスカッとしました。運が悪かったですよね。本当に。相手の母親がこんなのなんて思わなかったでしょうね。あ、だから何を言いたいかというとあなたがたには感謝しています。ええ、本当に」
四十代、主婦の声である。聞いている間露日は唇を開けたり閉じたりしたが何も声は出さなかった。音声が終わると、初めて俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「あの、これは本物なんですか」
動揺の色は混ざっているが怯えはない。俺は意識的にまた優しく優雅に微笑む。
「うん。復讐のゲームを希望した依頼者の声だよ」
「依頼者……」
知らない英単語を聞いたように、露日はリフレインする。そう、まずはそこから説明しなければいけない。
「そもそも、復讐のゲームについてはどのくらい知っているのかな」
露日はネット上で得られる情報については把握しているらしく、報道規制のところまで歴史を語った。答え合わせを待つ生徒のように俺を見る。でも虚な目には正解を願うような期待はなく、生徒というよりかは模範囚のようかもしれなかった。
「うん、合ってるよ。復讐のゲームの存在は今はまた隠されるようになった。でもそれが復讐への欲求を減らすことにどうしてなる? ゲームはひっそりと今も行われている。その中には捕まる人もいるし捕まらない人もいる。
「そして、中にはそこに商売機会を見出す者もいる。復讐をする上で一番ネックになるのは情報と技術不足だ。どうやって呼び出すか、どこなら呼び出せるか、ゲームのシステムはどうするか、どうしたら相手を苦しめられるか、そして終わった後の始末はどうするか。初心者には分からないことばかりで、口封じに失敗して通報されることが一番多い。
「じゃあ、その情報と技術を兼ね備えた人間が復讐希望者に協力する仕組みを作ればいい。ギブアンドテイクで、向こうからは金をもらってこちらは情報と技術を提供する。対象者の弱みを握ることで相手を呼び出し、管理がずさんだったりこちらと繋がりのあるレンタルスペースに集め、フェアなゲームを考え、死体を始末するか、更に弱みを握って口をつぐませる。これが簡単にできるようになる。そして、そのための組織が作られた。
「俺は、その組織の一人だ。俺ならきみに最高のゲームの作り方を教えてあげられる」
人が多い店内は、話し声でどんな密談でもかき消せる。不穏な内容でさえ、この空間では何かのシナリオを話しているかのような軽い空気で打ち消せる。俺は声をひそめることなく堂々と事実を説明した。
緑色のレンズの向こうには脂に汚れた手を仕切りにペーパーで拭う少年の仕草が見えた。神経質で潔癖そうな振る舞いは可哀想なほどで、俺は心から彼を救ってやりたいと思う。
「でも、俺、お金なんてないですよ」
現実的な否定が繰り出されて俺は笑みを深くする。心情からこの申し出を突っぱねることはできないのだ。自分にはどうしようもない事情を持ち出すことでしか彼は抵抗できない。
「まあ、いいよ。中学生に借金させるほど鬼じゃないし、未来の後輩への投資ってことで」
「後輩って、俺はそんなことをし続けるつもりはなくて……」
露日は俺の機嫌を損ねないように答えようとしたものの、本音が口をついてしまったようだ。
「うんうん、分かってるよ。でももしかしたらやっているうちに後輩になりたいと思うかもしれないじゃない。可能性はできるだけ育てたいじゃん」
そう言うと露日は否定できないようでうつむいてポテトを口にした。
「俺、俺は……」
「うん?」
「自分で罪を犯してまで、リスクを背負ってまでそんなことしていいのか、分からないです」
この少年は純粋な中学生なのだ。社会の価値を鵜呑みにして苦しむ弱い魂。大人のように、自我を通さないとどうにもならないという無力感は味わったことがなく、突然の不幸に我慢だけで対抗しようとしている。
「じゃあさ、とりあえずやってみるっていうのはどう?」
「そんな、急にやってみるなんて、そんな気軽に」
「ん、そうじゃなくてね。まず計画を立てるだけ立ててみようよ。相手がどんなやつでどうやったら呼び出せるか。そしてどんなことをしてやりたいか。空想も想像も自由だ。好きなだけ想像して、それから実現したいか決めたらいいんじゃない?」
露日の喉がこくりと動いた。
だめ押しにもう一言。
「嫌になったらいつでも戻れるよ」
沈黙。それは数分続き、
「やめられるなら、やってみます」
彼の首は縦に振られた。
下を見ているじっとりとした暗い目を覗き込む。何かに時間を割くことで楽になりたいという思いの端が見て取れた。それをソースに、ナゲットの最後のひとつを口に放る。
本当に忘れたいのなら、逃げないのなら、こんなところに来なかっただろう。今は本心を認められなくても、いつか彼は自分の望みに気づき、向き合う日が来るはずだ。
「うん、分かったよ」
俺が優しく言うと、彼は表情を緩めた。といっても、眉が弛緩した程度だったが。
「お寺の人とかなんですか?」
唐突で脈絡のない問い。
「なんで?」
「話し方が説法っぽいのと、なんだか線香みたいな香りがするので」
その答えを聞いて俺は苦笑する。
「違うよ。話が説教くさいとはよく言われるけどね。匂いに関しては、単に香水」
話し方が一見理屈っぽいものの、その論理立てには大幅な飛躍があると大学時代に指摘してきたのは誰だったか。その人は確かこうも言った。
「お前は宗教家か詐欺師が向いている」と。
それから、露日のMサイズのジュースがなくなるまでの間、復讐をしたい相手の素性を調べるヒントを与えた。
「一番楽なのはネット掲示板だ。世の中には安全なところから正義漢ぶりたい自称探偵がたくさんいる。地名とキーワードを入れてやれば、その事故について話して加害者の私生活を暴こうとするスレッドが見つかる可能性は十分にある。あまりおすすめはしないけれど『交通事故加害者スレ』なんてのもあるから、必要に応じて見てもいいかもね。次点でSNSもいい。公開アカウントで写真や個人情報を垂れ流しにする馬鹿もこれまた多いからね。それで、直接的な加害者、煽り運転をしたドライバー、目撃者をそれぞれ探す方法だけど、実際に捕まった人間を探すのは簡単だ。本名は報道されるからそれでネットサーチをしてやればいい。その人を知る人が好き勝手言ってるのは簡単に見つかる。難しいのは目撃者だが、もしかするとSNSで日時指定をしてから『事故』『見ちゃった』とかでサーチすれば愚かな自白をしている人が引っかかるかもしれない。もしダメなら裁判を傍聴しに行けば証言者として発言しているその人や、出廷しているかもしれない容疑者に会えるんじゃないかな。日程は決まってるの?」
露日は十月の中旬だと言った。
「それなら、その日まではインターネットを使って分かる範囲で情報を集めてみなよ。次は裁判の日にでも会おうか。進展があったら聞かせてくれ」
露日は顔を上げて頷いた。そして、荷物はそのままに立ち上がって自分のと俺のトレイをまとめて片付けに行った。やはり、どこか無気力というか、入力された内容以外は出力されない機械のような頼りなさを感じる。何も考えていない気の抜けた人間には思えないから、意図してどこかの機能をオフにしているのだろうと思った。
悲しみの中で麻痺した感覚を癒すための防衛機構なのかもしれない。頭を空っぽにすれば無駄に考えずに済む。今までのクライアントもそんな人間が多かった。こちらに頼りきりにしたいというか、責任を押し付けたいから消極的な振る舞いをする人もいたけれど、彼はそこまで打算的には見えない。その虚に復讐を詰め込むのは、果たして許されることなのか。
黙々とトレイを片付ける露日の背中を目で追っていると、くるりとこちらを振り返り目が合った。不思議そうに首を傾げられ、俺はいつもの笑顔を浮かべる。
俺は、許されると思う。虚を復讐が占めるのは一瞬だ。復讐が終われば再び空になって、底に新たな楽しい諸々を詰め込める。でも、復讐を入れずに虚が自然に満ちるのを待つならば、そこには悲しい気持ちばかりが集まって、それを土台にして立つ今後の人生も、その悲しみが基盤になってしまう。そっちの方が大問題だ。復讐が復讐を生むから復讐なんてするものではない、という言説も理解はしているけれど、それで我慢したって救われなきゃ意味が無い。復讐の連鎖なんて大局的なものなんて俺には扱えないから、近くにいる人が良い思いをすればそれでいい。
「トレイ、片付けてくれてありがとね」
露日は首を振る。
「気をつけて帰って。何か分かったらいつでも電話かメールしていいから。電話の時は公衆電話で自宅から離れたところからがいいよ。下手にランダムに場所を選ぼうとすると自宅から同心円状になって結果自宅の位置が明らかになったりもするから気をつけて。メールの場合は捨て垢作っておいてね」
一枚だけ手元に残しておいたナプキンにボールペンでアドレスを書き込んだものを渡すと、彼はそれを折り曲げてズボンのポケットに入れた。
「…………なんで、そんなに親切にしてくれるんですか」
二人で店の外に出たところでぽつりと彼は呟いた。
「なんで? なんでって、目の前の人が不当に苦しむのは見たくないじゃない。百年くらいの短い人生なんだし、精一杯楽しまないとね」
俺の言葉に、露日の反応は不可解そうに眉間に皺を寄せた。無意識なのか、隠すつもりはまるでなかった。
「百年は、十分長いと思いますけど」
ちょっと的外れな返答のみして、露日はそれから黙りこくってしまった。駅まで黙々と歩き、露日が改札に入るのを見送ってその日はお開きとなった。
それからしばらくして、露日からメールが来た。ビジネスメールだと文頭に宛名があり、「お世話になっております」などの挨拶から始まり、「今後ともよろしくお願いします」で締められるものだが、中学生らしく第一文目から文面が始まっていた。
『それぞれの人について、調べられる範囲で見てみました。
・追突した人と同乗者:加賀智紀(運転者)、その他大学生
一台の車に乗りサークル旅行中、赤信号に変わった直後に無理に直進したところ家族の乗る車に衝突。運転者の名前はニュースで公開されている。名門大学の生徒だったこともあり、週刊誌に学校名(東都大学)や所属サークル(東都マリン愛好会)が書かれていた。サークル自体はかなり飲み会が活発な旅行サークルらしく、週刊誌では飲酒運転の可能性も書かれていたが、そのような報道はないのでそれはデマだと思う。サークルアカウントのフォロワーに加賀智紀のものと思われるアカウント「かがとも」があったが、鍵アカウントになっており中身は見えない。サークルアカウントもこれを書いている現在は鍵アカウントになってしまった。
・煽り運転をした人:折谷明石
煽り運転の前科のある三十七歳。名前や前科はニュースで公開されている。古い外車に乗っているためその界隈では有名で、オフ会などにも出ていたらしく掲示板でも素性に関する書き込みが多くあった。粗雑かつ高圧的で、自分の車を自慢する一方相手の車は貶すタイプだったらしい。車を買うためにかなりの借金をしているという話もある。
・目撃者:なしみ(HN)
メガネをかけた女性と思われる。ニュースなどで名前は出ていない。SNSでキーワードと時間範囲を設定した検索をしたところ「交差点で事故見ちゃった。どうしよ」「帰ってきちゃった」という投稿がヒット。その後フォロワーに「警察に通報したほうがいい」とリプライで勧められ、「そうですよね」と返信したことまで確認されている。他の投稿から海沿いの街に住んでいることが察せられ、事故現場も海沿いであることからこの事故の目撃者である可能性は高い。
どの人も保身に走っていたり自己中心的だったりする印象が強く、裁判には来たとしても拘束力のない怪しいゲームに招待して参加するようには思えませんでした。こういう時ってどうやって脅すんですか?』
情報収集力は素直に凄まじいと思った。ちょっとしたネットストーカーなら簡単にやってのけることではあるが、フォロワーを一つずつ洗い、その投稿を精査するには根気強さがいる。それに中学生に馴染みがあるかわからない週刊誌や、掲示板まできちんと見るのは時間がかかったはずだ。それを投げ出さずにやり遂げたのは褒めていい。
それとともに、やはり素人、中学生だとも思った。剛をもって剛を制す。脅すこと以外に相手を従わせる方法を知らない。
『脅す必要はない。結果的に指定した場所に来させればいいだけだからどんな方法でもいいんだよ。例えば、秘密を隠したい人には来なければそれを暴いてやると言えばいい。金が必要なら勝てば金が手に入ると匂わせればいい。押しに弱いのなら何度も押せばいい。最初の裁判の日に答え合わせをしよう』
俺の返信に、露日は第一回公判の日程と、法廷に叔母が行くことから自分はその場にはいられない旨を告げてきた。案の定、彼は親族に全てを隠し通すつもりのようだった。
しかし、彼のようなクライアントは少なくはない。被告人に顔を見られているので会いたくないだとか、警戒させたくないと言う人はそれなりにいる。そういう時にこそ、俺の出番だった。
『じゃあ、俺が傍聴して内容を君に伝えよう。始まる前に店で落ち合って受信機を渡すから、聞きたければそれで内容を聞けばいい。終わるまでそこに待機してくれればいいさ』
裁判を録音することも、外部に垂れ流しにすることも勿論禁止されているけれど。露日はそこにはもう突っ込まずに了承した。
そして、そのやり取りから特に進展はなく第一回公判を迎えた。
「そもそも裁判って、被告が毎回来るものなんですか?」
「いや、人によりけり、場合によりけりだ。紙を提出して行かない人間もいるから絶対見られるとは限らない」
当日の朝、チェーンのファストフード店でそんな会話を交わしてから俺は裁判所に向かった。そして、ツイていることに被告人である大学生ドライバー、煽り運転ドライバーと、証人として訪れた同乗者一人と、目撃者は全員出廷していた。
証言には特に物珍しい内容はなかった。大学生ドライバーは沈痛な面持ちで、赤信号に変わりたての時にそのまま交差点に入り車にぶつかったことを認め、同乗者は「被害者の車は赤信号が緑に変わった瞬間に発車したためそちらも安全確認が不十分だったろう」と言った。煽り運転ドライバーは「煽ったつもりはない」と不貞腐れた。目撃者はおどおどしながらも「明らかに被害者の車は煽り運転に追われて急発進していた」と証言した。
大学生ドライバーの寄与よりも煽り運転の寄与のほうが大きい、という空気の中第一回公判は終わった。
傍聴席には俺と、大学生くらいの男女が一組、そして四十代後半くらいの婦人のみだった。男女はもしかするとドライバーの関係者なのかと思ったが、けろりとした顔で早々と帰ったことから裁判傍聴デート的なやつなのだと判断した。きっと、この婦人が露日の叔母だ。勿論声をかけるつもりはなく、俺もそのまま露日の待つファストフード店に戻るつもりだったが、「すみません」と声をかけられた。
「……はい?」
さすがに今は緑色のサングラスはしていない。服装も地味な灰色のジャケットとスラックスだ。特に呼び止められるような奇抜な振る舞いをしたつもりはない。俺は笑みを浮かべようかと思ったが、その意味は無いと思ってそのまま振り向いた。
「すみません。その、貴方は何故今日ここに傍聴しにいらしたのかお聞きしても?」
「…………」
「あ、あの、私はこの事故で亡くなった家族の親戚なんです」
俺がどう答えようか迷っているのを、不信に思われたと思ってのか婦人はぽつりぽつりと情報を話す。
「その、気にかけてくださる方がいるのかなと思って、気になって。突然話しかけてすみませんね」
婦人は困ったような笑みを浮かべていた。きっと普段はおしゃべりで愛想の良い人なのだと想像がついた。肩までのパーマのかかった髪やふくよかな頬からも、優しげな雰囲気が伝わってくる。
「私は、事故に遭われた方の知り合いではないのですが、新聞でたまたま見かけてどのような裁かれ方をするのか気になって来ただけなんです。物見遊山のようで、申し訳ありません」
「いいえ。……いいえ、そんな謝る必要なんて。興味を持っていただけるだけで、何となくほっとします。やっぱりマスコミなんかに扱われるのは嫌ですけど、このようなことが二度と起きないように誰かの心に残るなら、ほんの少しは救われるような気がします。……私にこんなこと言う資格があるのかは、分からないんですけど」
婦人は俺の額の方を見ていた。何かついているのかと思い、そして気づく。涙が落ちないように堪えているのだった。
「それでは、失礼します」
これ以上無理をさせるのが忍びなく、俺は一礼して外に出た。
裁判所の敷地を出て駅前に向かおうとした時、同じ方面に向かって歩き出そうとする女性が目に入った。背中までの黒髪と、丸い眼鏡。洒落っ気のないこの人は事件の目撃者として先ほど証言をした、梨本仁美という女性だった。多分、露日が調べた「なしみ」と同一人物だろう。その猫背気味な背中に、俺は頭で考える前に声をかけていた。
「梨本さんですね」
「え、はい……」
怯えた様子で振り向く。俺が傍聴席にいた男だとは気づいていない。
「僕はマスコミのものです。交差点の煽り運転事故の証言者としていらっしゃった梨本仁美さんですよね。少々話をお聞きしたいのですが」
口からスルスルと言葉が出てきた。経験を数こなしているからこそ相手から何か聞き出すことは呼吸するようにできてしまう。職業病みたいなものだ。
「でも、私が見たことは全部言ったので」
遠回しに話すことはないと言いたいのだろうが、そんな弱々しくては誰の話も断れない。
「いえ、僕は事件について調べているのではないんです。知りたいのは、事件を目撃したあなたが何を感じたのか。大変ショックだったでしょう。大体は事件の被害者の心のケアというものが重んじられますが、目撃者のショックも相当なものです。でも世間はそれを蔑ろにしがちだ。そうでしょう?」
梨本仁美の口元が緩んだ。
「ええ、そうなんです。私びっくりしてしまって、どうしたらいいのか迷って。それに今も思い出すと眠れなくて」
大人しい印象とは対照的に口がよく回る。喋り好きなのだろうか。
「凄惨な事故でしたものね。犠牲者も複数出てしまいましたし」
「ええ……」
「僕は目撃者の方の苦悩を知り、それを世の中に発信したいと思うのです。ですから、あなた視点のお話をお聞きしたいのですが、いかがでしょう」
「全く構いません。人に話しても全く私の苦悩を分かってもらえなくて、きっと同じように苦しんでる方はいると思うんです。なのでぜひ」
やっと聞いてくれる人が現れたと言わんばかりに嬉しそうな顔を見て俺は法則を悟る。この人は自分の話については饒舌だが、事故自体には特に語るべき思い入れがない。最初は力がなかったその目は悲劇につかった色をしていた。
「それでは、連絡先を交換していただいて後日ご連絡いたします」
「分かりました」
俺はいつも持ち歩いている偽名の名刺を渡し、代わりにメモにメールアドレスを書いてもらった。
「それでは、お気をつけて」
梨本仁美は晴々しい顔で会釈し、歩き出した。向かう方向は同じであるが後をずっとついていくのは気まずいため俺は立ち止まってその背中を見送る。
ジャケットを脱ぎ、サングラスを取り出してかける。
人間は利己的だ。別にそれを責める気はない。まあでも、利己的な相手にはこちらも利己的な態度を取ってもしょうがないだろうと思う。だから、こんな『復讐のゲーム』のコンサルタントをして、利己的な相手への復讐を手助けして幸せになれるようにしているわけだし。
ファストフード店で、露日はアイスコーヒーを飲みながら問題集を解いていた。俺が来たのを見てパタリと閉じられた表紙には、それげ県立高校の入試問題の過去問であると記されていた。
「受験勉強か。勉強は得意なほう?」
「まあ。国語だけムラがありますけど」
謙遜しないということは本当に得意なのだろう。
「聞いてましたけど。あなたはよく新聞を読むマスコミの方なんですか?」
皮肉っぽい口調に俺は苦笑する。
「いいや。あれは情報を得るための方便だよ。人を傷つけない嘘ってやつ」
「……」
「急に屁理屈を言いやがって、と言いたげな目だね。嘘は何であれ悪いと思うタイプなのか?」
「いえ、そういうわけじゃ」
そう答えるも、露日の顔は嘘というもの自体があまり気に入らないようだった。中学生の頑なさ。
「ま、いいや。通信は途絶えずに聞けたかな」
首肯。
「大学生の人は確かに悪いことをしたけれど、なんだかその人たちも巻き込まれたような印象を受けました。なのでその人たちのことは強く責められないのかもしれないな、と。それに煽り運転の人はきちんと実刑を受けそうな気もしますし、僕のすることはないんじゃないかと思って」
「そうかあ」
ゲームからの逃げではなく本当にそう思っているならそれでいい。幸せになってもらうのが目的なのであって、ゲームの押し売りをしたいわけではないから。露日は力なくも薄ら笑みを浮かべていて、最初に会った時や午前よりはどこか吹っ切れているようにも見えた。
「昼ごはん買ってくるから、ちょっと待ってて。何か食べたいものある?」
「じゃあ、てりやきバーガーお願いします」
「分かった」
混んでいるとは言わないまでもレジには列ができていたので、俺は並んでからズボンから財布を出してからなんとなく今レジで注文している三人連れの客の背中に目をやった。白シャツの男と、Tシャツの男、パフスリーブを着た女。そのうち二人は裁判傍聴をしていたカップルじゃないか。もう一人は誰だ? 会計を済まし、トレーを受け取り、横を向いた時に見えた顔。残る一人は、あの裁判で証言していた同乗者の男だった。もしかすると、あの傍聴カップルが無関係だと思っていたのは間違いで、彼らも同乗者だったのかもしれない。三人はイートインスペースに行ったため、ひとまず俺はレジで自分の分のチキンバーガーとてりやきバーガーを買ってから露日の待つ席に戻った。
三人は俺が座っていた席から木製の仕切りを隔てたテーブルに座っている。俺のことに気づいた様子はない。緑色のサングラスを一瞥した様子はあったが、すぐ目を逸らしていた。
「はい、買ってきた」
露日にバーガーを差し出し、自分も紙を外してかぶりついた。そして隣に聴覚を集中させる。何か目的があったわけではない。言うなれば職業病であり、その勘による何か虫の知らせのようなものがあったからだった。
「あいつの責任が軽くなってよかったな」
「本当にね。もう私たちが証言することもないしきっと大丈夫、だよね?」
「…………」
「大丈夫だろ。疑ったところで今更調べたって何も出てこないんだから。不安煽るのやめろよな」
「……ごめんごめん。食べよっか」
会話は途切れて、包み紙を開ける音に変わった。俺が食べかけのバーガーをトレイに置き顔を上げると、
「…………」
露日が俺を凝視していた。
「聴こえてましたよね」
「え……?」
「……気づいていて黙っていたということですか」
納得したように露日は目を閉じて頭をゆっくりと振った。そして瞼を開く。ぼんやりとした悲しみに浸っていたはずの少年の瞳が蛇のようにぎらりと光ったように感じた。
「何のことかな」
しらばっくれてみる。自分の予感を隠したいというよりも、彼がどのように自分を追い詰めるのか気になった。隣の会話が復活するも、ざわついた店内に溶けて今度は聞き取れなくなった。
「隣の会話を聞いていたんでしょう。俺の耳にも入ってきたのにあなたは何も気づかなかたように振る舞った。きな臭い内容だとは思いましたが、あなたもそう感じたんですね」
最初に「考え事をしていて聞いていなかった」と言えば逃げ切れたはずだ。しかし「何も聞いていなかった」ではなく「何のことかな」と言った時点で「気づいている」と言ったようなものだった。
「どこの誰か知らないけど興味深い話だったね」
「……音声中継していたのを忘れたんですか。あの中の一人は証言者でしょう。声が同じだ」
なかなかどうして、良い記憶力のようだった。不可解な会話を聞き、何を意味しているのか理解し、相手が同じことに気づいたことを察する。良いセンスを持っている。なにしろ、彼はそれを楽しそうにやっていた。目が輝いていたから。情報を集めて整理し何かを導くことに長けている。
「ああ、そうだよ。きみはどう思うの」
「あの人たちは大学生で、車の同乗者だった。そして、彼らには疑われたら困ることがある」
囁くように露日は言った。
「うん、俺もそう思ったよ。で?」
「え?」
別に頭の中で仮説を導き出すだけじゃ意味は無い。証明しなければその仮説はただの妄想だ。
「その予想について君はどうするの?」
「…………」
結局同じ話に戻るのだ。
ゲームの準備を続けるかどうか。
「ちなみに、ゲームの依頼者の中には復讐ではなく真実を明らかにすることを第一目標にした人もいた。音声、聞くかい?」
娘の死んだ原因を突き止めようとしているサラリーマンだった。恋人か、サークル仲間か、バイト先の店長か。絞って全員を集めて、ゲームをさせることで真実を暴露させようとした。結果、原因はサークル仲間だと分かり、サラリーマンはそれらを殺してその他は生きて返した。生還者がどうしたかは知らない。
「……いえ」
露日の目が再びモヤを帯びたように陰る。雲に覆い隠された月のようにぼんやりと照明を反射する。俺はそれを見つめる。露日は瞬きをする。瞬きをするたびにモヤは消え、最後にはこちらを見返す強い光が残った。
「まだ、続けます」
「いいんだね?」
「はい。これは俺がやらなきゃいけないことなので」
「分かったよ」
俺は相手を安心させられる笑みを浮かべた。露日も釣られて少し笑った。
次の公判は一ヶ月後。その時までに、露日と打ち合わせをすることにした。1ヶ月後に新たな情報が出て状況が変わるとも限らないが、変わらない可能性が高い。このまま罪状決定に進んでしまうなら、大学生たちの秘密は裁判上では明らかにできないことになる。露日はそれが確定してからゲームをやることを望んだ。でも、決まってからゲームの段取りを立てるのでは遅すぎる。何事も早めにやるに越したことはない。そういうわけで、どんなゲームが良いのか考えようといつ打ち合わせを設けることになったのだ。
また、渋谷のファストフード店で落ち合い、何か思いついたか問うと、露日は首を横に振った。
「単純なゲームで、人がなにか本当のことを言うとは思えなくって。というか、そもそもゲームというものに縁がなくて……」
困ったようにこちらを見る。そんな、頼りになる近所のお兄さんみたいな目で見ないでほしかった。
「ゲームに縁がないなんてことないだろう? ゲームセンターとか、友達と放課後遊ぶとかあるじゃない」
「……いや」
露日は乾いた笑い声をあげた。俺はその意味を察する。
「ん、じゃあ行くか」
「えっ」
その声は意外そうだったが、年相応の嬉しそうな響きも混ざっている様に聞こえた。少しずつ従来の露日らしさ、というのか、無邪気さが見えてきた気がする。目的ができ、その目的に対する大義名分ができたのが良かったのかもしれない。ただの復讐ではやはり罪悪感が勝つものの、秘密を暴くという行為は直接的な危害を加えることを意味しない風に聞こえる。あまり罪悪感は感じてほしくない。自分が楽しく生きるために必要な行為をするまでのことだから。
ゲームセンターで、一通り遊んでみた。リズムゲーム。メダルゲーム。クレーンゲーム。ホッケー。ホラーテイストの射撃。パンチ力勝負。スロット。
露日は射撃を一番楽しそうにやっていた。射撃が楽しいというよりかは、そこに出てくるゾンビを倒すのが面白いようだった。それ以外はまあ上手いとは言えなかったものの、どれも物珍しいようで彼の表情は終始和んでいた。
「さて、どうだった?」
ファストフード店に戻ってアイスコーヒーを飲みながら問う。
「楽しかったです。どれもあんまりやったことないものばかりで」
「んーと、楽しむ以外に、ゲームで応用できそうだなあ、とかは」
「あ……」
中学三年生だし、仕方ない。むしろ今までの情報収集スキルが優れすぎていただけだ。
「じゃあ、今までやったゲームをジャンル分けしてみようか。自己流で申し訳ないけど。まずは、勝利条件が明確なゲームだ。個人戦の色が強く勝ち負けというものがはっきりしているものだね。ホッケーやパンチ力勝負がそれにあたり、点数と時間制限や回数制限が合わさって勝利条件となっている。リズムゲームの対戦モードもそれにあたりはするが、個人プレイでは達成条件をクリアすれば点数の勝ち負けは考えない、というシステムもあるからこれは中間かな。同じく、点数を競い合うこともできるし一定のラインを設けて個人プレイもできるゲームとしてはメダルゲームやスロットもそうかもしれない。最後、個人・もしくは協力して達成条件をクリアするのが主な目的となるのはクレーンゲームやホラー射撃だろう。
「で、これから何が言いたいかというと、どんなゲームが『復讐のゲーム』として不適格か、だ。ただクリアするのが目的のゲームではなく、苦しませつつ生還の可能性が見えるものが望ましい。というわけで、最初に言ったような勝ち負けがはっきりしたものは『勝ったら見逃す』と言えるしプレイヤー同士の争いを生むからやりやすい。二個目のも条件さえ的確ならいいね。しかし、三個目のものはあまり良くない。プレイヤーが協力して全員生還する可能性があるからだ。団結させてしまうと一対多数となって確実にこちらが不利になり、破滅する可能性すらある。分かるね。
「と、説明したものの今までのゲームにはどれもそのままプレイするには問題がある。なんだと思う?」
露日は問題集を開いてシャーペンでそこに図を書いていた。俺の問いに小首を傾げるも、おずおずと答えを口にした。
「実力で勝ち負けが決まるから?」
「正解。それじゃあプレイヤーは諦めてしまう。そこで、実力がなくても頭の使いようでは勝てるような追加ルールを考える必要が出てくる。例えば、『秘密を暴露すればボーナス』とかね」
「……じゃあ、最初から特定の技能は必要なく頭を使うことで勝ち負けが決まるゲームにするのはどうでしょう」
「冴えてるね。それが初心者ゲームマスターにとって一番やりやすい。そういう結論を出したくてゲームセンターに行ったわけだ。周りくどかったかな?」
「まあ、少し」
露日はニヤッと笑う。
「難しく考える必要はない。子供でも簡単に遊べるようなゲームをうまくアレンジしてやろう、くらいでいい。次会う時までの宿題でどうかな」
「はい、やってみます」
先生から宿題を出された生徒のように生真面目な顔で露日は頷いた。
「今、中学ではどういうゲームが流行ってるの?」
「さあ、携帯ゲーム機でできるのが流行ってるらしいですけど、俺はあんまり興味がなかったので」
「もしかして君、友達いないの?」
「うーん、難しい話ですね。頻繁に話す相手はいますし、それなりにうまく振る舞ってるとは思います。ただ、そういうことに興味を持てないというか、本を読む方が面白いというか」
虚勢を張っているわけではなさそうだった。他人に興味を持てないというやつか。俺も中学くらいの時はそういうことを思っていたような気もする。
「どっちでもいいと思うけど、アンテナを張っとくのは悪くないと思う。自分が知らない世界を相手が知っているなんてことはよくあるし、本を読んで手に入る知識は自分が興味を持てる範囲内だけだから。人脈は多い方が後で利用しやすいし、他人から好ましいと思われることに損はない。……説教くさくなったかな」
嫌な顔をするかと思ったが、露日は口角をあげた。
「そんな緑のメガネをしているのに」
「ああ。これか」
俺はガラスが緑色に色づいたカラーグラスを外す。大した思い入れがある品物ではない。こんな派手なものをつけているくせに他人からどう見られるのか気にしているのか、と露日はそう言いたいのだろう。
「これをつけている俺は、君からどう見えた? 予想するに、怖い、いかつい、チャラついている、そんな感じだろ。分かるよ、みんなそうだから。こういう派手なものをつけておけば、周りの目はその特徴だけに集中するし、警戒もする。だからいいんだよ」
「警戒されたかったんですか? 確かに、『復讐のゲーム』を扱うのに舐められたらまずい気はしますけど……」
「うーん、間違ってはない。もう一つあってね、自分とは違う種類の人間と話す時って緊張するじゃない。でも、それが話せるようになれば自分に自信がつく。気が大きくなる。相手にそういう手順を踏ませると話がうまく進むからやりやすいんだ」
さらに具体的に踏み込む。
「君も最初は緑のサングラスの人間が怖いと思ったろう。そして今は警戒せずにゲームセンターにも一緒に行けるようになった。俺を怖がり、話すのに慣れた結果だ。でも、君はこうも思ってるんじゃないか? 自分は怖い人間とも普通に話せる強い人間だって」
露日は唇を舐めた。否定も肯定もしないが、ゴクリと唾を飲み込むのが喉の動きで分かった。
「君は強い人間じゃない。普通の中学生だ。相手のやり方に乗せられるんじゃないよ。俺の後継者になってもらうんだから」
何を言えばいいのかわからない様子でしきりに唾を飲み込む露日に、俺は軽くデコピンをした。軽くやったつもりが痛かったようで涙目になる。
「相手にどう思われるかビクビクする必要はない。でも、自分の見た目と行動が相手にどう印象付くかは意識しておくといい。セルフプロデュースってやつだね」
ただシャツとジーパンのみで何も考えず下請けをやっていた時と、緑のグラスをかけて柄シャツを着て香水を纏う今では、相手からの目が全く違う。サラリーマンや若者を相手どる時はこの格好。逆に主婦や金持ちを相手にする時はオールバックにしてスーツ。相手から自分の常識が通じない相手だと思わせるのが一番都合がいい。
「できる気がしません」
「今すぐやれとは言わないよ。ただ、そういう軸も考えとくといいよって話でさ」
俺はそう言うと財布を持ってレジに行き、ソフトクリームを買って戻ってきた。
「これでも食べな。まだ子供なんだから」
「ありがとう、ございます」
忠告をしたのちに甘いものを手渡してくる俺に困惑したようだが、ソフトクリームを嬉しそうに食べ始めた。
隣の大学生はもういなくなっていた。
一週間後、露日からゲームの案が一個できたと連絡が来た。平日夜に待ち合わせをした。夕方まで俺は別のゲームの進行をしており少し遅れてファストフード店に入ったところ、露日はまた問題集を解いていた。
「遅れた。ごめん」
露日はゆるゆると首を振り、「この問題だけ片付けさせてください」と問題集に再度向き合った。紙面に目を落とすと、現代文の物語文のようだった。記述は片付けられており、あとは四択問題が一つのみ。選択肢のうち二つにはバツがつけられている。やがて、片方の記号を書き込み、露日は問題集を閉じた。
「国語が苦手って言ってたけど、高校で文理選択する時はどうするの?」
「まだ全然考えてないです。あなたはどうしたんですか?」
リュックサックを開けて問題集をしまい、代わりにノートを出しながら彼は問う。
「理系。大学も理系」
「なるほど。どんなことをしていたんですか」
「人間の解剖をしたり、人骨の分析をしたり」
「…………?」
その反応は慣れっこだ。とはいっても最近は大学の話なんて滅多にしなかったから久しぶりではあるが。
「自然人類学が専攻でね。人間を生物として扱って、どのように進化してどのような構造をしているのか調べる勉強をしていた。全部合法だよ」
死体解剖なんて普通にやったら犯罪だが、医学の勉強のためという条件付きで認められている。当時は興味本位でしか無かったが、今はそれが死体をバラバラにするのに役立つこともある。
「その、死体とか骨とかって怖くないんですか?」
「怖いって何が? 祟りとか?」
「信じてるわけではないですけど。ええ、はい」
「怖くないね。死者には何も出来ないよ。体を臓器ごとにバラバラにされたって、骨を削られて好奇心に使われたって、奴らはなーんにもできない。霊も祟りもないよ。あったら俺に影響があるはずだ」
例えば墓地での肝試し。これは明らかに不義理な行為だ。でも、研究のための解剖は許される。それは社会貢献になるからだ。でも、研究のために使うわけでもなく、解剖をしながら関係の無い雑談で爆笑するような人間は許されるのか? それは、墓地を面白半分に訪れる人間と何が違う?
「結局は生きてる人間が一番強いんだ。生きていれば何でもできる。だからやりたいことを選ぶといい」
「やりたいこと。それが難しいんですよね」
露日は苦笑してストローを咥えた。
「俺は逆にやりたいことばっかりだよ。金が溜まったらもう一回大学に入りたいくらいだ」
「今度は何を学びたいんですか?」
「宗教学とか、楽しそうだな。新書を読んで知ることはできても自分で研究できる気はしないからさ。ま、それはいいとして」
ゲームの話をしよう、と促すと、露日はノートを開いて俺の方に押しやった。
「読んでみてください」
アイデアノートのように、思いつきが並んだものかと思ったが、計画書のようにまとまった文面が並んでいた。
『概要:マジカルバナナとインディアンポーカーを組み合わせる。
それぞれに禁止ワードを配布した後にマジカルバナナを行わせる。禁止ワードを言った者から脱落し、最後に残った者の勝利となる。参加者は他の参加者が禁止ワードを言うように単語を誘導することが出来るので、対立性がある』
中学生らしくメジャーなゲームの組み合わせだが、参加者同士を戦わせる工夫やひらめき次第で勝ち残れる可能性がある点はなかなか筋がある。
「いいじゃん。自分で考えたの?」
「もちろんですよ。相談する相手なんていませんから。ただ、このゲームだと秘密を喋らせるような行動が盛り込めなくて」
秘密。つまり罪のこと。目撃者や煽り運転をした男の罪は明確で、明らかになっていないのは大学生達。それでも予想はできる。新たな秘密を見つけようと気を張る必要はなく、彼らの口から自分の罪を話すような機会を設ければいい。
「じゃあ、勝利条件に少し追加をしてみよう。最後まで残れば勝利になっていたけど、全員が脱落する前に『自分の禁止ワードを特定して宣言できたら勝利』はどうかな。『間違えたらその時点で脱落』ということで。この禁止ワードを彼らの罪と関連付けたものにしてやればいい。ついでに、『何故そのワードが選ばれたか正直に理由を答える』というのも付け足すといい」
「それじゃあ、僕達が秘密を把握していなければワードを作れないんじゃないですか。さっきの大学生の発言だって何を意味しているのか分からないのに……」
「予想はできるだろう? 君が集めた情報の中にもあったはずだ。彼らが飲酒運転をした可能性があるという記事が。それが本当だと言う証拠はないが、今疑われても問題ないがバレたらまずいこととして一番それっぽいと思わないかい?」
「あ……!」
〝週刊誌では飲酒運転の可能性も書かれていたが、そのような報道はないのでそれはデマだと思う〟
「事故時にアルコール検査をするのが一般的だが、加害者側が怪我をしている場合なんかは検査がスキップされることもある。飲酒運転の可能性を追おうとしても時既に遅し、なんてことは普通にあるんだ」
「その可能性を、ゲームの中で確かめればいいんですね。本人の口から言わせることで」
「うん、そういうこと。じゃあこの方向性でいいかな?」
「はい」
露日は真剣な顔で頷く。「脱落」というぼやけた言葉が何を示すのか、それについては触れなかった。上品な澄まし顔に近い無表情は、仮面として十分に機能していた。
「それじゃ、次の公判の流れ次第で、実行に移そうか」
「……はい」
頼りない声だ。まだ彼は迷っている。明確な拒絶をされれば無理強いをするつもりは無い。でも、迷っているだけなら俺は先に進める。
「質問とか、ある?」
メガネを外し、ガラスの部分を服の裾で拭きながら、一応助け舟のつもりでそう尋ねた。何か理屈がほしいなら与えてやるし、肯定もしてやる。そんな気持ちだったが、意外な質問が飛び出てきた。
「さっき、やりたいことを選べって言ってましたけど、今の仕事は、あなたがやりたいことなんですか」
「…………」
「なんで、あなたはこんなことをしてるんですか。あなたも、何か悲しいことに巻き込まれたことがあるんですか」
それは、聞かれたことのない言葉だった。今までのクライアントは自分のことばかりで俺について聞くことはなかった。仕事を統括している上も、金は払えどプライベートに足を踏み入れることはなかった。
それでも、返答は迷わなかった。
「やりたいからやっている。脅されてなんかない。俺は、全ての人を幸せにするなんてことはできない。だからこそ、出会った人間のことくらいは最大限幸せになるようにしたいんだよ。その方法として一番クリティカルなのがこれだった。ただそれだけ」
「でも、そんな思いだけで、人を……人を殺すなんて、できないでしょう? 僕だって怖いのに、何も復讐する理由のない人間がこんなことできるわけがない。だからきっとあなたも、何かあるんじゃないですか……?」
露日が震えていることに今気がついた。触れないように目を逸らしていたことを口にしている。明確な理由というものが知りたいのか、俺を仲間だと思って安心したいのか、俺には分からない。
「何かあったとして、きみはそれで納得するのか? 別に俺がすることは変わらないし、俺は自分がやっていることを悪いことだとは思わない。俺が可哀想だから許すとか、可哀想じゃないから許さないとか、そういう話には興味が無いんだよ」
ここでの最適解は彼の肯定のはずだった。罪の意識を減らし、メンタルケアをするのがコンサルタントとしての正解だ。それなのに、俺は思ったことを口に出してしまう。後継者になってほしいから酸いも甘いも噛み分けてほしいという理性的な理由も後付けしようと思えばできるが、単にこれは俺が言いたいから言ってしまったことだった。
「他人の理屈にこだわる必要はない。俺は誰かが幸せになる手助けをしているし、きみがそれを一から十まで納得する必要も、別にない」
露日は押し黙る。俺は外していたメガネをかけた。緑色の視界。
「じゃ、先に帰るよ。次の公判の時まで考えときな」
俺は露日を残して店を出た。感情は漣ひとつ立たず穏やかで、俺は自分にどうしたかったのか問う。彼から肯定されたかったのか。自分のことを知ってもらいたかったのか。
もしかすると、他人を幸せにし続ける日々が退屈だったのか。
いや、そんなわけはない。考えをリセットしようと、コインケースから香水のアドマイザーを取り出し手首にワンプッシュした。甘く重い木とタバコの匂いが広がる。そして、手首の小指側に、落とし忘れた赤茶色の汚れがあることに気がついた。露日にはこれが見えたのかもしれない。だから、最後にあんな直接的な質問をしたのかもしれないと腑に落ちた。指に唾液をまぶして汚れの上をくるくるとなぞると、それは簡単に薄くなって消えた。そんなものだろうな、と思った。
もう二度と連絡が来ないかもしれないと思ったが、露日からは第二回公判の日程がメールで来た。待ち合わせ場所を決め、当日向かうと彼の様子は少し変わっていた。
前は飾り気のない白シャツと黒ズボンだったのが、明度の低い群青色のシャツと、グレーのズボンになっている。リュックも、ファスナーが何個もついているものではなく、四角くシンプルなものになっていた。十一月になり秋服仕様になったというだけでは説明できない変化だ。
相変わらずファストフードの店内で国語の問題を解いていて、他の教科はいつ解いているのだろうと少し心配になる。
「お待たせ。受信機渡しとくよ」
「どうも」
気まずそうな顔をして、彼は受信機を耳にはめた。
「その服、なかなか似合ってるじゃない」
そう付け足すと、彼は嬉しそうにはにかんだ。どういう気持ちの変化か知らないが、洒落た服を身につけるのはいい事だ。もしかすると、俺がセルフプロデュースの話をしたからじゃないかとも思ったが、そんなに俺の話に影響されることもないだろう。高校生になる身として服装を意識するような機会があったのかもしれない。それこそ、恋愛とか。
なんて、たわいの無いことを考えながら俺は裁判所に向かった。
今日は露日の叔母と、大学生二人に加えて証言台に立った大学生も傍聴席にいた。仲間の今後が気になっているらしい。新たな証言者の登場などはなく、監視カメラの映像から状況を振り返り事実確認をするだけで進展はほとんどなかった。というか、真実はすでに明らかなものとして、刑をどのくらいにするか見定めているようなものだった。
次くらいで決まりそうだ。早く準備をしなければ。段取りを頭に浮かべ、お開きになってすぐに席を立つと、
「あの、こないだもいた人よね?」
露日の叔母に呼び止められた。前よりも白髪が目立つ髪。
「はい。覚えてます」
愛想良く、けれど無作法に思われない程度に笑う。
「…………」
叔母さんは、呼び止めたものの特に話したいことがあったわけではないようで、小さく息を吐いた。
「あなた、大学生?」
無論、違う。しかし、ジャケットとズボンというシンプルな服装と昼間からここに居ることから見て、そう思われてもおかしいことはなかった。俺は肩をすくめた。それをどう解釈したのか、
「……ごめんなさいね。あなたと話したからどうにかなるわけじゃないって、分かってるのよ。でも、あなたは頑張ってね。悲しいことがあったからって立ち止まらなきゃいけないなんてことないものね」
最初は、叔母さんが自身に言い聞かせようとしているのかと思った。けれどすぐに可能性に思い至った。若い青年、少年にかける言葉。これはきっと彼女が露日に言いたいことなのだ。本人に言ったところで、傷を抉るような無神経な言葉にもなりかねない。だから代わりに歳の近そうな俺に言っている。
「分かりました」
俺はそう言った。受信機越しの露日に聞こえるように。
ファストフード店に戻り、「実行日を決めよう」と言うと、露日は無言で頷いた。
「あなたが依頼者の代わりに誰かを殺すことはないんですか」
実行日や段取りを詰め、ようやく真面目な話がひと段落したところで、露日はこう尋ねた。
「うん。そういう依頼は断ってる」
自分で殺すことに意味があると俺は思う。自分が恨んでいるのに他人に殺させちゃ、またそれは他人事になってしまう。自分がやるからこそ幕を下ろして踏ん切りがつく。これはそういう儀式だ。
怖気付いてそんなことを聞いたのかと思い、露日の顔を盗み見るが何かを考え込んでいるような無表情でよくわからなかった。少なくとも恐怖が表面化しているわけではなさそうだ。
「そうだと、背負う人が増えてしまいますね」
「背負うって?」
「罪を」
「それをばれないようにサポートするのが俺の仕事だ」
そう答えると、露日の顔はふっと緩んだ。「確かにそうだ」と安堵した表情かと思ったが、なんだか違和が残る。考えるのをやめた顔ではあるが、まるで、諦めたような。
自分が世間一般における罪を背負うことになるということを受け入れたのか。でも、そんなのは別に世間にばれなければ良いだけの話だ。世の中に見つかれば罪だが、指されなければ罪にならないことは世の中にたくさんある。
終わったあとのメンタルケアもきちんとやらなければならない。中学生でゲームセンターであんなに楽しんだなら、遊園地なんかに行ってもいいかもしれない。良い思い出で、悪い思い出を塗り替えることが何よりも重要だ。
「まあ、あんまり気張らずに頑張りなよ」
我ながら薄っぺらい言葉だと言った矢先に苦笑し、ポケットの中にいれていたものを差し出した。
「これは……」
「お守りと、リラックスできる液体だ」
「あ、合格祈願だ。こっちは麻薬とかじゃないですよね?」
薄紫の液体が入った小さな瓶を光に透かし、怪しむように俺を見る。
「なわけないでしょ、ヤバイビジネスだからって一括りにするなよ。……香水だよ」
「それは、あなたが普段つけているもの?」
「いいや、あれはまだお子ちゃまには早いね。まあつけてみなよ」
露日は小瓶のキャップを外し、自分の手首にむけて一回プッシュした。霧状に香りが舞った。
「……何の香りですか」
「まだ中学生じゃ知らないか。ラベンダーだよ。気持ちを落ち着かせる効果があるとか何とかってね」
手首に鼻を近づけ、露日は大きく息を吸った。
「言われてみれば確かに落ち着くような気がします。これも受験のお守りになりそうですね」
「それだけじゃない。香りもセルフプロデュースの一つになる。君が最初に俺に会った時に宗教関係者かと思ったように、相手の印象を明るくも暗くも変えられる。君は若いから、相手に舐められないように知的で落ち着いていて自信を持った振る舞いをした方がいい。無理に俺みたいな派手な格好する必要はまだないから」
露日は神妙な顔をして頷いた。そんな真面目な話ではないのに。「やっぱり忘れてくれ」と言おうかとも思ったが間違ったことは言ってないはずだからやめておいた。
これがうまくいったら次は服でも見立ててやろうかと思った。
目の前には四人の男女がいた。黒髪の二十代後半の女。坊主の若い男。茶髪のボブカットの若い女。金髪の中年男。つまり、目撃者、加害者、同乗者、加害者だった。
四人、そして俺は円テーブルを挟んで向かい合うように椅子に腰掛け、片方の手首は肘掛につながる輪で固定されている。そして、頭には額のあたりに鉢巻きのようにバンドが巻かれていた。額部分にちょうど液晶画面が来ているから、ふざけてベルトがバカ長い時計を頭に巻いた人のようになっている。
無理やりつけられたものではない。この会場に来て、テーブルに置かれた紙に書かれた指示に従った結果だ。
若者はお互いの顔を見合わせ、何かを言いたげに青い顔をしているが、金髪の中年男はにやにやと嫌な笑いを浮かべてそんな様子を傍観している。俺が見ていたことに気がついたようでぎろりと睨んできたので肩を竦めた。
「五名全員いらっしゃいますね。お集まりいただきありがとうございます」
液晶の電源がつき、顔を仮面で覆った人……露日が現れた。仮面はのっぺりとした白色のもので、目元と鼻に細く切れ込みが入っているものの、つけている人間の肌は見えないつくりになっている。声もボイスチェンジャーで変えているから、ここにいる誰もあの液晶の向こうの人間が中学生だとは思わないはずだった。
「梨本仁美さん、加賀智紀さん、堂上圭さん、屋敷貴志さん、折谷明石さん、お間違い無いでしょうか」
順に黒髪の女、坊主の若い男、茶髪ボブの女、俺、金髪中年が頷いた。
「なんで私がこんなところに呼び出されなきゃいけないの?」
黒髪の女が小さく手を上げ、明確な不満を込めた声音で言った。
「ここにいらっしゃるのはある事件の関係者です。皆様方も察しは着くと思いますので詳細は説明を省かせていただきます。……心当たりがないとでもおっしゃいますか?」
「…………」
誰も何も答えなかった。全員、関係がないと真っ赤な嘘をつく気はないらしかった。
「待てよ。この兄ちゃんは誰なんだ? 他の奴らは分かる。裁判にいたぶつけた車の大学生と目撃者だろう。でもこいつは知らないぜ」
金髪が俺を怪しむように見る。やはりそこは指摘されるか、と納得しながら俺は決めた設定を口にした。
「俺は記者ですよ。あの事件のね」
「はーん、どうせ残された家族でも追っかけ回して恨まれたんだろうな。ご苦労さんなこって」
金髪はにやにや笑いを深めた。
ここまでは想定内。俺は今回、ゲームの参加者を装って露日をサポートすることにしていた。モニター越しから一緒にゲームを見つめてもよかったが、会場内でのトラブルを解決・制圧するのに一番簡単なのはその場にいることだ。トラブルが起きる前にその空気を察してなだめ、何かあれば同じ立場の人間としてフォローする。そのため、俺は事件を追っていた記者として参加することにしたのだった。
「俺達を集めてどうしたいんですか? もう裁判は終わるのに、脅されても何も話せることは無いです」
坊主の男が毅然とした口調で言ったが、中年男が鼻で笑うのを聞いて口をつぐんだ。
「別に、話してもらう必要はないんです。貴方たちにやっていただきたいのはゲームです。正確に言いましょうか。『復讐のゲーム』と呼ばれるものです。ご存知ですか」
「ネットで一度噂になった民間人の私刑のことですね」
話を進めるために俺が答えると、露日は肯定する。言い淀むことなく、滑らかに言葉は紡がれる。
「ええ。というわけで、皆さんにはゲームをしてもらいます。優勝者にはお金を差し上げますし、ここから帰っていただいて構いません。負けた方には死んでもらいます」
沈黙。
「死ぬ?」
ボブカットの女が小さな声で繰り返した。
「はい。死んでもらいます」
露日は律儀に答えた。
スっと恐ろしいほどの静寂が辺りを包んだ後に、わっとパニックが広がった。
「なんで? 見てただけなのに、こちらも精神的に傷を負ってるのに、なんで死ぬだなんて」
「俺は罪を償うって言った。言いました」
「私は車に乗ってただけじゃない。巻き込まれただけなのに」
「…………」
露日は彼らの文句をただ聞いていた。その仮面の下はどんな表情になっていたのか、俺には分からない。ただ、全員が言いたいことを叫びちらし、荒く息を吐きながら黙りこくるのを待ってこう告げた。
「要するに、皆さん自分は死ぬほどのことはしていない、と言いたいのですね」
金髪以外が頷いた。金髪は依然として一人余裕に満ちた笑みを浮かべている。
「そうですか。でもね、皆さんがどう思ってるかはどうでもいいことなんです。少なくとも僕は皆さんに罪を償ってほしい。それだけです」
教科書の文を読み上げるようで感情は入っていない。大体のゲームマスターは自分の期待や恐れからテンションがおかしくなるものだが、彼は堂々としていた。その特別性に気づかない参加者は露日に対して話せば分かる相手だと思ったのか、こう言った。
「罪は償いますよ。判決からも逃げるつもりはありません」
「そういうことではありません」
ぴしゃりと言い放つ。
「あなたが檻の中で何年過ごして何に対してどのくらい後悔したって、あなた以外誰も満足しませんよ。あなたは自由のない生活をすることで許されたのだと思うのかもしれませんが、やったことは消えません」
坊主の男に対して露日はこう続けた。
「きっとあなたは坊主にして自分の誠意を示しているつもりなんでしょうが、そんなパフォーマンスは自己満足なんですよ。少なくとも僕は、人の髪型が変わるくらいのことに何も意味は見いだせない」
今まで感情が乗せられなかった声に薄い笑いが浮かんでいた。
「……そんな横暴な。あなたは法律関係なしに自分の気持ちで人を罰しようとしてるんですよ。それを悪いと思わないんですか?」
黒髪の女がヒステリックにわめく。
「じゃあ、あなたは事故にあった車を見かけてまだ生存者がいたのにも関わらず見捨てたことが罰に値しないとでも思うんですか?」
「……巻き込まれただけの人間に義務とか罰とか押し付けるの?」
考えてしまったのか口ごもったものの、黒髪の女はモニター越しに露日を睨みつけた。
「そうですよ。あなたたちも何か思わないんですか? 私たち、このままじゃ身勝手なことに巻き込まれるのに」
今度はボブカットの女が俺と金髪男を振り向いた。お前らも反論しろと言いたげだったが、俺は首を横に振る。
「別に俺は罪がどうこうはどうでもいいんだわ。自分がやったことも特に反省はしてないが法律やら正義やらに反論する気もない。つまんねえことだからな。それより、勝てば金が貰えるんだろ? 俺はそれだけで十分だ。リターンにはリスクが付き物って言うだろ?」
金髪男は不敵に言い放ち、ボブカットの女は得体の知れないものに触ってしまったかのような不快感を顔に出した。
この男は留置所にいたが、一晩だけという約束で職員とのコネを使って連れてきた。その時の誘い文句は、勝てば金がもらえるゲーム。元からこの男はゲームだの復讐だのより自分が楽しいことと金にしか興味が無いようだった。
「皆さん気は済みましたでしょうか。それでは、ルール説明です。今回行うゲームは『インディアンバナナ』。インディアンポーカーとマジカルバナナを組み合わせたゲームになっております」
露日は俺と共に決めたルールを流暢かつ丁寧に説明した。
・参加者の頭に巻かれたバンドには、その人の禁止ワードが表示されて本人以外のワードは見ることが出来る
・音楽AとBがそれぞれ交互に八小節ずつ流れる。音楽Aは回答時間を表し、音楽Bは思考時間を表す
・五名はそれぞれ順番に音楽Aにおいて前の人が回答したワードから連想するワードを回答する
・禁止ワードを回答した場合はその時点で敗北
・思考時間中に宣言を行えば、特別回答として自分の禁止ワードを回答することができる
・特別回答が正解であれば、回答者が優勝者となる。間違っていれば敗北。
・特別回答をする際は、そう考えた理由の説明が義務付けられる
実際に露日は音楽をかけて聴かせた。ヒップホップのトラックのような、電子音曲にドラムがビートを刻む音。テンポは変わらず同じフレーズが繰り返される。八回目が終わったところで、曲調が変化しベースのみになる。そのフレーズも八回繰り返され、それから元の電子音とベースに戻る。そこで曲はぶちりと切られた。
「何か質問はありますか」
誰も何も発しない。それは質問が無いという意味ではなく現状を咀嚼しきれていないからだというのは露日でも分かるだろう。性急に急かすことなく、黙って反応を待つ。
「敗北したら、どうなるの?」
ボブカットが小声で問うた。
「ああ、手首につけてもらった輪っかがあるでしょう。その内側から小さな毒針が出て手首の血管に刺さります。それでおしまいです。苦しくはないらしいのでご安心ください」
「何がご安心よ。ふざけてるの!?」
黒髪が唾を飛ばしながらわめく。
「ふざけてはいません。証明するためにあなたに針を刺してみましょうか?」
露日の言葉には馬鹿にしたような笑いが含まれていた。中学生とは思えない挑発に俺はは鳥肌が立っていることに気づく。やはり彼は逸材だと思う。続けて彼は何かしらを呟いたが、こちらに聞かせるつもりはなかったらしく、四人にははっきりとは聞き取れなかったらしく怪訝な顔をする。でも、俺には彼がこう言ったのが聞こえた。
「というか、ふざけてるのはあなた達でしょう。ここまで来てやることが保身と責任の押し付けなんて」
彼はもう、目の前の人間の善性なんてものは期待していなかった。自身の罪悪感と戦うことも放棄したようだった。
参加者は露日に何を言っても状況は変わらないと悟ったのか誰一人として何も話さない。その空気に気づいたようで、露日はゲームの開始を宣言した。
「じゃあ、メガネをつけている黒髪の女性……梨本さん、あなたからお願いします」
音楽が流れ始める。この音に乗って歌うなら楽しいんだろうと思わせる心地いいリズム。ドラムのシンバルが拍手の音のように聞こえた。
四小節経っても黒髪は呆然と突っ立っている。
「何も答えなければその時点で敗退となりますよ」
親切とも言えるような優しい口調で露日が言うと、黒髪はびくりと体を震わせた。
タン。タン。タン。タン。
音楽は止まらない。黒髪はパクパクと口を動かし、そしてか細い声で言った。
「バナナといったら、き、黄色」
「回答を受理いたしました。それでは、音楽が一巡しましたら、次の回答をお願いします。以降は手番が一周するごとにアナウンスさせていただきます」
曲自体の速さは変わらないものの、電子音が消えてベースのみが残った。これがシンキングタイムとして与えられた時間になる。次に何を言うか考える時間にしてもいい。そして、自分のヘッドバンドに書かれた禁止ワードを推察する時間に当ててもいい。
ズン、ズン、ズン、ズン。
とはいっても、反応は三者三様。回答したきり固まっている黒髪。不安そうに見つめ合う大学生たち。そして、ぎらついた目で参加者を見つめる煽り屋の金髪男。思考に時間を割いているのはこのうちの何人だろう。相手の禁止ワードを意識することがこのゲームの肝だと気づくのはいつだろう。
タン、タン、タン、タン。曲が音楽A……回答用のものに戻った。次の回答者は坊主の男だ。
「黄色といったらレモン」
きちんと準備していたのだろう。顔面は青白いものの坊主はすぐに回答を口にした。それはもちろん彼の禁止ワードではない。音楽はしっかりと8回繰り返され、シンキングタイムに移る。次の回答者であるボブカットの女は自分の番が近づいたことに露骨に肩を震わせ、ちらりと俺を見た。
それが恐れから助けを求めたのではなく、生き残るためにいち早く適応した行動だと俺は気づく。明らかにあの女は俺のヘッドバンドの文字を確認した。
回答用の音楽が始まり、ボブカットの女はギリギリまで悩むそぶりを見せつつこう言った。
「レモンといったら芳香剤」
ボブカットの次は俺。彼女の行動から察するに、芳香剤というワードは俺の禁止ワードに関わっている……などと考える必要はない。俺はもちろん事前にワードを知っている。十分にボブカットの女の殺意を受け取るも、それは顔に出さない。音楽が始まってすぐ回答をした。
「芳香剤といったらトイレ」
一巡目の最後は金髪男だ。場慣れしているのか諦観の念があるのか、怯えた様子も考え込む様子もなく、口元の笑いは崩れない。
「トイレといったら家」
回答用の音楽が始まると、躊躇する様子もなくリズムに合わせてそう言った。すると音楽はそのままで、露日のアナウンスが入った。
「一周目終了です。みなさん理解が早いようで結構。音楽が回答用に変わりましたら、先ほどと同様によろしくお願いします」
有無を言わさず続行を宣言されるも、今度は誰も反論しなかった。ルールとそもそもの状況で脳内処理がいっぱいいっぱいなのだろう。その強引さは悪くないが、本人たちがきちんと理解しないまま進めるのは彼の復讐として満足なのかは気になった。
全員己の手首を見つめ、互いの額に浮かんだ文字を盗み見る。本当に死ぬ可能性があるのかを測るように体をゆすり、自由にならないことを悟る。
「それでは、そろそろ二周目の始まりです。頑張ってください」
黒髪女は体を震わせた。
「家、家といったら親」
この人はとにかく連想ゲームとして素早く答えることに必死になっているようだった。禁止ワードを相手に言わせようとか、自分のワードが何か考える余裕がないらしい。
「親といったら親孝行」
坊主の男は固い口調ではあるもののしっかりと考える様子を見せてから答えた。同じ言葉を使ったワードはちょっとずるいんじゃないかとも思うが露日は何も言わない。しかし禁止ワード避けには良い戦法にも思える。
「親孝行といったら旅行」
曲は止まっていない。それなのに時間が止まったようだった。俺を含めた四人が回答したボブカットの額を凝視し、唾を飲んだ。
「え、え……?」
突然の視線に戸惑うボブカットの額には、しっかり「旅行」の文字が浮き出ていた。
「禁止ワードを確認しました。堂上圭さんはここで敗退となります」
「え、私、死ぬの?」
俺は露日がこちらを観察しているカメラに目をやった。
さあ、やれ。
毒を注入するボタンはすでに渡してある。あとは露日がスイッチを押せばいいだけだ。
「やだ、お願いします。助けてください。私も被害者なんです。ずっと事件の報道されて名前も拡散されて、あそこに乗ってただけなのに、なんで私が。やめて、死にたくない!」
訪れる死に怯え、ボブカットは手首を輪から引き抜こうと半狂乱になって腕を揺する。ミシリと、ボキリと音が聞こえる。手首が青黒くなる。
悲鳴。悲鳴。悲鳴。悲鳴。
早くしろ、とカメラを再度見て、それから露日の映るスクリーンに目を滑らせる。
仮面で表情は見えない。けれどその体は小刻みに震えていた。
「…………」
ボブカットは突如ビクンと痙攣したかと思うとそのままぐったりと前のめりに倒れた。手首は囚われたままだから床まで滑り落ちることはない。椅子に座ったまま膝に胸がつく窮屈な姿勢で彼女は動かなくなった。ぽた、ぽた、と何かが床に滴った。
カメラを睨む。そしてスクリーンで反応を確認する。仮面をつけた少年の震えは止まっていなかった。仮面の切れ目からのぞく瞳は化物を見るように俺を見ていた。泣きかけていた。
まあ、最初はこんなものだろう。人を殺すのに躊躇するのも分かる。まずはストッパーを外さなけれないけないのだ。その可能性は考慮していたからきちんと方法は用意していた。
ポケットの中で指に触れた丸い出っ張りを撫でる。スイッチの予備。万が一、露日が手を下せなかったときの保険。
最初の一人目はやってやる。あとはお前の仕事だ。それを視線にこめてカメラを静かに見つめる。
「……それでは、仕切り直してゲームを続行します。曲が戻ったら屋敷貴志さんから順にお願いします」
震えを押し殺して、露日は告げた。やはり彼は優秀だ。感情的にならず、逃げず、必要以上にこちらに手間取らせない。前にクライアントがゲーム中断を懇願した時があったが、あの時は始末する人数が増えて面倒だった。もうこのゲームから降りられないことを理解する頭があるのは素晴らしい。
俺は音楽が戻るのを待って、慎重に回答を口にした。
「旅行といったら渋滞」
「渋滞といったら高速」
金髪男はボブカットの死体を見つめていたが、自分の番が来るとしっかりと答えた。
「ちょっと、あなた、み、見たでしょう」
直後、甲高い声が響き、露日の二週目終了を告げるアナウンスがかき消された。黒髪の女が金髪をきっと睨んでいる。
「何をだよ」
死体を見ても表情が変わらなかった金髪が、初めてぎょっとした顔をした。
「私のこれ。禁止ワード、見てから答えたわよね」
「……だったらなんだって?」
「私のこと殺す気? ねえ、そうなんでしょ? 禁止ワードを言わせるような言葉にしたんでしょう?」
黒髪の女は唾を飛び散らせながら叫んだ。死体を見てから恐怖が爆発して完全に自分を抑えられなくなったらしい。残る坊主の男はまだ友人の死に呆然としていてこちらを見ようともしない。
「何を分かりきったことを聞くんだ? これはそういうゲームだろうに。馬鹿なのか?」
「な……ひ、人殺しっ」
「そりゃ、お前もだろ。いつまで部外者面してるんだ。ここに連れてこられた人間は、あの事故の原因になった間接的な人殺しだ。殺したいほど恨まれてるんだよ。分かるか?」
「わ、私は、私は私は私は、見たなのに……」
「じゃあずっとそう言って回答時間を逃して死ねよ」
はっとしたように黒髪は黙って音楽に耳を澄ます。もう、曲は回答用のものになっていた。
「あ、ああ……高速といったら、高速といったら、事故」
何も起こらなかったことを確認し、黒髪は大きなため息をついてそれきり黙り込んだ。
良くも悪くも自己保身に走り、他人を傷つける余裕はない。しかしながら他人を傷つけた時もそれを認めず被害者として振る舞い続ける。小市民的なよくある行動ではあるものの個人的には見るに耐えない。
露日はどう思っているんだろうと、カメラを見る。スクリーン越しの彼はどろりとした目をこちらに向けた。
音楽は止まらず流れ続ける。
「事故といったら救急車」
「救急車といったら病院」
「病院といったらお見舞い」
三周目終了のアナウンス。比較的長考をするようになってきたと感じる。しかしそれぞれに戦略と呼べる戦略は見えない。黒髪はあんなに騒いだものの発言は思いつくままで、坊主はこちらを見る様子もなく何を考えているのか読めない。金髪は黒髪の禁止ワードを踏まえているようだが、まだ黒髪が地雷を踏む様子はない。けれど、それも時間の問題だろう。金髪の口角は少し上がっていた。禁止ワードに確実に繋がる言葉を言ったとでもいうように。
「それでは、四周目を開始します。そろそろ運に頼らない発言が大事ですよ」
露日も同じことを思っていたらしい。釘を刺しつつアナウンスをした。
「……家、高速、お見舞い、その辺からつながりにくそうな言葉を言えば安全なのよね。いや、逆に連想するには近すぎる言葉を言う方が安全かもしれない。坊主の君が『親といえば親孝行』と言ったように」
ぶつぶつと黒髪は思考を口に出す。聞かれているという自覚もないらしい。さて、この思考はどこにたどり着くんだろう。
「家、そうね。回答します。お見舞いといったら家族」
「ふ、ははははは」
金髪が吹き出した。坊主は目を伏せた。ワンテンポ遅れて黒髪の顔の血の気が引いた。
「禁止ワードを確認しました。梨本仁美さんはここで敗退となります」
「嘘、なんで、ちゃんと考えたのに」
黒髪はごちゃごちゃと何か叫んでいるが、俺の瞳は露日を捉えていた。
さあ、次こそは自分で押せ。
叫んでいる相手を殺すよりその前にやってしまった方が楽だ。とは言え、この人はもう叫んでいるんだけれども。
「…………」
仮面の奥の瞳がきつく閉じられたのが見えた。
そして、断末魔が響き、消えた。
よくやった。俺は笑みを浮かべそうになって自重する。
「お見舞いから繋がるのは人だろうから、当たるんじゃないかとは思ってたんだけどな、こんなにうまくいくとは思わなかったぜ」
ゲラゲラと金髪は笑う。その醜悪な様子を目の当たりにし、坊主は顔をしかめた。
「ん? なんか文句あるのか? 嫌ならゲームを降りてくれてもいいんだぜ」
「……いいえ。罪を償おうとしてもまだ恨まれるならちょっと自分が死んだ方がいいんじゃないかとも思いましたけど、あなたが生きているよりは俺が生きている方がいいと思うんで」
その返事に金髪は機嫌よく笑った。
「いいなあ。勝てば金がもらえるのは嬉しいけど、その過程も楽しい方がいいからな。俺は楽しいことが好きなんだよ」
「高みの見物のようですけど、あなたも蹴落とされる相手なんですからね」
声がこちらに向いているのを感じ顔をあげると、坊主がこちらを見ていた。
殺意がこちらに向けられるのは慣れている。それはいつからのことだったか。このバイトを始めて、自分に向いていることに気づいて、後始末だけでなくゲーム自体を動かすことを覚えて。自分のやることが相手にとって害悪なのは、相手の命を奪うことから分かりきっている。でも、それを行うのは、別の誰かが奪われた幸せを取り戻すのを手伝うためだ。要するに、目には目を。歯には歯を。他人にしたことはやり返されても文句は言わないでほしい。こちらもそれは承知してるんだから。
「……それでは、仕切り直してゲームを続行します。曲が戻ったら加賀智紀さんから順にお願いします」
「はい。家族といえば子供」
「子供といえば生意気」
「物騒だねえ。生意気といえば警官」
悲鳴をあげたり叫んだりする人は消えたものの、空気は今までよりピリついていた。確実に相手を蹴落とすという意識を隠さなくなったからだろう。
四周目終了のアナウンス。
「結局、悪意がある人間と、悪意のない人間のどっちが悪いやつなんですかね」
低い声で坊主が呟いた。
「自分の中で答えのある問いを聞く意味があるか?」
金髪はそれを一言で一蹴した。坊主は諦めたように笑った。
「こんなはずじゃなかったのにな。なんで逮捕されて、変なゲームに巻き込まれて、友達が死んで、自分の命をかけてるんだろう」
「俺もそうですよ」
どこから聞こえた声だろうと、坊主はあたりを見回し、最終的にスピーカーにたどり着いた。
「俺もこんなはずじゃなかったと思ってます」
露日の声だった。感情も温度もこもらず淡々とした言葉は、真実味を伴っていた。
こんなはずじゃない。
俺だってそう思っている。でも、その状況を受け入れるなんてもったいないから、足掻いてほしいと思う。だから露日をサポートしている。
「……すみません。それでは五周目を開始します」
責任を探して押し付けてもどうしようもなく、勝つしか手段はない。そう割り切ったのか、淡々とゲームは進んだ。
「警官といえば白バイ隊員」
「白バイ隊員といえば道路」
「道路といえばコンクリ」
五周目終了のアナウンス。
六周目の始まり。
「コンクリといえば灰色」
「灰色といえば青春」
「青春といえば補導」
六周目終了のアナウンス。
少しマンネリというか、思いの外だらついている。少し揺さぶろうと声をあげた。
「あの、自分の禁止ワードを当てられればその時点で勝利が決まるんですよね」
「ええ、そうです」
露日は頷く。俺は「なるほど」と返事をして考え込むそぶりを見せる。二人がこちらに視線を向けるのを感じた。その手があった。先を越さなければ。という感情が透けて伝わる。
「あなたは、随分冷静なんですね」
坊主からの言葉はそこまで意外なものではなかった。舞台回しをする都合、システマティックな話に首を突っ込んで冷静さを不気味に思われるパターンはよくあるのだ。下手に恐れおののく姿を演じたこともあったが、そっちの方が芝居がかっていたため見破られて、始末する人数が増えたことがあってからはやめた。
「まあ、勝たなきゃ生き残れないなら、そうするので」
言葉少なに切り上げる。それ以上は何も言われなかった。
七周目開始のアナウンス。
「補導といえば深夜」
「深夜といえば酒」
俺の回答に、急に二人の視線がこちらに向かった。
「酒といえば飲酒運転」
金髪男は歯を剥き出して悪意のある笑みを深くする。ヒュッと息を飲む音がした。
「どうしたんだ、坊主」
金髪は坊主の反応を予想していたようだった。坊主は唇を噛んでいたがなんでもなさそうにに引きつった愛想笑いを浮かべた。
「いや、これが禁止ワードなんじゃないかって思っていたから」
「すげー推理力じゃねえか。じゃあ、次の手番で宣言してみたらどうだ。早くしないと茶髪の兄ちゃんが答えるかもしれないぜ」
「……その手には乗りません。俺を焦らせようとしてるんでしょうが、次のターンにどう答えるかは決めてるんで」
「そりゃ、邪魔して悪かった」
全く謝罪に聞こえない軽さで返された坊主はフンと鼻を鳴らした。
「それでは八周目を開始します」
「はい。それでは、禁止ワードの宣言を行います」
ブラフではなく、本当に坊主は自分の手番でそう言ってのけた。少し間が空いて、露日は「どうぞ」と許諾する。坊主は緊張した面持ちで大きく深呼吸をし、こう言った。
「俺の禁止ワードは『パトカー』です。理由は、前の言葉にあった『警察』や『補導』から連想されるからです。……あと、俺が逮捕されてパトカーに乗せられたことも理由かもって、それは考えすぎですかね」
その顔には重荷を下ろしたように晴れやかさはあったが、恐怖はもう微塵もなかった。自分の宣言に自信を持っていることがうかがえた。それに、禁止ワードの法則に薄らとでも気づくとは感心だ。
坊主の前の手番の言葉は、確か警官、コンクリ、補導などだった。パトカーに繋げられる言葉が含まれている。金髪が相手を陥れる意図を持ってゲームをプレイしているのは承知しているから、手番前の言葉から関連する警官や補導をピックアップし、それらにさらに共通しそうな言葉を考えたのだろう。短時間かつこの状況で思いつき、博打を打てるのはなかなか悪くない。
悪くはないのだが。
「加賀智紀さんの禁止ワードは『パトカー』ではありません。加賀智紀さんはここで敗退となります」
「え、ええ?」
彼は博打に負けたようだった。関連する言葉は他にもいくらでもあるが、相手が正解を引き当てないうちにどこまで絞り込むかがこのチキンレースの醍醐味。ハイリスクハイリターンな選択にはそれに応じた結果が与えられる。
「…………くそっ。ゆる、さ、ない」
苦痛に耐えるように声を絞り出し、呪詛を残して坊主は動かなくなった。スムーズな流れに思わず俺はカメラを見上げてにっこり笑った。
「なるほど。結局坊主も運の悪い加害者じゃなかったってことだな」
金髪は面白がるように目を細めて坊主の死体を眺めていた。飲酒運転という言葉で動揺し適当な嘘を吐いた男が罪を認めず死んだのはなんだか残念なような気もした。
まあ、露日がいいならいいけれど。
「……それでは、仕切り直してゲームを続行します。曲が戻ったら屋敷貴志さんから順にお願いします」
そして、残るは二人。俺は自分の禁止ワードを知っている。あとは自分で禁止ワードを宣言してもいいのだが、それでは少しズルがすぎる。金髪にワードを踏ませるか間違った宣言をさせるまでゲームを続けることにしよう。
「パトカーといえば逮捕」
「逮捕といえば手錠」
ゲームはするすると進む。金髪は自分が禁止ワードを踏むことがないとでも思っているのか、恐怖は微塵もない。
「これをクリアしたらお前はどうしたいんだ」
さらに世間話まで振られてしまった。
「いや、特には。今まで通りの生活に戻るだけです」
「つまらねえな。俺は金もらってどうしようか考えるだけでワクワクすんのによ」
ああ、この男はまだ自分が詰んでいるということに気づいていない。勝つことはできないし、そもそも金なんて用意していない出来レースなのに。
ふふ、と口から息が漏れてしまった。金髪が不可解なものを見たように眉根を寄せたのが分かった。
「それでは九周目を開始します」
「手錠といえば取り調べ」
「取り調べといえばカツ丼」
金髪はまた俺に声をかけてきた。
「なあ、最終局面なのになんでそんな淡々としてるんだ。もっと楽しもうぜ。もうすぐに死ぬかもしれないんだからよ」
煽るように絡んでくるが、本当に不安なのは自分なのだろう。その手の瞳はたくさん見てきた。金に釣られてハイリスクハイリターンなどと宣っていたが、結局はこいつも怖いのだ。
「楽しんでますよ。だからゲームを続けているのに。それより、答えているだけでワードの宣言はしなくていいんですか」
「そりゃテメエもだろ」
「飽きたらするつもりだったんですが、まだその時ではないので」
「飽きる? 何言ってるんだ? 感情抜け落ちてんのか?」
金髪はまだ威勢の良い笑いを顔に貼り付けていた。けれどもこれが剥がれるのも時間の問題だろう。向こうは多分自分から宣言はしない。このゲームは、宣言を一つの選択肢のように扱ってはいるものの、実際にはほぼ自殺行為だ。一つの言葉と繋がる言葉は大量にある。それをいくつか集めたところで答えに辿り着けるかは五分五分だ。それよりは地雷を予想しつつそれを避けた回答をし続ける方が安心である。
「それでは十周目を開始します」
「カツ丼といえば出前」
「出前といえばバイク」
うん。いい具合に着地できた。満足したのが表情に出ていたのか、金髪は何かおかしいことに気づいたようだった。
「お前、もしかして、グルなのか」
「だとしたら? 命乞いでもしてみるか?」
「…………いや、まだだ。俺が逃げ切ればいいんだ。下衆に下げる頭はねえよ」
下衆に下衆とは言われたくなかったが、まあいい。
「それでは十一周目を開始します」
「バイクといえば停止」
「停止といえば、信号」
少し考えたのだろう。一拍置いて回答した金髪は「負けない」と言うようにこちらを見て。
「禁止ワードを確認しました。折谷明石さんはここで敗退となります」
「…………なっ」
「楽しいからってね、リスクを取るなんて言ってね、人を傷つけるのがいけないんですよ。それではリスクの負債を存分に受け取ってください」
間髪入れずに金髪の体は痙攣し、そして止まった。
ゲームセット。俺の勝ち。
戻っておいで、とカメラに向かって手を振った。
戻ってきた露日はもう仮面を外していて、顔色は悪かった。汗さえかいていた。少しサイズの合わないジャケットを脱げばいいのにと思ったが、どうせ解体作業の前に全部着替えるのだから口には出さなかった。
「お疲れ様。じゃあここからは後処理の方法を教えるね」
死体や汚れは上が回収と清掃共にやってくれるけれど、その前に運びやすくする必要がある。
「まあ、つまりは四肢を切断してゴミ袋に入れればいいんだ。一度死んでない人を回収してトラブルになりかけたことがあってね、その確認の意味もある」
二人して持ち込んでいたTシャツとズボンに着替えてから用意しておいたトランクを開いて、そこから包丁と鋸を二つずつ出した。そして、懐に入れていた鍵で他の四人の腕輪を開放したのちに一番近くにいたボブカットの死体をブルーシートを引いた床に下ろした。
「小さくすればいいからあんまり決まりとかはないんだけどね、俺流のを教えとく。まずは腕から行こうか。肩の関節外すのは意外と力がいるから、鎖骨を鋸で切って肩の骨ごと腕を取るよ。最初から鋸使うと肉が絡むから、骨が露出するまでは包丁で切ってね」
露日にも包丁を握らせ、早速やり方を指示する。血が迸るのには驚いたようだったが、実際に彼の手に自分の手を重ねて動かすと、従順に従った。器用な方らしく、切るときの力の掛け方がうまかった。
「じゃあ、次は首をやろう。脊椎の間にうまく刃を入れる必要があるからちょっとコツがいるかもね」
骨と骨の間の連結部分に刃が通れば、大根か何か切るようにするりと切断できるのだ。念のため大動脈に切れ目を入れて血抜きした後に、位置を指示して切り落とさせる。ゴロンと転がった頭の二つの目は白濁が始まっていて怖くもなんともなかった。
「下半身に移ろうか。まずは腰椎のあたりで上半身と下半身を分けてしまおう。大腿骨や関節に手を出すのは骨が折れるから、骨だけに」
調子に乗って不謹慎ジョークを言ったが、もちろん返事はなかった。一回体をひっくり返して背中側から腰椎を切る。そのまま内臓は切らないように包丁で柔らかい脂肪や肉を切って上下は分たれた。
「最後、恥骨結合を切り開いて左右に分けるよ。直腸を傷つけると悲惨なことになるから気をつけて」
こうして、下半身は左右の寛骨が分たれ、仙骨は片方に残し、きれいに二つに分かれた。
「意外と、力仕事だろ。後四体、二人がかりでやってもなかなかきついぞ」
血に濡れた包丁を見つめ、露日は息を荒くして俯いていた。
「大丈夫か? 疲れたか?」
「……91さんは、ずっとこんなことをしてたんですか」
何を今更。「そうだ」と首肯する。
「これが生き方だからね。これからもそうするさ」
「なんで、できるんですか?」
「……さあね」
その理由を言ったところで、露日には理解できないだろうし、同情されるつもりもない。こんなところで問答しないでさっさと二体目にかかるぞ、と立ち上がろうとして。
「あ」
腹が熱い。いや、冷たい。
見ると、腹から包丁が生えていた。違う。刺さっている。その柄には手があって、それはもちろん死んだ人間のものではなく露日のものだった。
「なんで」
俺は敵じゃないのに。
露日は泣いていた。それを見て、怒りでも死への恐怖でもなく、俺は戸惑いを覚える。自分が彼に刺されるのも、刺した彼が泣いているのも意味が分からなかった。露日は、言葉を振り絞って続ける。
「何人にも、こんな思いをあなたはさせてきたんだ」
そうだ。俺はいろんな人間の復讐を手伝い、救ってきた。
人のためになることをしていた。
「人殺しは苦しい。復讐はしたいけど、復讐が正義なんて正当なんて嘘だ」
俺は、お前が喜ぶと思って。結果的にみんなのためになることだから。恨み続けるより一気に断ち切った方がいいと思うから。
「ダメなんですよ。このやり方じゃ誰も幸せになれないんです」
なんでそんなこと言うんだよ。だって、俺は人を幸せにするために。
「人を殺すのは悪いことです。でも、僕はあの人たちが死ななければよかったとも思えないんです。あなたには感謝しているんです。でも、でも。これから復讐する人に同じ思いはして欲しくない。人を殺すような悪い人間を増やしちゃいけない」
そんな、悪いことなんて。
「復讐心は確かになくなる。でも、こんなの永遠に忘れられないじゃないですか。こんなの一般人に強いちゃだめなんです」
なんで俺を否定するんだ。
「だから、これからは俺がやりますから」
露日の両手がナイフから離れて俺の手を包んだ。視界の端がどんどんぼやけ始める。感覚が消えていく。
「俺が全部の悪いことを背負うから。だから、死んでください」
そんな必死に頼まれたことなんてなくて、笑いかけて、血を吐いた。死んでくれなんて言葉がこんなに穏やかに告げられることなんてあるだろうか。
死んだら、露日のためになる?
そう問うたら頷かれて、ますます血を吐いた。露日の顔にまで飛んだ。
じゃあ、いいか。そう思ってしまった。全くもって自分のやったことは悪いと思わないし、露日の言い分に反論したいこともあったが、その言葉で全てがどうでも良くなった。
そう、自分が欲しいのはそれだけだったのだだ。
「ありがとう、91さん。俺のことを救ってくれてありがとう」
全てがぐるぐると渦を巻く。まさか自分が感謝されながら死ぬとは、なんてそれも意外で、笑いたくて笑えないのがもどかしかった。
「まあ、要するに人生を生きるならやりたいことをやるべきだって考えの人だったんだ」
そして、人を丸め込むのも騙すのもうまい教祖のような人だった。そう露日は心の中で付け加える。セルフプロデュースで自分を相手に印象付け、真の願いは悟らせず、相手を絡めとる引力。今の自分があるのはあの人のせいで、生きている間あの人の呪縛からは逃れられない。あの人を殺した時から、露日はもう呪いの中にいた。
「うん、俺も大学行こうかな」
露日の言葉にサトウは「それがいいって」と嬉しそうに笑う。
彼が専攻していた学問はどこで学べるんだろう。そう考えたときに、ちらりと知人の大学生のことが脳裏によぎった。そういえばあの人は何を学んでいたんだろう、と思うもすぐ思考を止めた。あの人もすぐ自分の手で殺される。知ったところで意味なんてない。
早く次のゲームを企画しなくては。そう考えつつ、露日は紙にペンを走らせ始めた。
*
『C県N市で大学生が橋から転落して意識不明の重体です。重体となっているのはN市の大学に通う大学二年生・菜柱葉月さん(十九)です。菜柱さんは市内の橋の下に倒れているのが発見され病院に運ばれましたが、頭などを強く打ち意識不明の重体です。警察は事故と事件の両方の線から転落前に何があったのか聞き込みを進めています』
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