廃坑の怪

 生暖かな風が吹く午後に昼寝をしていた。

 誰かが部屋に入ってくる気配を感じたが、まどろみの海を心地よく漂っていたので起きる気になれなかった。退屈な休日の昼間にうたた寝をして、意識と無意識の境界線上をふらふらとさ迷うのが、俺の数少ない楽しみの一つだ。だから、ちょっとやそっとのことでは、このやわらかな行為をやめることができない。

 二人の人間が、俺の頭の上で何ごとかをささやき合っている。

 くすくす笑っているのは、あきらかに女の声だ。無防備な状態で横たわっている俺の寝姿をネタにしているのだろう。嘲笑されることは望まないが、あだっぽい女の吐息が耳のあたりを心地よく刺激するので、嫌な気はしなかった。

 わざとらしく寝返りなどうっていると、誰かが肩を揺らしながら兄ちゃん兄ちゃんと呼んでいる。その声は男のものだが、細い手のか弱さとためらいがちな感触からして、手をかけているのは女のような気がした。

 すでに眠気は失せていたが、この二人が俺にどれだけちょっかいをだしてくるのか興味があった。少しばかりタヌキ寝入りを決め込んでいると、くすくすと笑う声はまだ続いていた。そのうち意識がはっきりしてきて、寝たふりをしているのが面倒になってきた。そろそろ潮時だと思い、わざとらしく大あくびをしながら起き上った。

 俺の傍らには二十代中ごろの若い男女がいた。男はだらしなく伸びた頭髪を茶色に染めて、青白い顔にはニキビを潰した痕が無数にあり、その見た目はとても汚らしくて粗雑な印象を受けた。衣食住、教育も含めて育った環境が良くなかったのだろう。

それに比べて女のほうはきちんと姿勢よく正座して、生まれつきと思われる上品な笑顔を絶やすことはなかった。薄手のニットにジーンズといたってシンプルな服装だが、小奇麗にまとまっていた。見た目には不釣り合いなカップルだった。

 若い男女は戸丹別に行こうと言いだした。今から出発すると、ちょうど日が暮れる頃に着くので、肝試しにはちょうどよいと言う。

「とたんべつかあ」

 戸丹別(とたんべつ)は数十年前に廃坑になった炭鉱町だ。市内からは車で一時間くらいの距離だが、相当な山の奥に入らなければならない。石炭がとれていた時代は栄えていたのだが、閉山してからすっかり寂れてしまい、いまは誰も住んでいない。

病院や学校などの建築物が取り壊されぬまま残され、過ぎ去りし日々がそれらを不気味な廃屋に変えた。山菜取りや渓流釣りなどで訪れる人間を、どうしようもなく不安な気持ちにさせる。山奥に突如として現われる廃墟群は、このあたりでは有名な心霊スポットだ。

「いやだよ、あそこは本当にでるっていうからな」

 そんなところは行きたくなかった。俺は幽霊とか怪談話の類は大嫌いなのだ。

 弟は、にやにやしながらそんなものは怖くないと言った。もっと恐ろしい場所を経験しているので、戸丹別ごときなんともないと、首筋をぼりぼりと掻きながらうそぶく。

 弟の彼女は、戸丹別に着いたら初めに病院に入ろうと言っている。お産でもするのかと弟がからかうと、彼女は病院に行かなければならないと真剣な面持ちで答えた。

「ちょっと見たら、すぐに帰るからな」

 弟がわざわざ恋人を連れてまで行きたいと言うので、むげに断るわけにもいかないだろう。若い女の前で臆病と思われても癪だ。それにこの時間なら、戸丹別に行って帰ってきても日は暮れないだろう。お天道様がニコニコと照っているうちは、幽霊も容易に出てこられないと思う。


 弟が運転する軽自動車の後部座席は、とても狭くて身動き一つできなかった。運転席と背もたれに挟まれる窮屈さで息がつまり、しかも、なぜだか肉の腐ったような悪臭が車内に充満していた。助手席にいる弟の彼女が窓を少しばかり開けるが、臭いは撹拌されるだけでちっともなくならない。だらしのない弟のことなので、肉などを放置しているのだろう。

 車は国道を左に曲がり幅が狭い町道に入った。しばし走ると景色から民家がなくなり、目につく建物は牧場だけだった。牧草地では、痩せこけた肉牛が干し草を食みながら、恨めしそうな瞳でこちらを見ている。

 小さな橋の手前に空地があって、クレーン車やショベルカーなどの重機類が放置されていた。長い間風雨にさらされているのか、どの車体にも真っ赤な錆が瘡蓋みたいに醜く浮き出ていた。それらの周囲にはほとんど草が生えてなくて、たまに野アザミがポツポツと顔を出しているくらいだ。他の草木は、錆から出た毒にやられてしまったと思われる。


 軽自動車は止まることなく走り続けている。やがて道が舗装でなくなり、デコボコの砂利道となった。もうどこを見渡しても、建物や車の残骸などの人工物を見つけることはなかった。気づくと電線も途切れている。この先はすでに電力を必要としないのだ。

 前方には幾つもの山が立ちはだかり、その山頂すれすれに灰色というより黒色に近い雲が垂れこめていた。道幅は極端に狭くなっていて、小さな車が一台やっと通ることができるくらいだ。滅多に人など来ないのか、道は中央が雑草だらけで盛り上がっていた。そこに車の底の部分が触れて、ガリガリと耳障りな音が響いている。

 生い茂った木々が、両側から道を覆い隠すように大量の枝をのばしていた。針のように尖った枝が車体をしきりに引っ掻いていたが、軽自動車は速度を緩めることなく突き進んだ。何が楽しいのか、運転手は古い流行歌などを口ずさんでいる。車内の臭いはますますひどくなっていた。


 本格的な山道にさしかかったとき、弟が突然、俺の名を叫びながら前方を指さした。車は右に左に激しく揺れるが、彼の手は一点を正確に示しながら微動たりしない。深い森の中から、聳え立つ一本の巨大な煙突が現われた。

 あれだよ、と弟が言った。

 そうだと俺も思った。

 むき出しのコンクリートで造られた、あの無粋な灰色の構造物が目印だった。煙突の横の道を通り過ぎてしばらく進むと、道が二つに分かれていた。まっすぐ進むと山のさらに奥へと続く道で、左に曲がると問題の廃坑町に到着する。運転手は小さなハンドルを片手でくるくると回した。俺たちは戸丹別に入っていった。

 それにしても周囲は暗かった。もう日が暮れてきたのかと腕時計で時間を確認しようとしたが、左腕に時計はなかった。いつだったか、弟にねだられてあげたことを思い出した。

 戸丹別に人が住まなくなってから、かなりの年月が経っていた。かつては整備されていた生活道路や平屋の炭鉱住宅群、商店の数々もすっかり朽ち果ててしまい、いまは残骸すらない。樹木や雑草が蔓延る森になっていた。病院や小学校などの比較的大きくて頑丈な建造物だけが、朽ちぬままに廃墟と化して、薄暗い緑の中に黒く点在している。

 弟の彼女を先頭に、俺たちはまず小学校へ向かった。

 狂ったように繁茂した雑草をかき分けながら歩き、ようやく玄関にたどり着いた。長期間見捨てられている二階建ての木造校舎は、まさに廃墟そのものだった。防腐剤がなくなった板壁は腐ってボロボロになり、ところどころ大穴があいている。全ての窓ガラスは割られ、その向こうにある空虚は真っ黒でひどく不気味だった。中で何者かが、じっと潜んでいるのではないかと不安になってしまう。余計なところは見ないで、前だけ向いて進んだ。

 玄関の庇の部分が崩れ落ちていて残骸が散らばっていた。当然のごとく扉は開きっぱなしだった。何列にも並んだ靴箱には枯葉やホコリが溜まり、ダイコンのような植物が発芽している個所もあった。見つかると怒られてしまいそうだが、俺たちは土足のまま校舎に入った。

 俺たちは薄暗い廊下を歩いている。さっきから靴に絡まった草が気になっていたが、二人がどんどん先に行ってしまうので立ち止まれなかった。

 いくつかの教室の前を通過して、割れた試験管やビーカーが散乱した教室に入った。ここは理科室だと弟が言った。そんなことは教室の後ろの隅に立っている、内臓を露出させた人体模型を見ればわかることだ。それにしても長年の放置にもかかわらず、きれいな七三分けをした模型の内部は色艶がよくて、じつに生々しかった。まるで今でも機能しているかのような新鮮さだ。近づいてよく見ると、大きな銀バエが何匹も心臓付近にたかって、その湿った表面をしきりに舐め回していた。

 俺たちは再び廊下に出た。前を歩く弟とその彼女が小声で、あの内臓は誰のだろうと話していた。弟が○○のだと言うと、彼女がくすくすと笑っている。

 どうにも歩きにくいと思ったら、靴のヒモがほどけていた。結び直そうと思い、俺はその場にしゃがんだ。

 すると突然、ガラスを叩き割るような大きな音が響いた。驚きで心臓が破裂しそうになり、うずくまったまま動けなくなった。弟の彼女が振り返って、いまのは学校のチャイムで、もうすぐ給食の時間になると言った。なるほど給食のチャイムなら、あれだけの大きな音になるだろうと、俺も安心した。

 ほどけた靴ヒモがなかなか結べない。雑草が絡んでいるからだと思ったが、よく見ると絡みついているのは髪の毛だった。十センチほどの黒々とした頭髪が数十本、靴ヒモと一緒に結ばれていた。その髪の毛を取り除かないと、歩きにくいし気持ちも悪い。しかし、靴ヒモと頭髪は固く結び合ってなかなかほどけない。

 頭髪だけを強引に引き千切ろうとしたが、驚くほど強靭で一本も切れなかった。逆に、髪の毛が指に巻きつき締めつけてきた。俺はその絡みつき方に確固とした意志を感じた。たぶん、わざとやっているのだ。

 小学校の内部を一通り見回ったあと、俺たちは外に出た。どんよりとした曇り空がさらに黒くなっていて、もうすぐ夜になることがわかる。出発したときは明るいうちに帰ることができると思ったが、たいして時間も経ってないのに奇妙なことだった。日が暮れると、見えなくていいものまで見えてしまう。早くこの町を出たかった。 

 成人映画のポスターが薄っぺらなベニヤ板に貼られたまま、真っ黒な電柱に掛けられていた。

 そういえば昔は鷹揚な時代で、こんな破廉恥な宣伝が許されていた。風雨に晒されてから数十年も経つので、女優もすっかりくたびれてしまい、乳房と顔に皺がよって髪の毛も白いものが混じっていた。それでも笑顔を絶やさず淫らな目線で俺を見つめているが、その笑みは不吉だった。頭のてっぺんが二箇所盛り上がっている。髪の毛に隠れてはいるが、おそらくそれら突起はツノだろう。恥辱に満ちた年月が、彼女を鬼へと変えたのだ。

 二人の姿が見えなかった。

 弟の彼女は病院だけは必ず立ち寄らなければならないと言っていたので、そこに向かったのかもしれない。辺りはすでに、お日様の気配が掻き消えていて急激に暗くなってきた。懐中電灯をもってこなかったことを後悔しながら周囲を見回すと、むき出しのコンクリート台座の上に、まさしく懐中電灯が捨てられているのを見つけた。

四角い弁当箱に電球が付いたような珍しい形をしているが、おそらくは炭鉱の穴の中で使用するのだろう。きつくなったスイッチを力まかせに押すと、ぼうっと青白い灯りが足元を照らした。錆ついてはいるが、なんとか使用可能なようだ。

 コンクリート台座から少しばかり歩くと、再びコンクリートの構造物に遭遇した。雑草だらけの地面から大きな煙突が聳えている。戸丹別に入るときにあったものとは別の煙突だ。あれよりも太くて巨大だった。すぐ近くにあったのに全く気付かなかったのは、闇夜にとけ込んでいたからだ。恐る恐る触ってみると、表面はつるつるしていて、なぜか温かかった。もう燃やされるものはないのに不思議なことだ。

 なにかの気配を感じたので、反射的に見上げた。煙突の湾曲した表面に素早く動く黒い影があったが、暗くてはっきりとはしない。懐中電灯の灯りをそっと向けてみた。

 なんと、人間が逆さになって貼り付いているではないか。頭に手拭いをほっかぶりして腰のひん曲がった老婆が、樹木に生息するヤマリのように、コンクリートの煙突表面を滑り落ちることもなく縦横無尽に動き回っていた。

 煙突を駆け上がる老女の話しは聞いたことがある。時速百キロメートルで自動車を追いかける、通称「百キロ婆さん」の姉だという。

 だが一人だけだと思いきや、婆さんの人数は多かった。弱った老木にうじゃうじゃと毛虫が湧くが如く、暗黒の空に屹立する巨大なコンクリート柱に、数十人の婆さんが蠢いていた。あれらは百キロ婆さんの姉や妹、その親類だろうか。彼女たちは、雑巾のようなものを手にしながら煙突を拭いていた。丹念に磨くのには理由がある。犠牲になった多くの息子たちを、いまでも慈しんでいるのだ。

 全身に鳥肌がたって寒気がした。首筋や太ももの裏側の、柔らかい皮膚を掻き毟りたい衝動にかられた。俺は懐中電灯を消した。途端に嫌になるほどの暗闇が、この煙突に巣食うたくさんの老婆を覆い隠した。

 さっさと弟の彼女が執着していた病院に行こうと思った。

 誰もいない夜の廃墟を一人で歩くのはもう嫌だ。しかし病院がどこにあるのかわからない。とにかく周囲が真っ暗で、それらしき建物を見つけることができない。懐中電灯を点けてみるが、その灯りはあまりにも弱すぎる。靴に絡みつている濡れた髪の毛を、ほんの少し照らすくらいだ。つい今までしがたまで、たくさんの老婆をあんなによく照らしていたのに、おかしなことだった。

 闇の向こうに赤い点が点滅していた。病院の印だと直感した俺は、そこに向かって歩きだした。なんだか地面がふわふわしていて足のつま先が異様に冷たかった。なんだろうと足元を照らすと、密生した草の茎の根元から黒い水がしみ出している。まるで草が生い茂った湿地の上を歩いているようで、森のなかだというのになんだか奇妙だ。

 足が濡れるのは嫌なので、そこいらにたくさん立っている木の板を引き抜いて足元に敷き、その上を歩いた。その細長い板が墓場によくある卒塔婆だったと気付いたのは、さんざん足で踏みつけてからだ。板の表面には憶えのある名前が書かれていた。とても近い存在だった気がするが、どうしてもその人物の顔を思い出せなかった。

 地面に板を渡しても、そこに乗ると、すぐに沈んで足首までずぶ濡れになってしまった。水は肌に突き刺さるような冷たさで、下半身の感覚が麻痺したような感じだった。

 ようやくたどり着いた病院はすっかり朽ち果てていて、ぱっと見ただけでは、それが何を目的にした建物だかわからない。その大きさと玄関の軒先で点滅する赤電球だけが、かつてそこが医療機関であったことの証だ。

 俺は慎重に足を踏み入れた。内部は小学校と同じで窓ガラスがすべて割れていた。そこから冷たい山の風が吹きこんでくる。懐中電灯と同程度の灯りしかない蛍光灯が天井に等間隔に貼り付いていて、リノリウムの廊下を陰鬱に照らしていた。床には使い古しの注射器や血の付いたガーゼが散乱している。病院独特の臭気が鼻にまとわりついていた。

 あてもなく院内をうろついていると、真っ暗な手術室から弟が一人で出てきた。彼女のことを尋ねると、診察を受けたからもう大丈夫だと言った。手術しているのかと訊くと、腹を裂いているのは戸丹別の産婆だとの返答だった。なるほど、だから彼女は病院に行きたがっていたのか。

 弟は早くこの町から出なければならないと言った。

 真夜中の零時になると、あの巨大なコンクリート煙突のてっぺんから泥臭い液体がまき散らかされる。そうすると坑道の底にいる奴らが、その汁を吸いに廃墟を徘徊すると言うのだ。穴からどんな奴らが出てきて、なぜ煙突の汁をすするのか気になった。そいつらは幽霊なのかときくと、兄ちゃんは知らないほうがいいと、弟は真剣な面持ちで言った。

 病院を離れてからすぐに、背後から苦しげな呻き声が聞こえた。あの手術室からだと確信があった俺は、反射的に振り返った。建物の窓の一つから薄緑の灯りが洩れていて、そこからしぶきのような赤い霧状の靄が出ていた。田舎の産婆のことなので、麻酔を知らないのだ。

 弟は焦っていた。

 何度も空を見上げながら俺を急かし、早く車を停めた場所に戻ろうとしている。しかし液体などは降ってこなかったし、そんな兆しも感じられなかった。煙突は何も噴き出すことなく、あの奇怪な婆さんたちの気配すらなくなり、ただの静寂だけがあった。

 車に戻ると、すでに弟が運転席に座っていた。よほど怖いのかすごい汗をかいて、全身がびしょ濡れになっていた。俺は急かされるまま、狭苦しい後部座席に身をこじ入れた。その刹那、軽自動車が発進した。

 車のヘッドライトの光が弱い。あの懐中電灯のように、ほんの数十センチ先を青白く照らすことしかできなかった。したがって、目の前の大部分が闇だ。

 軽自動は来た道と逆の方向へ曲がった。左には行きたくなかった。その道は山の奥へと続いている。これ以上暗いところに落ちたくはない。

 あれからどうしていたのか弟に尋ねた。ずいぶんと会ってなかったが元気でいたのかと、やや他人行儀で、あたりさわりのない会話をしようとした。だが彼は応えなかった。黙って、フロントガラスの真っ暗な向こうを指さすだけだった。

 突然、俺の全身に衝撃が走った。何者かが左の足首を掴んでいる。ひどく強い力で、引き込むように引っぱっている。それは濡れた感触があり、とても冷たく感じた。車に乗っているのは俺と弟だけだ。彼は両手でハンドルを握っている。車には底板があって地面とは切り離されているし、しかも走行しているので、外にいる誰かが俺の足首を掴むのは不可能だ。とするとなにか尋常ではない存在が足元にいることになる。

 俺は凍りついたままだ。見てしまうのが怖くて下を向けない。一人で恐怖に慄いているのも嫌なので、そのことを弟に伝えた。すると彼も怖くなったのか、わあーわあーと顔中くしゃくしゃにして叫び始めた。

 その顔を見て俺は思った。そうだ、あのとき弟が死んでいなければ、もうこのくらいの年頃の若者になっていただろうと。


 二十年近く前のある冬の日、俺たち兄弟は凍った川の上にいた。冬に結氷する川が北国には多い。俺は怖気づく弟を強引に連れ出して、二人で対岸まで渡ろうとした。

すると川のちょうど中央で氷の薄い個所が割れて、弟だけが川の中に落ちてしまったのだ。流されてゆく小さな顔が濁った氷を透かして見えた。水の中から必死にもがき、氷の裏側を掻き毟るその手を掴もうとしたが、固くて冷たい板が無常にも遮った。弟に触れることはできなかったが、「兄ちゃん兄ちゃん」という声はしっかりと聞こえた。あの姿が目に焼きつき、悲鳴は耳に残った。

 弟の死体は春になってから港で見つかった。大量のゴミと共に、ふた目と見られない姿となって、波消しブロックの間に挟まっていた。

 俺は誰にも責められなかった。薄氷の上を歩いているときに、弟を怖がらせてやろうと、わざと足元を蹴ったことを知っている者はいない。真相は兄弟だけのものなのだ。


 そんなことを思い出しながら、俺はアクセルを強く踏み込んでいた。

 軽自動車は、金切り声にも似たエンジン音を響かせながら突き進んでいた。奥に入っていくにつれてヘッドライトの灯りが徐々に小さくなって、しまいには完全に消えてしまった。

 どこを見ても光のない真闇の中を走っているので、不安でたまらない。どうしようもなく陰気な気配を感じた。何ものかが車の後を追っていた。

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