平屋の怪

 母親を連れて、一騎人が新たな住居に引っ越した。

 廃墟となった水産加工場のすぐ裏手にある、木造平屋建ての古い住宅だった。もとは低所得者用に市が大量に建てた市営住宅で、今となってはそのほとんどが取り壊されていたが、うら寂しい場所にある数棟がまだ残されていた。住宅地からかなり離れているのと海岸近くに建てられていたために、更地にしても費用だけがかかり使い道がないと判断され、そのまま放置されていた。誰も住むことなく十数年空き家のまま、時だけが経った。平屋の周囲には、まるで稲刈り時期の田んぼのように、びっしりと雑草が蔓延っていた。

 一騎人は職場での使い込みが発覚して退職していた。同期に誘われて始めたギャンブルが転落の原因だった。初めていっていきなり大勝ちし、思いもよらぬ金を手にすることができたので、すっかり夢中になってしまった。もう仕事が手につかないほど憑りつかれてしまった。はじめのうちはそこそこの儲けを得ていたが、ある時期から負けが続き出費がかさみだした。

 とにかく負けた金を取りかえそうとして、冷静さを失ってはまた負けを繰り返すという悪循環に陥った。給料のほとんどをつぎ込み、それでも足りずに母親の蓄えにも手をだした。小心者だった男の金銭感覚は完全に麻痺し、とうとう借金までしてしまった。それも消費者金融だけではあきたらず、悪質な金融業者にまで借りる始末だった。そうして借金が膨らみ続け、身動きができない状態にまで追い込まれてしまったのだ。

 すでに病的な依存症患者となった一騎人にとって、ギャンブルの浪費は尽きることのない欲求の禁断症状だった。触れてはいけない果実に手をだすのは、時間の問題だった。

 職員同士が任意で集めていた積立金を横領してしまった。通帳に記載されていた金額は高級車が一台買えてしまうほどだった。その管理窓口者であるのをいいことに、一騎人はすべての金を使い込んでしまった。稚拙な犯行は発覚も早かったが、世間体を気にする市役所としては、職員の不祥事が知られてしまうことを嫌った。金を返すことを条件に警察への告発を見送っていた。ギャンブルではツキがなかったが、首の皮一枚のツキが残っていたことになる。

 横領した金は一銭も残っていなかった。このままでは刑務所に入れられてしまうと、一騎人は大泣きしながら母親にすがった。彼女は馬場家唯一の財産である自宅を売り払って、不詳の息子の罪をつぐなうことにした。家は老練な不動産屋に安く買い叩かれてしまった。積立金の使い込みは、なんとか補填することができたが、高利貸しへの返済はかなりの額が残ったままだった。一騎人は自主退職という形で職場を去ったが、実質的にはクビにされたのだった。

 長い間、平屋を守っていた三桁の番号を合わせるタイプの錠はすっかり錆びついてしまって、番号の回転部分は動きが悪かった。その薄っぺらな金具ごと錠を引き抜いてしまえば容易に侵入できるので、番号合わせにイラついた一騎人は実際にそうした。どうせ錠などなくとも賊などやってこないし、たとえ家に入っても盗む物などない。引き千切った錠を遠くに投げて平屋の中へと入った。

 母親は持参したカマでその辺の雑草を刈り取っている。家の中はしばらく人が入っていなかったので、埃だらけで、おまけにひどくかび臭かった。この平屋で奇妙なのは窓が極端に小さいことだ。どの部屋の窓も顔一つ分しかない丸窓だった。市営住宅だと聞いていたが、なにかの待機所として建てられたのかもしれない。それにしても、これではまるで漁船ではないかと一騎人は思った。

 新たな家主は、とりあえず家の中を見てまわった。汲み取り式の便所は、人が住まなくなってから相当の年月が経っているのにもかかわらず、いまだ新鮮な糞尿臭を充満させていた。一騎人は便所の奥にある風呂場を覗いた。半畳ほどの浴槽はタイル張りだったが、あちこち欠けていた。湯沸かし器と浴槽が連結する部分に、数匹のカマドウマが戯れている。一騎人がすぐに殺虫剤を吹きつけると、その翅のないグロテスクな身体をそこかしこに激しくぶつけ、苦しげにのた打ち回りながら徐々に動かなくなった。その死んでゆく様子があまりにも衝撃的だったので、一騎人はこの家では絶対に入浴しないと決めた。

 家の周囲の草刈りを終えた母親が中に入ってきた。便所や風呂場や部屋を見てまわっては、大きなため息をついていた。息子は小言をいわれるのがイヤで、親を避けるようにしていた。

 一方が四畳半にいるともう一人は便所に、母が風呂場の虫けらを掃除していると、一騎人は自分の部屋となる六畳間でマンガを読んでいた。親子が一つの部屋に一緒になることは難しかった。母はあきらめたのか、とっておきの大きなため息を吐き出すと、とぼとぼと元気のない足取りで台所に向かい、そして食事の支度を始めた。

 本日のみそ汁の具はタマネギだけの予定だったが、母親が雑草を刈っているときに自生しているニラを見つけたので、ニラ入りタマネギの汁になった。ニラの卵とじが息子の好物であるので母親は喜んだが、採れたのが一握りにも満たなかったので、みそ汁にちらすしかなかった。おかずは、かつおのふりかけと塩っ辛いマスの切り身だけだった。息子は無言のまま食べ続け、母親も彼に話しかけることはなかった。

 馬場家の家計は苦しかった。懲戒免職ではなかったので少しばかりの退職金はあったが、それも毎夜恐ろしい言葉で脅かしてくる金融業者にとられていた。ギャンブル依存の後遺症と常軌を逸したすさまじい強迫で、一騎人の精神をつなぎ合わせていた鎖があちこちで切れてしまっていた。もうギャンブルに狂うことはなくなったが、働く意欲もなくなり、新たな職を探すこともなく呆然とした日々を送っていた。母親のわずかばかりの年金が一騎人の生命活動を支えているのだが、息子は感謝もせずただ食うばかりだった。彼女も見返りを期待していなかった。結局、新たな住居を掃除したのも母親だった。

 この平屋の住宅は、彼を憐れんだ市役所の同僚が家賃を納めずにすむように取り計らってくれたのだ。母親は手配してくれた人にお礼をするようにと息子に何度もいいきかせたが、一騎人は生返事を繰り返すだけで、実際に礼をすることはなかった。母親は、引っ越しが落ち着いたら菓子折りの一つでも持っていこうと思っていた。感謝の気持ちもあるが、この先また世話になるかもしれないし、そのときに邪険にされないようにする意味もあった。彼女はきっとそうなるだろうと、寝転んでマンガを読む息子を横目に見ながら確信していた。馬場家には頼るべき人物がいない。

 まだ十月にはなっていないのに、引っ越し初日の夜はいつになく冷え込んでいた。部屋の小さな丸窓が曇り、一騎人が草むらで捕まえたキリギリスも鳴くのをやめて、じっと動かぬまま尻から白い脂の塊を出していた。

 遠くから梟のさえずりが聞こえた。初めて聞く鳴き声なのにそれが梟だとわかったことに驚いて、一騎人は目を覚ました。しばし耳を澄ましてみるが、いたって静かで梟の鳴き声など聞こえない。へんな夢でも見たのか。愛らしい小鳥じゃあるまいし、そもそも猛禽がさえずるということ自体おかしな話だと、枝にとまってネズミを咥えながら悦にひたっている梟を思い浮かべて苦笑した。

 一騎人は起き上ると、丸窓に近寄り外を見た。うっすらと靄がかかっているようだが、暗いのではっきりとはしない。窓を開けようとしたができなかった。しばらく使用していないものだからきつくなったのだろうと力をいれるが、ピクリともしない。よく見ると窓は固定式であり、そもそも錠がなかった。母親が掃除をしていたときに窓が開かないと嘆いたことを、息子はすっかり忘れていた。

 夜中に一度起きてしまうと寝つけなくなってしまう一騎人は、しばらく起きていようと決めた。灰皿から吸殻を一本拾い出して、フィルターに付いている灰を丁寧に落としたあと火をつけた。エグイ味のする煙を吸いこみながら何気なく部屋の中を見渡すと、壁に穴があるのを見つけた。その壁は母親の部屋と一騎人の部屋を仕切っている。穴は今まで気がつかなかったのが不思議なくらい目立つもので、ある種の目的を強く意識させるように丸くきれいにくり貫かれていた。隣で若い女性でも寝ているのならまだしも、自分の年老いた母親を覗き見してもしかたないと一騎人は苦笑したが、なぜこんな穴があるのか興味をかきたてられた。以前に住んでいた人物は、どういう理由があってこの覗き穴をつくったのだろうか。ためしに、壁に頬をつけてそっと覗き込んでみた。

 黄色い暗がりの中で老婆は寝ていた。一騎人の母親は、いつも豆電球を点けたまま床につくことにしていた。真っ暗だと、あの世のものが現れやすくなるとは常日頃からの口癖だった。人の魂は寝ているときが一番無防備で、しかも狙われやすい。少しでも光があれば、不浄の者たちの力を弱めることができると言っていた。信心深い年寄りの意味のない習慣だと一騎人は思っていたが、今夜はそのおかげでありえない光景を目にすることとなった。

 天井の四つ角のうち、窓側の奥の角が真っ黒になっており、豆電球の黄色い光が吸いこまれている。五十センチ四方だろうか、そこだけ天井の板が外され天井裏の空間があらわになっていた。

 なんと、その真っ黒な空間から得体のしれないものが顔を出していて、下を見回している。それはどうやら人間の顔のようだが、それにしては頭部が不自然に大きくて、男とも女ともわからなかった。極めて異様で気味の悪い大顔が天井裏から這い出して、下界を睥睨しているのだ。

 一騎人は凍りついてしまった。覗き穴に片目を貼りつけたまま、ねっとりとした唾を呑みこんだ。そのまま息をするのも忘れていたぐらいだった。母親は不気味な顔に見つめられていると気づくことなく、まっすぐ天井を向いたまま寝ている。呼吸をしていないかのような静かな寝息だった。

 すると天井の角にいた大顔が、すうっと降りてきた。蛇が身をくねらすように、その長く伸びた首を「つ」の字に曲げて、ゆっくりと降下してくる。その目は、あくまでも母親を見つめたままだ。首はどこまでも長く表面には蛇腹のように無数の節があり、しかも吹き出物だらけで醜かった。胴体はどこにも見当たらない。おそらく天井裏に隠れているのだろう。

 大顔は、添い寝するかのように母親の顔の横に落ち着いた。しばらくは一緒に並んで呆然と天井を見ていたが、そのうち寝返りをうって老婆のほうを向いた。顔は巨大なくせに能面のように無表情だった。感情を押し殺しているというのではなく、もともと心の動きそのものが存在しないかのような印象だ。

 大顔は老婆の耳元に何事かをささやき始めた。一騎人は耳をすませた。あの長い首の化け物が、自分の母親になにを言っているのか知りたかった。しかし大顔の声が、薄っぺらな壁を通過して一騎人の耳に届くことはなかった。聞こえそうで、どうしても聞こえないのだ。

 一騎人はどうしても聞きたくてたまらなくなった。目で見ることをやめて耳を穴へとあてることを決心し、いったん壁から顔を離そうとした。

 だが一騎人の顔は壁から離れなかった。本人は離れようとしているのだが、何かの力が顔を壁に押しつけていた。後頭部と首に強烈な締め付けを感じる。誰かが自分の頭部を力いっぱい壁に押さえつけていると確信した一騎人は、両手で壁を押し返してみるが、どうしても壁から顔を離すことができず、向きを変えることもできない。首から下は自由なので、後方に向かって足で蹴ったりまさぐったりするが、なんの感触もなかった。そこに何かがいるのは確かなのだが、誰がどういう状態で自分を押さえつけているのか見当もつかなかった。押さえつけている力が徐々に強くなってきた。一騎人はパニックになり、わけのわからぬ叫び声をあげながら必死にもがいた。恐怖と圧迫感で死んでしまうと思っていた。

 息子が否応なしに目にしている光景は、息絶えたように寝ている母親と長い首の化け物だった。一騎人は、「かあさんかあさん」と狂ったように叫んだ。豆電球の黄色い光が暗闇の中に消えてゆく。大顔は老婆に話しかけるのをやめて、再び天井を見つめた。長い首の残りの部分が静かに降りてきて、痩せた布団の脇にとぐろを巻いた。母親は何事かをつぶやいている。その口の動きは大顔と同じだなと、一騎人は思った。

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