ホテルの怪

 太った中年女のすぐ後ろを歩きながら、一騎人はジャンパーに付属している薄っぺらなフードを被った。冬の海岸には強風が吹きつけ、波が高く寒かった。

 夏に裸足の親子を惹きつけていた透き通った群青はすでになく、海面は茶色く濁り汚らしい泡までふいていた。冷えた潮風がまともに突き刺さってくる。空を覆う灰色の雲は海面に接するくらい低く垂れこめていて、とても重そうだ。

 ウミネコが、砂浜の奥に広がった草地に集団でたむろしている。ミャアミャアと鳴く気力もないのか、皆で情けない表情をしながら無言で冷風に耐えていた。

 中年女がウミネコたちの横を通り過ぎて、砂浜の向こうにある丘に向かっていた。そこには波消しブロックの長い列があった。それらは本来海に沈めるものだが、なぜか陸に、しかもうず高く大量に積まれていた。

 一騎人は彼女のあとを追った。砂地に足をとられるために歩きにくくて仕方がない。砂は靴の中だけではなく靴下も通り抜け、足の指の間にこびり付く。潮風が塩分を含んでいるため、時おり目をこすったりすると滲みて痛くなった。体力に自信のない一騎人は、心の中で舌打ちしながら歩いていた。

 丘の上にたどり着くには、急な斜面を登らなければならない。坂は五メートルほどの高さだが、斜面が砂地なので難義した。足が踏ん張れないので、ちょぼちょぼ生えている雑草をつかんだりするが、そうすると根っこごと抜けてそのままひっくり返りそうになった。中年女はいい塩梅に太っているが、その坂を登るのは意外に素早くて、熟練した鳶職人のように、ひょいひょいと身軽だった。

 一騎人がやっと坂を登りきると、中年女はすでに山と積まれた波消しブロック群の上にいた。ブロックは人がのって歩きやすいような形状にはなっていない。表面は滑りやすいうえに、各頂点がチューブ状になっており平らな個所がない。上にのって少しでもバランスを崩すと転倒し、硬質なコンクリートに身体を打ちつけてしまう。いや、よほど注意しなければ簡単に転倒してしまうだろう。一歩一歩足裏に全神経を集中させ、心して踏みださなければならないのだ。

 ブロック群の上をしばらくうろついた後、中年女は、一片が赤く塗られたブロックで立ち止まり、その赤ブロックと他のブロックが接触する際のすき間を覗きこんでいた。ふらふらとおぼつかない足取りで、一騎人がようやく彼女の傍らまでやってきた。

 中年女は自分の足元を指さして、「ここだ」と言った。厳めしい二重あごに確信が満ち満ちている。彼女はそのすき間をしばし見つめると突然姿勢を正し、そして気をつけのままその中へと落ちていった。

 驚いた一騎人は、中年女が姿を消した個所を覗きこもうとした。だが不確かな足場であるため、極めて危なっかしい姿勢をとらざるをえない。和式便所で用をたし、自らが落とした不浄の塊を見送るような、じつに窮屈な格好だった。

「あっ」

 その不安定な足場で体勢を崩し、一騎人は中年女の後を追うように落ちていった。波消しブロックの固いコンクリートに頭をぶつけなかったのは幸いだった。穴はどこまでも深く、いつになっても着地の衝撃を感じることはなかった。奈落の底に落ちてゆく感覚に、一騎人の気は遠くなった。



 浅い眠りの海をまったりと泳ぎながら、もうそろそろ起きて学校に行かなければと一騎人は考えていた。彼の通う高校は遅刻にはうるさかった。遅れた者は体育館の便所掃除をやらされる。そこの便所は学校の中で一番臭くて汚いので、罰としては効果的だった。便所掃除は嫌だが、ふわふわとして軽く、脂やけした体臭のニオイがまったくしない布団の感触があまりにも良かったので、一騎人はまだ起き上っていなかった。

 しばしまどろんでいたが、何やら騒々しくなってきた。ドタバタといくつもの足が走り回り、誰かが奇声を発している。部屋の中ではないが、すぐ近くが賑やかだった。

 一騎人が上体を起こした。目をこすって室内を見渡す。彼が寝ていたのは畳の数が六枚の和室だった。隅には古い型式のテレビと冷蔵庫があった。壁には印刷された安物の水墨画が掛けられている。一騎人自身は薄っぺらな浴衣を着ていた。冷蔵庫の上に小冊子があって、ジュースやビールの値段が記してあった。

 自分がホテルの一室にいると一騎人は自覚した。浴衣の襟には、地名とホテル名が小さく印字されている。温泉が売りではあるが、それほど高級ではない観光ホテルであるとすぐにわかった。客は会社の旅行か家族連れが多く、部屋の外が騒がしいのは子供がはしゃいでいるのだろう。

 浴衣のまま部屋を後にした一騎人は、館内を散歩することにした。足元には赤い絨毯が仰々しく敷かれていたが、しばらく取り替えていないのか焦げやシミが目立って、実際はかなりくたびれていた。廊下には意味もなく満面の笑みを浮かべた子供たちが、汗だくになりながら縦横無尽に駆け回っている。どこかで大人のたしなめる声が聞こえるが、小さな悪魔たちを抑止できるほどの力はなく、その意思も薄弱だった。

 二人の仲居がお膳を十段くらい重ねて廊下を塞いでいる。いかにも落ち着きのなさそうな子供たちが、縄張りを主張する猿みたいにキーキー叫びながら、その脇をすり抜けた。するとお膳の塔が左右に大きくしなったが、熟女たちの練達した腰さばきが崩壊を見事に防いでいた。

 いたるところから温泉宿の匂いがする。かすかな硫黄の臭気と食事と酒が入り混じった独特のものだ。一騎人は一人でぶらぶらしていた。売店でキーホルダーを物色したり、ゲームコーナーに入ってお菓子を釣り上げるゲームに熱中した。そして少しばかり疲れたので、ロビーで休息していた。ビニール製のソファーにだらしなく身をあずけて、自分がなぜここにいるのかを考えていた。修学旅行は遠い昔にやり終えたし、父親が死んでからは、家族旅行に出かけることもなくなっていた。

 フロントの脇でタチの悪そうなオヤジが一人、ホテルの若い従業員に絡んでいた。男はかなりの酒が入っているらしく、ひどい臭いの息を吐き出しながら、サービス業の本質たるものを偉そうに講釈している。フロントの若い男は、はじめのうちは酔っ払いオヤジの説教をおとなしく拝聴していたが、やがてその理不尽さに耐えきれなくなったのだろう。イカ臭いゲップを吐きかけられたのを契機に、その酔っ払いオヤジ以上の大声で反撃し始めた。騒ぎを嗅ぎつけたベテランのフロントマンが二人の間に割って入るが、酔っ払いオヤジが彼の頭部の秘密をめざとく見つけ、カツラをはぎ取ったことに激高し、若いフロントの男以上の音量でもって戦い始めた。

 ロビーの片隅が騒然となっていた。他の客は見て見ぬふりをしながら注目していた。おばさんの一団が、ケンカをしているすぐ横の長椅子を占有し、温泉タマゴに塩をまぶし、ふかした芋にかぶりついていた。忙しく働いている仲居を呼び止めて、芋を食っているから茶をもってこいと横柄に言っていた。目前で起こっている揉め事など、彼女たちにとっては、まさに他人事でしかない。自分の仕事をするかおばさん連中に茶を運ぶか迷っている仲居に対し、ぐずぐずしないでさっさともってこいと、男以上の迫力だった。

 一騎人は、太い黒縁のメガネをかけた痩せっぽちの中年男に注目した。黒縁は数人の男たちの先頭を、何ごとかを口走りながら歩いていた。後ろから幹事さん幹事さんとしきりに声をかけられている。浴衣を着て上機嫌の男たちに、その幹事さんも何のモノマネかわからないが、おかしな腰つきでヘコヘコとおどけて爆笑を誘っていた。

その一行は、会社の金で慰安旅行を楽しんでいるといった様子だ。黒縁は一見してとても出世しそうには見えないが、宴会の幹事とか、そういう仕事には長けているのだろう。集団の先頭を歩きながら、小さなメモ帳にボールペンで書き込みをしている。彼らは下品に笑いながらストリップショー会場へと向かっていた。

 この時、温泉宿のありがちな喧騒の中に、張りつめた気配が侵入してくるのを感じたのは一騎人だけだった。えもいわれぬ緊張感がひたひたとやってきた。両腕に鳥肌が立ち、冷たい塊が腹の底に落ちたような気がした。よからぬ者がやってきたのを直感した。

 けたたましい悲鳴と怒号が響きわたった。ロビーにいた人間たちのすべての動きが静止した。何があったのか、これからどういうことが起こるのかを一瞬のうちに把握しようと、全員が沈黙した。次に皆の視線が一点に集中した。こうして悪の権化が登場する支度は整ったのだ。

 ロビーに男がやってきた。そいつがそれぞれの手に握っているのは、先が鋭く尖ったサシミ包丁と大きなナタだった。男はゴリラみたいに原始的な体型をしている。作業ズボンに、上半身はランニングシャツ一枚だけだ。着古されたシャツとズボンには、赤黒い新鮮なシミが奇怪な模様を描いていた。

 誰も動こうとはしなかった。男の全身から放たれ続けている禍々しい気合が、ロビーにいる人間を固く縛りつけていた。その場の空気は凍りついている。強い職業意識につき動かされたベテランのフロントマンが、その狂おしいほどの呪縛を引きずりながら男に近づいていった。

 尽きることのない薬物注射が、その男を蝕んでいた。黄色い目玉の中心はまっすぐ先を捉えることができず、左右それぞれ別な方向をうつろにさ迷っている。薬物で破壊されてしまった脳細胞は、もはや人並みに思考することはできない。社会人としての、いや人間としての理性も意思もすでに消え去っていた。あるのは唐突に突き上げてくる意味不明な幻覚と、抑えることのできぬ狂猛な衝動だけだった。

「きみ、ここで何をしているんだ。自分の仕事場に戻りなさい」

 フロントマンは、すぐ目の前にいる男が大浴場の掃除係であることを思い出した。普段から態度が悪く、仕事もいいかげんで何かと癪に障る男だった。獣のような体臭と異様な生臭さが鼻をついた。フロントマンは、掃除係の白いランニングシャツを赤く汚しているのが血液だとわかった。問題はそれが男自身のものか、誰か別の人間のものなのかだった。

 掃除係が怪我をしているようではなかった。シャツはどこも破れてなく肌に傷らしい痕もない。だとすると他の者の血がこの男に飛び散ったと想像できるが、その場合、極めて困難な対応が予想される。

 男がそれぞれの手にもっている凶器は同じ色で汚され、ナタの刃には頭髪らしき毛までついていた。

 フロントマンは事態を悟った。この掃除係は血なまぐさい犯罪の当事者であり、この状況はとても危険であると。

 ランニングシャツの男はロビーに現れる前に、薬物の禁断症状につき動かされるまま、二人の男性客の背中をサシミ包丁で刺して殺し、その刺殺された二人の妻の頭をナタで叩き壊し、その身体を肉片になるまでズタズタに引き裂いていた。男の正気は、すでに悪魔が遥か彼方に蹴飛ばしてしまった。血なまぐさい暴虐の衝動だけが、男の原動力になっていた。

 フロントマンは逃げようとした。静寂を破らないようにそっと後退し、電話で警察を呼ぼうと考えていた。しかし掃除係が突然放った咆哮がベテランの足を止めた。そして、それが彼の命取りとなった。

 爛れた妄想に支配された男は、フロントマンに向かってナタを振り下ろした。だが少しばかり間があったのと、薬物中毒者特有のふらつきで足元が定まっていなかったので、その仕事熱心なベテランの頭をかち割ることはなかった。ただ、禿げはじめた左前頭部から鼻を斜めに切り裂いて右の頬骨を砕くことはできた。

「・・・」

 完全な停止だった。瞬きする間の数十分の一の時が止まった。ロビーにいる人間は、この刹那に心の準備をしなければならなかった。その後の騒乱に備えるべきだったのだ。

「ひいいいい」血が噴きだした。

 フロントマンはその場に崩れ落ち、両手で顔面をおさえながらドタバタと激しくのたうち回っていた。斬られた苦痛よりも、あふれ出る血の量にパニックになっていた。狂った男のサシミ包丁が後頭部に深々と突き刺さるまで、その断末魔は続いた。

 ロビーは騒然となった。女たちは甲高く叫びながら四方八方に逃げ回った。恐怖で身体がまったく動かなくなり泣きながらしゃがみ込む若い女のそばで、やはり怖気づいて立ちすくむ、いかにも気の弱そうな痩せた若者がいた。狂った男の次なる打撃は、この若者を襲った。

 太い腕の先端に握られたサシミ包丁が、細い首を真横から突き刺した。男は首に深々と刺し入れた包丁を持ち上げようとしたが、華奢な肉体といえどもさすがに人間を片手だけで、しかも先の尖った薄っぺらな金属だけで支えることはできなかった。仕方なく、定まらぬ視線を空に走らせたまま、サシミ包丁を刺したり引いたり忙しく動かした。そのため若者の首は肉組織がぐちゃぐちゃになった。痩せた頭部を辛うじて首の骨が支えていたが、それも包丁のあごの部分が引っかかり、イラついた掃除係が力まかせに引いた際に折れてしまった。生首は落ちかけていたが、首の皮一枚でぶら下がっていた。痩せっぽちに幸運だったのは、最初の一撃ですでに絶命していたことだ。もし生きていたなら、激烈な痛みを味わっていたことだろう。

 生首が落ちてしまいそうな若者のすぐそばで、若い女は泣きながら悲鳴をあげ続けた。彼女は喫茶コーナのウエイトレスで、日ごろから掃除係のもとへ食事を運ぶ嫌な役目を仰せつかっていた。金切り声をあげては泣いて、泣いては悲鳴を力いっぱい吐き出す動作を繰り返していた。その甲高いリズムに合わせて、皮一枚でぶら下がった痩せっぽちの頭部が、ぶらぶらと揺れている。 

 ロビーにいた客はその大半がすでに逃げていたが、身体が固まって動けない者と、この前代未聞な参事に目が釘付けになって動く気がない者が若干残っていた。

 いくつかの野次馬根性が、しゃがみ込んでいる若いウエイトレスが次の犠牲者になると思っていた。それを見とどけてから逃げようとしているのか、残った者たちは固唾をのんで見つめていた。

 しかし狂った男はウエイトレスには手を出さず、その場を素通りしてロビー中央奥にある小さな噴水に向かった。それは亀の形をした陶器製の皿の中央から出水管が天に向かって突き出し、水をちょろちょろと出していた。掃除係は水のたまった皿の中にその禿げた頭を突っ込むと、喉を鳴らして呑みはじめた。顔面に浴びた返り血がさっと皿の中に溶けだして、水が赤く濁った。

 噴水のちょうど反対側に、中学生と高校生の兄弟がいた。二人そろって亀の噴水に身を隠しながらも、好奇心の命ずるまま危険な覗き見に勤しんでいたのだ。水から顔を上げた男が、その兄弟に気がついた。狂った掃除係と目が合った瞬間、たまらず弟がとび出してしまった。反対側に走ればよいものを、容赦のない殺戮者に睨みつけられてひどく動揺した少年は、そのまま男の脇をすり抜けようとした。

「ゴンッ」と鈍い音がした。

 弟の後頭部にナタが炸裂した。無理な体勢のまま後ろに向かって振り落されたわりには威力があった。中学生は、勢いのついたまま四角いテーブルのかどに顔面をぶつけて倒れた。固い鉄の刃でかち割られた後頭部も、テーブルのかどにえぐられた顔面もすさまじく出血しており、どちらが致命傷になったかわからないほどだった。

 弟の最期を見とどけた兄に、同じく最期が訪れていた。男は凍りついた高校生にずかずかと近づきその前に立ちはだかると、ナタを振り回した逆側の手でさっそく料理にとりかかった。

 キツツキが固い樹皮を連続してえぐるがごとく、サシミ包丁の先端が何度も何度も突き刺さった。損傷は頭部よりも顔に集中した。情け容赦のない力で突かれた包丁の刃が欠け、先端部分は折れてしまった。ニキビを気にしていた高校生の顔は、もはや目玉も鼻も口も判別できなかった。少しばかり離れた場所でその有り様を見れば、それが人間の顔であるとはわからないだろう。前衛的な芸術作品か、あるいは酔っ払いが吐き出した吐しゃ物だと思うかもしれない。もしもそれが人間の顔の、肉がめったやたらに破壊されたものだと聞かされれば、その者は心に癒すことのできぬ傷痕を残すこととなる。

 薬物中毒者の定まらぬ視線が、次に屠るべき者を捉えた。ソファーで雑談していたあのおばさん連中のうち、三人の女がまだ残っていたのだ。男は、その風体からは信じられぬ素早さで彼女たちのもとへと走った。床を踏みつける際の地響きがロビー全体を揺らした。たかが人間一人の重さしかないのだが、巨大な象か凶暴な肉食恐竜がすぐそこで走っているかのような衝撃があった。

 突進してくる狂獣に向かって、おばさんたちは何か言っていた。買った商品にクレームをつけるような、身勝手な中年女特有の言いぐさだった。男は彼女たち以上にわけのわからぬ言葉を口走りながらナタを振り回し、ギザギザに欠けた包丁を何度も突き出した。勇敢にも彼女たちは抵抗した。キーキー喚きながら、掃除係の禿げ頭を掻き毟る女傑もいた。

 しかし、その行為が狂った男の虐殺をさらにエスカレートさせてしまった。ただ殺されるだけの存在が、小ざかしくもしぶとく歯向かってくるのが気に入らず、イラついていた。もともと薄弱だった理性は薬物の作用で消し飛んでいる。女たちが必死で反抗してくる理由など理解できるはずもなく、男は衝動につき動かされるまま凶器を振り回した。

 口達者なおばさんたちはズタズタにされたが、刃物が人体の脂肪でなまくらになったためか、なかなか致命傷にはならなかった。だから三人のうち二人は、ナタの背の部分で頭部を砕かれて息の根を止められた。最後の一人は、狂ったように振り下ろされる男の拳で、死ぬまで殴打を繰り返された。彼女が静かになる頃には、あの高校生と同じくらい惨い表情になっていた。

 掃除係が一仕事終えて肩で大きく息をしていると、そのそばに小さな女の子がさ迷ってきた。もともとそこにいたのか、それとも別の場所からきたのか、子供を放置して親だけ逃げ去ってしまったのかはわからない。すでに泣きべそをかいていて、か弱い声で母親を呼んでいた。

 少女が着ている服には青い百合の花がいくつも咲いていた。熱く凄惨な現場を青い花がほんの少し鎮めるが、その和みを拒むように、生臭い血をあびた男が女の子の前に立ちはだかった。正気を失い、とろんと垂れた目玉が獲物を見ている。小さく可愛らしい頭の真上で、血と肉と頭髪で汚されたナタが、ゆっくりと振り上げられた。

 一騎人は、思わず腰を浮かした。どこかに武器になるものはないかと探したが、一瞬の間なので見つけることができなかった。これから起こることを見たくはないが、そうしなければならない責任があると思った。

 少女の頭上に血塗られた金属が炸裂しようとする、まさにその時だった。

何者かが男の胸元へ猛然と飛び込んだ。二人はひと塊になりながら床を転げまわり、ロビーにあるテーブルや椅子を散らかした。果敢にタックルしたのは、あの黒縁メガネの幹事さんだった。彼は大勢を引き連れていたが、少女を救うために一人で戻ってきたのだった。

 衝突の衝撃で、狂った掃除係がもっていたサシミ包丁はどこかへ飛んでいった。仕方なしにナタだけで攻撃しようとするが、床に抱き合いながら転げ回っている状態では思った通りにはいかない。

 逆に、ボールペンを握りしめた黒縁メガネが応戦した。男の目を突き刺し、とび出てきた舌にまでボールペンを突き刺した。攻撃はその場にふさわしく容赦のないものであり、掃除係の顔は穴だらけになった。だが薬物で痛覚が麻痺しているためか、容易にはおとなしくならなかった。血とボールペンの黒インキで汚れた舌をしきりに出し入れして、なおもナタを振り回そうとする。

 黒縁メガネは体術の心得があるのか、男をしっかりつかまえたまま自由にさせなかった。そして組み伏せたまま顔だけ後ろを向いて、少女にやさしい言葉で、この場から去るように諭した。泣きべそをかいていた女の子は、何度も何度もうなずいてロビーから離れていった。ほっと安堵した表情が青い百合の花を見送った。その後姿を追う黒縁メガネのおだやかな表情を、一騎人は忘れることはなかった。

 しかし、その少しの間に油断があった。脇の締めつけが甘くなり、男につけ入る隙を与えてしまった。

 ナタの刃先が黒縁メガネの首筋をなぞった。どっと血が噴きだしたが、彼は自らの引き裂かれた動脈を押さえることよりも、悪魔を葬り去ることを優先した。ボールペンを男の左胸に突き立てると、そのまま全力を注いだ。血まみれの巨体はひどく痙攣したが、まもなく静かになった。獰猛な掃除係は、ありふれた筆記用具により、ようやく絶命させられたのだ。

 一騎人は黒縁メガネの傍にいた。首元を押さえてはいるが、指のすき間から血があふれ出ていた。一騎人も黒縁メガネ自身も、もう助からないことはわかっている。彼は掃除係の心臓に突き刺したボールペンを引き抜き、それを一騎人へ差し出した。血まみれのボールペンを受け取り、息子は大きくうなずいた。父は穏やかな表情のまま床にくずれ、そして息をひきとった。



 一騎人が起き上った。海から吹きつける潮風が冷たかった。強風にまかれた砂が顔にあたり、冷たくなった皮膚を刺激する。ウミネコの群れがすぐ傍で休んでいた。彼らは先ほどと同じく、冷たい強風と砂に眼を半分ほどつむって耐えていた。浜辺は相変わらず寂しくて憂鬱な雰囲気が漂っていた。後ろを振り返ると、あの巨大な波消しブロック群が丘の上にあり、暗くなってきた曇り空を背景に黒く聳えていた。

 手に数珠をかけて、太った中年女が話し始めた。あの波消しブロック群があった場所には、たいそう繁盛していた温泉ホテルがあったとのことだ。

 ある日の午後、一人の狂った男が宿泊客で賑わうロビーで凶器を振り回し、惨劇を起こした。男は流れ者で風呂場の掃除係として雇われていた。従業員の入れ替わりが頻繁な業界なので、ホテル側は男が薬物の常習者ということを見抜けていなく、そうする気もなかった。常に人手不足で四苦八苦していたので、多少のうさん臭さは黙認するのが通例だった。事件後ホテルは解体されて、その忌まわしい記憶を封印するようにブロックが積まれたのだった。

 握った手の中に固い感触が残っていた。そっと開けてみる。ボールペンはなかったが、うっすらと血のような痕が残っていた。息子の心には父の最期の姿が焼きついていた。

 父は酔っ払いに刺されたのだと、高校生のときに聞かされていた。自分の父親をうだつのあがらない男の典型だと思っていた一騎人は、それが間違いであることを知った。父は小さな女の子のために命をかけた戦士だった。

 海の向こうが何度も唸り、ウミネコの群れがいっせいに飛び立った。太った中年女が波消しブロック群に向かって合掌した。彼女は霊能力者だった。

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