人形の怪

 十歳の一騎人は、母親に連れられてお寺に墓参りにきた。もっとも、馬場家はお墓をもっていないので、寺の納骨堂にお参りするのだ。

 馬場家の骨は、学校の下駄箱のように並んでいる納骨壇の一番下に位置している。上になるほど値段が高いので、いつかはいきたいと思っても、現実はいつもこの位置であった。

 一騎人の母親が床に座り込むと、一本の線香に火をつけて両手をしっかり合わせた。そして、デタラメではあるがそれらしく聞こえる素人お経を、あきれるほど長々と唱えるのが常だった。供え物は味噌おはぎだけで、高価な生花や果物で飾られている周囲の仰々しさに比べると、かなりみすぼらしく見えた。ちなみに墓参りの日の夕飯は味噌おはぎだけとなるので、息子は憂鬱だった。

 母が念仏を唱えている間、一騎人には楽しみがあった。それはお寺の内部を探検することだ。たとえば小さな体育館ほどもある大仏間に侵入して、畳の上でゴロゴロと転げまわったりする。そこには誰もいないし、薄暗く常にひんやりと湿っていて、なんともいえない雰囲気があった。長年積み重なった線香の匂いが心地良い。厳かという言葉を使うにはまだ子供すぎたが、一騎人はそんな感覚を全身で感じていた。また、ある部屋では黒服の集団が机を囲んでいるのを見ていた。どうやら葬式の控室のようだ。家族は一応悲しんでいるが、親類は笑いながら茶菓子などを食っていて楽しそうだった。

 寺の中にいる子供は一騎人と同じで退屈している。そんな子に声をかけて、一緒に探検ごっこをすることもあった。だがたいていはお互いの行きたい場所が噛み合わず、子供じみた言い争いの後、結局分かれてしまうことが多かった。一騎人は再び一人になるわけだが、その頃から一人が好きなので苦にはならなかった。

 その日も納骨堂を抜け出して、巨大な寺の内部を一人で探検していた。母親のお経は、どうせ長いこと続くのだろうと考えて、いままで立ち入っていない所に行こうと決心した。なにせ寺は果てしなく広い。知られざる未知の領域が、少年を誘惑するのだった。

 表玄関から納骨堂へ続く廊下は、途中で三つに分かれる分岐点がある。まっすぐ進むと母親がお経を唱えている納骨堂、右に曲がると、住職とその家族が住む自宅に通じていた。

 一騎人は以前、大きなテレビの前で寿司を食っている住職一家を見たことがあった。その時は、こらっと怒鳴られて一目散に逃げ出した。

 右の道にロマンがないことを承知していた少年は、左の廊下へ行くことにした。その道は真横に曲がるのではなく、急な角度で手前に戻る感じだった。ひどく幅の狭い廊下で、両側の壁にはドアや窓がどこにもなかった。赤い裸電球が、ただ薄気味悪く照らしているだけだった。

 一騎人は恐る恐る足を踏み入れた。しばらく人が歩いていないのか、床面は白い埃が積もっていた。薄暗くてもはっきりとわかるくらい汚れているので、少し歩くと足の裏が真っ黒になった。廊下は幅が狭いだけではなく天井も低い。子供といえども、少しばかり屈まなければならなかった。

 少しばかり歩くと、三段ほどの上り階段に突き当たった。その階段は子供が一息で跨ぐには困難なほどの段差があったので、一騎人は腕を使って一段一段よじ登った。登りきってから四歩ほど進むと、今度は下り階段になった。上りは三段だけなのに下りは結構深くて十数段あるようだ。そこも段差が大きいので、足を踏み外さないように片足ずつ慎重に降りた。なんとか無事に下りきると平坦な廊下になり、しばし歩くと、また上り下りが非対称な階段に遭遇し、それが何度も連続した。窓も扉もないなんとも奇妙な廊下であり、湿った土の臭いが始終充満していた。ただ漫然と進んでいくうちに、この廊下はどこまで続くのだろうと一騎人は不安になってきた。もう相当な距離をかせいでいる。これ以上進んでも何もなさそうであり、帰りの時間も気になっていた。

 どれくらい歩いただろうか。廊下は突然行き止まりになった。一騎人が突き当たった壁にはドアがなく、下のほうに横長の小さなガラス窓があるだけだった。その窓は外に通じているらしく、洩れ入る白い光が足元をほんのりと照らしていた。旧家の和式便所にある採光窓と同じようなつくりだ。

一騎人はさっそく這いつくばり、頬を床面にくっ付けて窓の外を見た。まず初めに雑草があり、その向こうに白い建物が見えた。その細長い窓は開閉できるので、そろりそろりと引いてみた。すると草の匂いと乾いた空気が吹き込んできた。

 その時、一騎人は突如として強烈な圧迫感を感じた。パニックになるほどの感覚で、どこでもいいから広いところに出たくて気が狂いそうになった。外の光を目にしたことで、長時間窮屈な場所に閉じ込められていたストレスが臨界点に達したのだ。

少年は蛇のように、その小さな身体をくねらせながら窓枠のなかへ突っ込んだ。窓は横の幅はあるが、縦の長さは子供の頭がぎりぎり入る程度だ。だから、身体は入れたはいいが尻の部分でつっかえてしまい身動きできなくなった。見るも毒々しいお化けがお尻に齧りつこうとしているかもしれない。臆病な子共らしい妄想に急かされて、一騎人はさらにパニックとなった。尻の皮を多少すりむいてもかまわなかった。とにかく力のかぎりを尽くして外にとび出した。

 一騎人は、霧のかかった広場に転げ落ちた。そこは住宅地によくある小さな公園ぐらいの広さだ。四方が高い白壁に囲われており外界とは隔絶していた。おそらくは、お寺の中庭なのだろう。広場の中央にはお堂のような建物があり、その周りの緑地はきれいに刈られていた。

 一騎人は、しばし周囲を見回してからお堂に向かった。ほどよく手入れされた緑地が小さな足の裏を心地よく持ち上げた。お堂には入り口らしき個所がなかった。障子と縁側がぐるりと一周していた。

 その薄っぺらな和紙の向こうから、なにやら話し声が聞こえてきた。耳を澄まさなければ聞き取れないような小さな響きだ。人のそれとは思えなかった。虫の集団が話し合っているかのような、細くて異様に高い声だった。一騎人は縁側にあがると、人差し指をぺろりと舐めて障子に穴を開けた。指をしゃぶったのは、テレビの時代劇で間の抜けた泥棒がやっていたのを真似たのだ。

 初めに目についたのは、畳が敷かれた床だった。次に見たのは部屋の隅にある古めかしい茶箪笥、そして向こうに机のような台があり、そこに奇妙な形をした黒い壺が置かれていた。お堂というよりも、僧侶の居室を兼ねた書斎か、和風旅館の一室という感じだ。

 和室の真ん中には円形の卓袱台があって、それを熊とイルカ、ピノキオ、魔法使いの婆さん、もう一つ正体不明な人形が囲んでいた。卓袱台はびっくりするほど小さく、したがって、その周りにいる者たちも当然小さかった。

 彼らはちっちゃな人形やぬいぐるみだった。卓袱台にはやはり小さな湯飲み茶わんがあって、それぞれ湯気をたてている。おもちゃのような煎餅もおいてあり、ちゃんと海苔まで巻いていた。それらはまるで、ママごとセットのようだった。

 異常な光景だった。一騎人は知らず知らずのうちに、障子に開けた穴をほじくって大きくしていた。そうして顔ぐらいの大穴を開けた時、熊のぬいぐるみと目が合ってしまった。

 赤毛の熊は驚いて、お腹にあるポケットからうちわを取りだして顔を隠した。恥ずかしいのではなく臆病なのだ。もとになった動物の凶暴さに比べると、だいぶ性質がおとなしくなっている。他の者たちも一騎人に気づいて騒ぎ出した。イルカはそそくさと卓袱台の下に隠れた。ピノキオはキョロキョロと目線が定まらない。皆、どことなく怯えていて及び腰だった。その連中のリーダーらしい魔法使いの婆さんが、仕方なくといった様子で言った。

「そ、そこのおっきな顏、さあ出ておいで」

 一騎人が障子をあけて和室の中に入った。間近で見下ろすと彼らはよほど小さかった。気をつけていないと踏みつけてしまいそうだ。人形とぬいぐるみが、汚いものを忌避するように場所をあけた。そこに、そっと腰を下ろして少年が言った。

「おまえたちは、ここで何をしているんだい」

 一騎人にとってこの状況は不可思議ではあるが、恐ろしいという感情はなかった。彼らが小さいのと、普段から見慣れているものだからだ。逆に親近感を抱いていたくらいだった。

「たいへんだ、たいへんだ、とにかくたいへんなんだ」ピノキオがあたふたとしゃべりだした。

「もうすぐ赤い女の子が出てくるだよ。どうしよう、どうしよう」

 熊は狼狽しながら、自らの首に巻きついている値札をしきりに引っぱっていた。

「直ちに退避せよ、乗組員は速やかに退避せよ。ギギー、ガガー」

 正体不明の物体は宇宙人の人形だった。アニメの悪役だろうか。トマトを踏み潰したような奇怪な形状をしていた。本人は宇宙船の船長のつもりらしいが、他の者は彼を無視していた。

 尖った帽子をなくしたのか、魔法使いの婆さんが頭を気にしている。指のない平らな手で、毛糸の髪の毛を何度も撫ででいた。婆さんは年寄りらしいしゃがれた咳払いをした後、話し始めた。

「そこの壁にかかってる絵を見なしゃんせ」

 一騎人は、壁にかかっている絵を見つめた。

「絵の中に赤い服を着た女の子がいるじゃろう。もうすぐ、その子が呪いの儀式をするの」

「三つ葉が付いた杖を手にしたらもうお終いだ。どうしよう、どうしよう」

 そう言った熊の尻から糸がとび出している。イルカがそれを咥えて引きずり出していた。すると縫い糸がほぐれて中身の黄色い綿が出てきた。布製品としては致命的な危機だが、熊は卓袱台の前で正座すると、とりあえず茶をすすった。

「おいらが皆を守ってやるから大丈夫だよ」

 ピノキオの鼻が伸びきっていた。よく見ると、それはつまようじだった。おそらく彼は素人の手作りか、売られていたとしても安い製品か何かのおまけだろう。しかも、そのつまようじの鼻は、すでに誰かに使われてしまったのか、尖っているはずの先端がほぐれていて、青のりみたいな食べかすが付いていた。

「もう絵の中に閉じ込めておけないよ。あたしの魔力が弱くなってね。年はとりたくないねえ」

 絵はその額縁も含めて半畳ほどの大きさだった。その中では湖のほとりに女の子が立っていた。彼女は薄暮と思われる時刻に、真っ赤な服を着て朱色の帽子を被っている。背景の水面や森が暗い色だけに、その赤は異様なほど目立っていた。一騎人は立ち上がって近づいた。すると湖の水面が波立ち、黒い湖面から棒のようなものがするすると出てきた。それは水の上に直立して止まり、波紋だけをいくつも残している。赤い少女がニヤリと笑った。

「ありゃあ、こりゃだめだね」

「呪われる、呪われる。おらあ、熊のまま死にたくないよ」

「じいちゃん、じいちゃん」

「じじいは死んだよ」

 人形たちは口々に絶望の言葉を吐きながら、蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。しかし皆で狭い室内を走りまわるだけで、実際的な逃避ではなかった。

 絵の中の少女は、その表情が見る間に変わっていた。可愛げだった口が大きく裂けている。赤い服には赤黒い無数のスジが走っていて、しかも脈動していた。それらは折り重なった大小の血管が集まったものだ。

 赤い服は布ではなくて、血管という糸で織りこまれていたのだ。ただ、一騎人は子供であるがゆえに気づいていなかった。なんだかわからないが、気味の悪い服だとしか思っていなかった。

 三つ葉のついた木の棒が湖面の上をゆっくりと移動していた。少女がちらりと後ろを振り返る。赤い服が大きく膨らんだりしぼんだりしていた。その模様がなんとも魅惑的で、一騎人は触ってみたくなり手を伸ばした。

「だめっ、さわったら手が腐るよ」

 ピノキオが絶叫した。鼻のほぐれた先端に付いているのは、やはり青のりの破片だった。じいさんは昼飯に焼きそばでも食べたのだろう。

 少年の手は少女の身体の中にずぶりと入り込んでいた。釣り餌のミミズカップに手を突っ込んでいるような生ぬるい感触を思い出し、同時に触れてはいけないものに触れてしまったことを直感した。

 少女の顔が歪んできた。木の棒が滅茶苦茶に回転し、静かだった湖面が荒く波立ち始めた。身体を傷つけてしまったと心配した一騎人はすぐに手を引っ込めたが、血管の何本かが指の間に絡まり引きちぎってしまった。どっと血が噴き出した。少年の手が腐ることはなかったが、少女の赤が血であることを理解する羽目になった。

 その事実に一騎人はひるんでしまい、あたふたと逃げ回っている宇宙人の人形を踏んづけてしまった。そして大きく体勢を崩したために、よりによって前方に倒れかかり、とにかく身体の支えになるものを咄嗟につかんだ。それは三つ葉が付いた棒だった。

 赤い女の子が、とてつもない大声で叫んだ。悲鳴というより怒号に近かった。その響きがあまりにもすさまじく恐ろしかったので、一騎人は部屋の外へ出ようとした。手には三つ葉の付いた棒を持ったままだった。

 赤い服の少女が額縁を跨いでいた。絵からこぼれ落ちる大量の血液が畳を汚した。一騎人に踏まれた宇宙人が立ち上がり、再び逃げようとした。ひしゃげたトマトみたいな頭部がさらに変形している。どこに逃げようかと立ち止まった瞬間、絵画から出てきた少女に踏みつけられてしまった。ぐしゃりと強烈な破壊音を響かせながら、プラスチックの筐体が粉々に砕けた。黄色の体液が少女の血と混じり、ひどく生臭かった。かろうじて全壊をまぬがれた頭部の半分が、恥も外見もなく痛い痛いと泣き叫んでいる。

 少女の顔はとても醜悪だった。図書室の本やテレビに出てくる鬼や魔女を連想させたが、錆びた刃物で切り刻んだような無数の皺やただれた黄土色の目玉、ノコギリ刃のようなギザギザした歯並びはとても恐ろしく、それらを遥かに凌駕していた。

 一騎人はなかば腰を抜かしながら逃げにかかった。あわてふためいて外に出ようとしたが、障子は固く閉じたまま開く気配がなかった。それでも踏ん張って力を入れていると、足首に軽い刺激を感じた。熊やピノキオが一騎人の足にすがりついていた。助けて、ここから出してくれと涙声で懇願していた。

 人形やぬいぐるみなど、どうでもよかった。ジャージの裾を必死に掴んでいるそれらを、一騎人は空中に何度も蹴りを入れて振り払おうとしたが、彼らも死に物狂いでしがみ付いていたので、なかなか離れなかった。九度目の蹴りで、ようやく熊が放り出された。万人から愛されているぬいぐるみは運悪く、絵から出てきた少女の下腹部にあたって畳の上に転がり、そして捕まってしまった。愛らしい熊さんを傷つけることに女の子はためらわなかった。ドス黒く尖った爪が熊の出っ張ったお腹に突き刺さり、毛羽立った茶色の皮膚が徐々に裂け始めた。

「ちぎれる、ちぎれる、痛い痛い」

 熊が泣き叫んでいた。一騎人はお堂から脱出しようと焦っていたが、熊の命運がどうなるのか見たい気持ちもあった。開かずの障子に手をかけたまま振り返った。

 魔物と化した少女の手で、ちょうど熊が二つに引き裂かれるところだった。苦痛が長引くように、ゆっくりといたぶりながら破壊する様は、子供特有の残虐な好奇心を刺激してますます目が離せなくなった。

 ぬいぐるみの柔らかい内部から、黄色くぶよぶよしたゼリー状のものがせり出し、それはとても汚らしかった。一騎人は芋虫の内部を舐め回している錯覚に陥り、吐きそうになった。熊は激烈な痛みで声も出せないのか、小刻みに震えながら悶絶している。可愛らしくきょとんとした瞳が、ただ空を見つめながら苦痛を訴えていた。

 三つ葉の付いた棒が、一騎人の左手で激しく振動している。少女の赤い部分のいたるところから血が噴き出して、その全身はまるで血液のスプリンクラーのようだった。

「おいぼんず、さっさと開けてくりゃんせ。お願いだからこっから出してね」魔法使いは、彼女なりに必死だった。

「はやく、はやく」イルカがうるさかった。

「あたしは年寄りだから、痛いことは嫌いなのよ」

「ぼくだって嫌いだよ。おじいちゃんも嫌いだし、いつもいつも食べる羊羹も大嫌いだ。ぼくの鼻先をバカにする熊吉も本当は嫌いだけども、でもなんか、すっごく痛そうなんだ」

 今度はピノキオの鼻が伸びることはなかった。振り落とされないように、しっかりと一騎人の足にしがみ付いていた。

 障子はどうしても開かない。まるで、壁に描かれた障子の絵を無理矢理こじ開けようとしているみたいだった。

「そこは開かない。おまえたちはここから出られてない。私は呪われているのだ。だから、おまえたちも呪われなければならない。三つ葉の杖が無垢な子羊の苦しみを知っている。おまえたちは、自らの出生と行いを悔いながら死ぬがいい」少女が言った。

 ずっしりと重い男性的な声が響いた。幼い女の子が吐き出すセリフではなかった。

「杖を使うんじゃ、ぼんず。そいつが力のもとなんじゃ」

 婆さんの言うことの意味することはなんとなく理解できた一騎人だったが、その方法がわからなかった。うさんくさい呪文でも唱えればよいのかもしれないが、そのインチキな文言が頭に浮かばない。いつもなら大人相手に軽口をたたいていい気になるのだが、肝心なときにまったく思いつかなかった。

「ほれっ、そいつを思いっきり、こう、なんつうかなあ、原始人みたいに振り回すんじゃ」

 婆さんが小さな身体をいっぱいに使って壁を叩き壊す仕草をした。大仰に手を振り回した後は、ゼイゼイと息を切らしていた。

「ふんっ」

 婆さんの言っていることを誤解した一騎人は、三つ葉の付いた棒をすぐに振り下ろした。

「ぐえええ」

 なんとしたことか、焦って振り下ろされた棒は、魔法使いを直撃してしまった。大きな昆虫を叩き潰してしまったときの不快感が、固い木の棒を通して少年の手に伝わった。後悔と罪悪感が混じり合って、強烈な嫌悪感になった。

「婆さんがつぶれた」ピノキオが騒いでいたが、血相を変えた一騎人がにらむと、「ぼくはうそつきじゃないよ。だからその棒でつぶすのはやめてね」と言って静かになった。

 化け物少女がゆっくりと近づいてくる。足を一歩踏み出すたびに、その華奢な身体から血を噴き出していた。

 一騎人は焦った。恐怖でわけがわからなくなり、足元でひしゃげている魔法使いをとにかく蹴飛ばした。婆さんはひらひらと空を舞って少女の胸にあたり、その身を覆っている無数の血管に絡みついた。小さな両手がつぶれた婆さんをつかむと、焼いたスルメを少しずつ毟るように引き裂きはじめた。老人特有のしゃがれた悲鳴が押し出された。一騎人の祖母が、胃がんの末期に病床で痛い痛いと泣いていたときの声とそっくりだった。

 恐怖は心をくすぐるだけだが、戦慄は具体的な痛みを伴うことが多い。幽霊やお化けは、気にさえしなければ基本的に無害だが、さし迫った暴虐はなんらの情けもなく言い訳するのも無駄で、しかも死にたいと切実に思うほど痛いのだ。

 十歳の少年は、子供だからといって許される状況ではないと悟った。唯一の保護者に助けを求め思いっきり泣きじゃくりたかったが、母親は息子の危機を知ることなく、あの陰気な納骨堂で淡々とお経を唱えている。

「わああ、わああ」

 パニックに陥った一騎人は、バタバタと一人で暴れながらやみくもに棒を振り回した。

「あああ、あああ」ピノキオが振り落されまいと懸命にしがみ付いていた。

 婆さんの言ったことは本当だった。三つ葉の付いた棒の威力は強力だった。それは、固く閉じきった障子をバリバリと突き破った。すると向こうから湿った空気の匂いが入ってきた。一騎人は迷うことなく突進した。ここから出てしまえば、この奇怪な悪夢も終わるだろうと心の底から願っていた。

 少年の体当たりで、頑健だった壁はあっけなく突破された。勢いよくお堂の外に転がった一騎人は、あの柔らかな緑地の上で陽の光に射抜かれることを期待した。しかし、そうはならなかった。

 一騎人がいるのは、天井が低くて狭い廊下だった。板張りの床面は真っ白な埃が被さっている。床に伏した少年が雑巾になってきれいにした個所が、赤い裸電球に照らされて歪んだ朱色を反射させていた。

 夢から覚めたのだ。

 一騎人は、お寺の内部を探検しているうちに疲れて眠ってしまったのだろうと思った。奇妙な廊下を夢中になって探検していたので、おかしな夢をみてしまったと子供ながらに納得した。立ちあがって埃をパタパタとたたいてジャージをきれいにする。汚れたまま戻ると母に怒られるからだ。身体を上から順にたたいてゆき、おおかた汚れを落としたところで、ジャージのズボンの裾に大きなゴミがくっ付いているのに気がついた。手でつかみ取ろうとすると、そのゴミは唐突にしゃべりだした。

「しんどいよ、ほんとに」

 鼻がつまようじの安っぽい人形が、溜め息をついていた。それはピノキオだった。

 今までのことは夢ではなかったのだ。一騎人は、はっとして後ろを振り返り、そしてあの真っ赤な色を探した。だが何もいない。狭くて天井の低い廊下が薄赤い裸電球のもと、前にも後ろにもずっと先まで続いているだけだった。

 いや、違う。一騎人は廊下の遥か先を、目を凝らして見た。

「ほうら来た。ぼくたちは逃げられないんだよ」

 安物の人形が、足元でロクでもないことをささやいていた。

 廊下の奥から何かがやってくる。くるぶしに軽い痛みがあった。「もうだめだ」と言いながら、迫りくる恐怖に絶望したピノキオが、一騎人の足首を夢中になって鼻で刺していた。

 ゴロゴロ、ドッタンバッタンと、そら恐ろしい音が響いてきた。雷や地震に本能的に恐怖するのと同じ感覚が一騎人を包み込んだ。

 物理的に転がりづらい形状の物体が、傾斜のない廊下をゆっくりではあるが確実に近づいてくる。それはドタンバタンと、柔道の選手が滅茶苦茶な受け身を繰り返しているかのようだ。

「うわあっ」一騎人は腰を抜かした。

 転がりながら近づいてくるのは、あの赤い化け物少女だった。しかもその有り様はよほど異常だ。少女の身体は仰向けになったりうつ伏せになったり、縦になったり横になったり斜めになったり、とにかくデタラメな体勢で動いていた。手足の関節が逆の方向に折れ曲がって、腰もあり得ないほどえび反りで、その形状は常軌を逸脱していた。まるで見えない邪悪な手が、死後硬直した死体を強力な腕力で転がしているみたいだった。

 めったやたらに転がっているために、少女の身体を覆っていた血管が千切れ、ほどけたそれらはモップのようになっていた。床や壁が噴き出した血で汚れ、その模様は呪いの影となって迫ってくる。

「パキッ」と小さな音がした。ピノキオが、ズボンに絡まった鼻を折って逃げ出した。

 どこに隠れていたのか、イルカのぬいぐるみがするすると流れてきた。これ幸いとピノキオがその背中に乗るが、イルカはピクリとも動かなかった。鼻折れは、イルカのざらざらした表面を撫でまわしてから仰向けにしてみた。すると腹部が無残に引き裂かれて内臓が抜き取られていた。

 少女の転がりが激しさを増していた。腕や足の関節がデタラメな方向に折れ曲がっているために、まっすぐ進もうとしてもあらぬ方向に行ってしまう。全身を激しく壁に打ちつけたかと思うと、突然天井に衝突して真下に急降下した。重力を無視し続けながら、一人でドタバタと恐ろしい音を響かせている。その魔物じみた挙動は、目を覆いたくなるほどの毒々しさだった。少女の姿は、もはや人体というよりも醜怪な赤肉の塊であり、おどろおどろしさの極致だった。

 飛び散った血液が数滴、一騎人の口の中に入った。そのあまりの生臭さに十歳の子供は吐き気をもよおした。吐くことは大嫌いなのだが、時間が許すのなら心ゆくまで吐き出したいと思った。

 一騎人は逃げた。廊下は、突然右に曲がったとおもうと階段を上に行き、少し進むと斜めに下ったりと、来たときよりも複雑になっていた。少年は見てはいけないとわかっていても、後ろを何度も振り返ってしまう。少女は、あの独特の挙動で追いかけてくる。

 一騎人は泣きだしていた。恐ろしくて仕方なかった。絶対にこの廊下から出ることはできないと思っていた。少年は知らなかったが、ピノキオはイルカと一緒に少女にとり込まれて、いまは口の中にあった。いつまでも命が絶えることのないまま、縫い針のような極細の歯に、くちゃくちゃと咀嚼され続けているのだった。

 どれくらいの時をさ迷っただろうか。全身が白い埃だらけになって這い進んでいると、またもや行き止まりの壁に突き当たった。真正面の壁の下のほうに小さな小窓があり、外からの光が薄暗い廊下をそこだけ照らしていた。一騎人は、わあわあ泣きながら、それを開けようとした。

 廊下が震えている。狂った転がり方をしながら、赤い女の子が鋭く濡れた手で四方の壁を引っ掻いていた。耳の下から顎にかけての皮膚を掻き毟ってしまいたくなりそうな、極めて不快な音が響いた。少年の心臓は、張り裂けんばかりの大きな鼓動を繰り返していた。

 横長の小窓を開けると、一騎人は強引に上半身をねじ込んだ。だが、窓が小さいために尻がつっかえてしまった。外は明るく草の青臭いニオイが鼻についたが、死ぬほどの焦燥感に苛まれていたので、久しぶりの開放を楽しむ余裕はなかった。

 赤い恐怖が下半身に迫っていた。足首に鋭い痛みがきた。一騎人は、少女の残虐な仕打ちが始まったとパニックになった。実際は足を激しくバタつかせているうちに、ズボンに残っていたピノキオの鼻つまようじが刺さっただけなのだが、怯えきった少年は、少しの刺激でも過剰に反応してしまうのだ。

 結果的に、その想像力が尻に火をつけることとなった。殺されると思った一騎人は、細い両腕に火事場の馬鹿力を与えた。海面を滑空するトビウオのように、やや逆エビ状に反りながら空中へ勢いよくとび出した。

「ぐっへ」

 一騎人が着地したのは柔らかな草の上だった。そこそこの高さを飛んだのだが、草地には傾斜がかかっていたので、落下の衝撃が和らいだ。傾斜地は五メートルほどあり、そこからは先は平坦な土地になっていた。

 少年は立ち上がって、周囲を見回した。目の前にはお寺の巨大な建物がある。傍には大きな胡桃の木が数本連なり日陰をつくっていた。辺りは少しばかり湿っていて、どことなく陰気くさかった。いままで探検していて初めての場所だった。お寺は丘の上の傾斜地に建っているので、そこは裏庭なのだろう。

 胡桃の大木のそばで、寺の住職らしき老人が若い坊主に過去の出来事を語っていた。二人は、一騎人がすべり落ちてきた草地にむかって手を合わせていた。

 いまよりずっと前に、小さな女の子がこの傾斜地で襲われた。金貸しの女とその野獣のような息子たちに狂ったようにいたぶられ、最後は固い木の棒を突っ込まれて、烈しく悶絶しながら無残な死を迎えたのだった。大変な出血だったらしく、遺体のまわりに溜まった血を、寺の者がひしゃくで汲み取って処理したとのことだった。生臭く鮮烈な朱色が、まだ若かった僧侶をひどく悩ましたのだ。仏の目の前で惨い死に方をさせてしまったと、住職は嘆いていた。

 一騎人は大人たちの背後を気づかれないように走って、納骨堂に戻った。中は線香の煙がもうもうとして咳き込むほどだった。母は相変わらず下手くそなお経を唱えている。供え物の味噌おはぎに小バエがたかっていたが、気にする様子もなかった。それは今晩の馬場家の夕食となる。

 少年は手に何かを握っているのに気がついた。母の傍らでそっと開いてみると、三つ葉の葉っぱだった。あの傾斜地一面にクローバーが生えていたことを思い出した。赤紫色のたくさんの花々が、空を飛んできた一騎人をやさしく受けとめてくれたのだ。

 あの少女の香りが身体中に沁みついている。ちょっときつい甘さだが不快になるものではなく、むしろ離れがたい種類のものだった。一騎人はいつまでもその匂いを嗅いでいたいと思った。


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