母の怪

 意外なことだが、道路わきの緑地帯や河口付近の砂浜には、食える草がけっこう生えている。アザミやノゲシ、ヨモギの類はありふれていて目をつむっていても見つけることができるし、浜辺の砂地にはハマエンドウやオカヒジキ、運が良ければ野生化したダイコンなどがある。街路樹には梨やリンゴの木もあるし、交通量の多い跨線橋の下で野イチゴが群生したりする。それらを根気よく採収すれば、野菜など買わなくても十分にビタミンをとることができるし、ましてや畑など作る必要はない。金をかけることなく人並みの食生活ができるのだ。

 河口付近にかかる橋を渡りながら、一騎人は新たな発見に胸を躍らせていた。この有益な情報は、橋の下でエロ本のそばに捨てられていた植物の本から得たものだ。橋の下にはいろいろなものが落ちている。その大半はエロ本や空のペットボトル、浮浪者の寝具、使用済みの避妊具もしくは下着といったいかがわしいものばかりだが、たまには金目のものや退屈しのぎの小物などが見つかることもある。だから橋の下巡回は止められないのだ。

 運動靴のヒモがほどけていた。一騎人はその場にしゃがみ込んで結び直そうとしたが、線路にのせていた足に振動を感じたのでそのまま走り抜けた。一騎人が鉄橋を渡りきったと同時に特急列車が走り抜けた。汽笛を何度も鳴らして怒りをあらわにしていたが、一騎人は気にしている様子でもなかった。列車が走り去ると再び線路に足をのせて靴ヒモを引っぱったが、すぐに切れてしまった。ゴム底がつま先部分で剥がれ始めているので、靴の中は砂が入り放題だった。靴下をはいていないので、一騎人の足は砂だらけだ。とくに足の指の間にこびり付いた砂は厄介で、水飲み場の水道で流さなければとれないだろう。

 一騎人が歩き回っている地域は、河口から海岸までの一帯だ。その付近の海岸は、以前はきれいな砂浜だったのだが、大型護岸工事ですっかりと変わってしまった。コンクリートの護岸が整備され、石油関連施設や倉庫群が建ち並び、大型船がひっきりなしに入港するようになった。のどかな様子が一変し、とても人工的でせわしなくなっていた。

 自然を壊した見返りに、行政はいくつかの公園を造成した。しかし、付近には住宅などないのでやってくる人間は僅かだ。

 廃材置き場のすぐ横にあるもっとも小さな公園が、一騎人と母親の住所になっていた。すぐ目の前にスクラップになったショベルカーなどの重機類が無造作に放置されているので、良識ある市民がそこに公園があることに気づかないし、まして足を踏み入れる者はいない。まれに草刈作業員が雑草を刈り取りにくるぐらいで、野良犬さえも近づこうとはしなかった。

 一騎人は上機嫌で公園に戻ってきた。手には橋の下で拾った食用となる植物の本をもっている。母に見せてやったら、さぞ喜ぶだろうと思っていた。

 四角い小さな公園内には遊具が二つ設置してある。一つはどこにでも見かけるありふれたブランコで、もう一つは中が空洞になったコンクリート製の筒だ。見た目はまさしく土管で、直径は八十センチくらいで長さは五メートルほどあった。子供たちが潜り抜けたり、秘密基地にしたりする遊具だ。母と息子は、その土管を住まいとしていた。

 一騎人が家に帰ってきた。遊具の入り口には、廃材置き場で拾った厚手の布が掛けられている。工事現場で使うかなり重い布なので、たいていの雨風の侵入を防げた。遊具は葉巻型をしているので、内部の居住空間は当然丸くなっている。座り心地が悪く物も置けないので、親子は板を敷いて水平な床をこしらえていた。家財道具といえるものはほとんどない。煤で真っ黒くなった鍋と茶碗類、灯油ランプ、あとは布団くらいだった。

 母は寝ていた。土管の中は狭いので親子が横に並ぶことはできない。二人は前後を半分ずつ分け合って暮らしていた。

 一騎人は、さっき見つけてきた植物の本をこれ見よがしにかざした。そして食べられる草がその辺で採れるので、これからは野菜に困らないと自慢げに語った。母は頭を向こうに、足の裏を息子に見せながら布団をかぶっていた。やや興奮気味に発せられる息子の言葉には反応しなかった。しかし一騎人がしつこく言うので、しかたなしに、ああ、ああ、と気のない返事をするばかりだった。

 次の日、一騎人は例の本と鍋をもって野草採集にでかけた。一緒においしいものをたくさん採ろうと母も誘ったが、疲れているからと断られていた。

 一騎人は、本を見ながらいくつかの野草を採って、じっさいに鍋で煮て食ってみた。しかし、どれもアクが強くて旨いものではなかった。期待していただけに落胆してしまった。よくよく考えてみると、それらの雑草が旨ければ誰でもが食べているはずだし、値段がついて店頭にも並ぶはずだ。そう簡単にご馳走にありつけるはずがない。世の中それほど甘くないということだ。

 一日中道ばたの不味い草を食った一騎人は、意気消沈して公園に戻った。土管の中で、母は相変わらず寝ている。彼女の小さな足元に飯が用意してあった。献立はみそ汁の中に冷や飯を入れて煮込んだだけのもので、ここしばらく同じものが続いていた。実質的な路上生活者である母と息子には金がない。米の飯が食えるだけまだましだと、一騎人は不平を言わなかった。

 生活を支えていた母の年金も、とうとう手帳ごと悪質な金融業者にとられてしまい、母子にはまとまった現金収入がなくなっていた。すでに金になるものは残らず売り払っている。あの家賃がかからない平屋も、別の借金取りが怖くて出てしまったのだ。

 一騎人は、職につく気配すらなく毎日をふらふら生きていた。母は人並みの生活を望んで働こうとしたが、慢性の関節炎に悩まされている老婆に仕事の口はなかった。どうしようもなく息子についていくしかない。彼女には生きているという気力も、これからの希望もなかった。ただ息子の身の回りの世話をしているだけが、彼女が存在している証だった。

 味噌汁ご飯を茶碗によそおうとしたが、一騎人は飯を掬うお玉がないことに気づいて、あっちを向いて寝ている母に文句を言った。母はむくっと起き上り、鍋のわきにあったお玉を息子に手渡した。その母の手を見て、息子は仰天した。

 あろうことか、彼女の左手の指同士がくっ付いていた。なんと糸で縫っているのだ。真っ黒な糸で親指は人差し指に、人差し指は中指に、そして薬指、小指と、隣り合うそれぞれの肉がすき間なくぴったりと縫い付けられていた。

「それ、どうしたんだ」

 縫い合わされた痛々しい手を気遣うよりも、母を責める口調だった。

「なにしたんだよ、おい」

「もういらんだ」母は息子の顔を見返すことなく答えた。

「いらんって、なんだよ」

「だから、もういらなくなったから縫ったんだ。なんせおまえが食う飯の支度だけすればいいからな。味噌汁とめしかき回すだけだから、両方の手はいらねえんだ」そう言い終えると、母はまた横になった。

 いったいどうやって縫い合わせたのか。これだけの手術をやったのだから痛みも相当なはずである。その証拠に母の左手はまだ血が滲み出しており、すべての指が相当に腫れあがっていた。

 一騎人は、布団にくるまる母の姿をしばらく見ていた。何かを言いかけたが、その言葉を飯と一緒に飲み込むことにした。味噌汁ご飯は冷えていた。いつもは多少のぬくもりが残っているのだが、母に温めてくれとは言えなかった。

 次の日、例の本を捨てた一騎人は、植物採集をやめて空き缶拾いをしていた。空き缶はたくさん拾わないと金にならない。幸いなことに、車道が整備された海岸付近は、車から投げ出されるゴミが多い。空き缶も大きな袋ごと捨てられたりするので、いい稼ぎ場になるのだ。以前は市の中心部をまわっていたが、清掃されているためにたいした稼ぎにならないし、知り合いに出会ってしまう危険もあった。

 一日をついやして空き缶拾いを終えた一騎人は、公園の土管に帰ってきた。母は相変わらず薄っぺらな布団をかけて横になっている。一騎人は、思いがけず大量の空き缶を見つけて雑品屋まで運ぶのに苦労したことや、空き缶の価格が上がって高く売れたことを自慢げに話した。母はいつものように返事をすることはなかったが、時おり咳き込むのをまだ元気な証だと思っていた。

 飯はいつもの味噌汁ご飯だった。稼いだ日ぐらい良いものを食いたかったが、一騎人が愚痴を言うことはなかった。これから厳しい季節になる。冬場は空き缶も少なくなるし、飲み残しの中身が凍ったりするので運ぶのにも苦労する。それほど稼げなくなるから、いまのうちに蓄えなければならないのだ。

 それにしても鍋が冷たかった。温かい飯を食いたかった一騎人は、寝ている母に文句を言った。しかし起き上った母の顔を見て、息子は次に言うべき言葉を見失ってしまった。

 母の片方の目が塞がっていた。いや、目だけではなかった。片方の鼻の穴もぴったりと閉じられていた。黒い糸で縫われている。左手の指をすべて縫い合わせたのと同じことを、左目と左鼻にも施していた。自らの右手と不自由になった左手だけで、医者でもないただの老人が針を通したので、うまくいくはずがない。目の縫い合わせはきわめて不規則であり、素人がこころみた初めての裁縫よりもひどく、痛々しいを通りこして不気味であった。鼻にいたっては、左側が黒い糸だらけで鼻周辺の皮膚が見えないくらいだった。もちろん、目も鼻も縫い痕は赤紫色に化膿し、顔面の左側は右側の二倍くらいまで腫れあがっていた。

「一日中ここで寝ておまえの飯つくるだけだから、目も鼻もいらねえんだ。ほんと、いらねえ」

 驚いた一騎人は、消毒をしたほうがいいと母に言うのが精いっぱいだったが、この土管の家に消毒液はなかった。今日の稼ぎがあるので薬局にいけば買えないことはないのだが、せっかくの現金収入を使ってしまうのはためらわれた。そんな空気を察してか、母は心配することはない、この顔は一晩寝たら治ってしまうと言った。

「ほれ、この手見てみい。もう治ってるわ」

 母は息子の顔の前に自分の左手をかざした。幾重にも縫い合わされた手の平は不気味な紫色に変色していたが、腫れはいくぶん小さくなっているように見えた。

「塩水で洗えばいいんだ。薬なんか、そんなもんいらねえ」

 本人がそう言うのだからきっと大丈夫なのだろうと、一騎人は納得することにした。そしてそれ以上深く考えることはやめて、冷たいままの味噌汁飯を急いでかきこんだ。

 翌日、一騎人は空き缶拾いもせずにいつもの橋の下にいた。空き缶や資源ゴミを拾うのは疲れるので、いっそのこと物乞いをしてはどうかと考え込んでいた。みすぼらしい格好をして人前に座りこめば、憐れにおもった通行人が小銭をめぐんでくれる。一日やれば、結構な金額になるのではないかと皮算用していた。

 物乞いが儲かることは、以前読んだ小説にも書いてあった。あちこち歩き回らずにすむし、人によっては千円札や五千円札を投げ入れてくれるかもしれない。他の土地に移れば知り合いもいないので恥ずかしいこともないだろう。あの土管の家はもったいないが、まあ、どこの町にも似たような場所はあるだろうとの結論に達した。母を連れての移動は困難が予想されるが、リヤカーにでも乗せていけばいい。

 我ながらいい考えにたどり着いたものだと、一騎人は一人で感心していた。そうと決まればすぐに帰って支度をしなければならないし、この抜群の案を早く母に言いたくてしかたなかった。

 一騎人が土管の入り口の布をめくって中に入ると、いつも横になっている母が正座していた。円筒の中は狭いので頭が天井についている。彼女は帰ってきた息子に、これから口を縫い合わせるのだと言った。

「もう、食うものがないから口も開かなくていいんだ。いらねえものは、いらねえからな」

 母は釣り針のかえしの部分を潰した特製縫い針に黒い糸を通そうと、一つ残った右目を細めてそう言うのだった。

 唇を尖らせて針を突き刺す母の姿を直視することができず、一騎人は外に出た。そして早足で歩きながら、乞食になったらどういう文句を言って人の憐れみを乞うかを必死に考えていた。

                                  おわり

                                                 

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馬場一騎人と怪 北見崇史 @dvdloto

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