地下鉄の怪

 地下鉄駅港内はとてもにぎやかだった。

 照明は真夏の太陽のようにとにかく明るく、全体を一寸の闇もないほどに照らし、ここが地下深い場所であることを意識させない。

 背広を着た男、OLのお姉さんや厚化粧をしたおばさん、学生、物乞いや犯人、盗撮魔。たくさんの人間が往来していて、誰もが楽しそうである。焼きイカ売りや金魚すくいの露天商が改札口のすぐ横で店をひらき、ちびっ子だけではなく、大人までもが夢中になっていた。

 チンドン屋の一行が、俺の前を通り過ぎようとしていた。珍妙な衣装にこっけいな化粧、おもちゃのような太鼓と笛で武装し、奇抜な踊りをしながら改札口を通りぬけた。

 まだ子供だったころ、この人達を見ると妙にエロチックな気分になったものだ。

 わざとらしく腰を振るバカ殿様の姿に感化された。なぜなら、殿様を演じていたのはいつも女性で、しかも豊満だった。巨乳だったし、彼女の尻の動きが絶妙にいやらしくて、子供ながらに性を感じてしまった

 死んだ父は、勉強をしないで遊んでばかりいるとチンドン屋になってしまうぞ、と差別的なことを言っていた。ああいう恥ずかしい姿をさらさなければならない職業にしか就けない、という意味だろう。

 でも彼らは熟達した技をもった優秀な宣伝マンであり、その職業自体が自由な広告の一形態だろう。自分だって安月給の甲斐性なしだったくせに、よく他人の職業を蔑むことができたものだ。

 地下鉄に車両がひっきりなしに入ってくる。この駅は、いくつもの路線が階を違えて交差している中継点だ。

 だから人の群れが途切れることがない。チンドン屋の列がいなくなったと思ったら、結婚式の集団がやってきた。真っ白なウエディングドレスを着た花嫁とタキシード姿の花婿、そして彼らの親類が下りのエスカレーターに乗った。幸せそうなカップルが軽快に踊りながら下っていった。あまりにも楽しそうなので、俺も彼らについて行こうとした。

 しかしエスカレーターに足をかけようとしたところで、どこに隠れていたのか、チンドン屋の中にいたデブ男が俺の目の前に立ちはだかった。

 男は、下の車両に乗るのはよしたほうがいいと言った。「何があるのか、予想もつかない」と、こっけいなひょっとこ顔が真顔になって忠告した。

 たしかに下のホームへ行くのは危険だ。何が待ちうけているのかわからない。度胸試しに下って再起不能になった奴もいるときく。とにかく得体がしれない。深さのわからない池に両足を揃えて飛び込むようなものだ。

 俺は下りのエスカレーターに乗るのをやめた。そして自分がいる階のホームへ歩いていき、ちょうど停車していた車両にそのまま乗った。

 その車両がどこに行くのか、自分がどこに行きたいのか判然としなかったが、とにかく地上に出なければならないと思った。ここは俺のいるべき場所ではないような気がする。

 車中で女子高生のグループが楽しげに話しをしていた。俺は痴漢と間違われるのがイヤなので、彼女たちから少し離れて立っていた。それでも若い女の話題には興味があるので、目ざとく聞き耳を立てていた。彼女たちの会話は、やはり下の話しに終始していた。

 巨大ダイコンみたいな足の子が、母親の経験を自分の体験談として自慢げに語っていた。その内容は、彼女の母が相当に深い階まで沈んだときの出来事だった。

 そこは地下鉄工事現場であり、鋭いサメの歯を無数に、しかもデタラメに並べたような形状をした特殊な掘削機が、その身を烈しくくねらせながら突き進むのだそうだ。

 動きの鈍い作業員が何人か巻き込まれて犠牲になった。肉と骨は砕くことができるが、歯は固いので掘削機の尻から出されることになる。彼女の母親がそれを拾ってきて、家の風呂の中に入れた。死んだ人の歯には絶大な温浴効果がある。なるほど、女子高生の母親は頭がいいと思った。

 車両は二つの駅を止まらずに通り過ぎた。運転手は居眠りでもしているのだろうか。太った女子高生が指をぱちぱち鳴らすと、三つめの駅でようやく止まった。そのホームにはあまり人がおらず、さっきの賑やかな駅とはだいぶ様子が違っていた。

 改札をぬけて階段を上ると、夜の繁華街にでた。

 しかし盛り場にもかかわらず、地上は騒がしくもなく静かだった。ネオンはあるが、まばらだった。人通りもそれほどでもなくて、見かける光景といえば、サラリーマンの袖口をコツコツと引っ張る赤い服の客引きや、占い師の前でうなだれている初老の男などだ。

 俺と同じ年くらいの女が、屋台の脇で物乞いをしていた。小銭を集めるのは桃の空き缶だった。

 いくらぐらいの稼ぎになっているのか気になって、中をそっと覗きこんだ。女が恥ずかしげに身をよじらせた。桃缶の中にお金はなかった。動物の目玉らしきものが見えたが、暗くてはっきりとはわからなかった。

 どこかで見たことのある女は、俺の中学のときの同級生だった。そういえば、彼女は目が悪くていつも目医者に通っていた。大事な目玉を空き缶に入れては、商売に差し支えるのではないかと思った。大人になったからには、もう必要ではないのだろうか。

 俺は再び、地下への階段を下っていた。家に帰る車両に乗るためだ。なるべく浅い階にある路線で帰りたかった。深いところは恐ろしくて行きたくない。俺には女子高生の母親みたいな、大胆な行動はできない。

 安全と思えるぎりぎりの深さの階まで下りた。これ以上潜ると引き返せなくなってしまう。そこのホームで西行きの車両に乗ることができた。車内は乗客がまばらで静かだが、スナック菓子の空き袋やジュースの缶が床に転がっていて、どことなく雑然としていた。

 車掌が切符を拝見にやってきた。客一人一人に深々とお辞儀をして、切符にスタンプを押していた。俺はポケットの中をまさぐったが切符はなかった。そもそも買った記憶がない。車掌が来る前にどこかに降りたかったが、車両は駅をただ通過するばかりで停車する気配がなかった。金も持っていないしどうしようか困っていると、さっきの太った女子高生が停車ボタンを押してくれた。車両が急停車し、車掌が来る前に降りることができた。

 そこは俺の家のすぐ近くにある駅だった。地下鉄出入口から自宅までは、歩いて二、三分の距離だ。

 地下から階段を上がって外に出ると、星一つない真っ暗な空が俺の目を覆った。住宅地は、じつに閑散としていた。車道を走る車はなく歩道を歩く人もいない。夢の中を歩いているような奇妙な静寂があった。俺は暗くて寂しい夜道を、自宅に向かって歩きだした。

 野良犬だろうか、汚らしいマルチーズが一匹、車道に捨てられた何かの死骸を夢中で食べていた。マルチーズを刺激しないように気をつかいながら、その横を通り過ぎた。

 犬は俺に一瞥をくれると、興味なさそうに視線を戻した。鳩か猫の死体かと思ったが、マルチーズが食っているのは大きな雌の鮭だった。車に轢かれたのか、内臓や卵のうが車道だけではなく歩道にまで飛び散っていた。そこいら中に魚の腐敗した臭気が漂っていた。口で息をするとその味がしそうなので、すべての空気を鼻から入れた。そうすると鼻の中が腐った臭いだらけになって、ひどく不快になった。

 自宅前の車道に男が一人立っていた。肩をいからせてズボンのポケットに両手を突っ込む厳めしい姿が、暗闇の中にあった。

 彼がカタギの人間ではないことがすぐにわかった。裏稼業の男がなぜ俺の家の前で、しかも汚れ犬が死んだ魚をあさるような真夜中に一人でいるのだろうか。

 どうにも関わりたくはなかった。不用意に声かけられる前に自分の部屋に戻りたかった。だが、家にはシャッターがおりていて入ることができない。どうしようかまごまごしていると、男が下腹のあたりを左手でさすりながらゆっくりと近づいてきた。そして行く手を阻むように俺の正面に立つと、腹の中にたくさんの虫が湧いているので痛くて仕方がない、とってくれと言ってきた。

 その虫を取り除くには、男の肛門から手を入れなければならず、そんなことは絶対にイヤなのだが、断れば何をされるかわからない。現に、もしとれなかったら痛い目にあわせてやると言っている。大量の蛆虫に内臓を少しずつ食われるのは、さぞかし苦しいことなのだろう。長年の痛みに苦悶し疲れ果てた老顔が、暗闇に深い皺を浮き出させていた。

 俺は地下鉄から出てきたことを後悔した。下にいれば大勢の人がいて、賑やかな喧騒に身をゆだねることができる。どうしようもない孤独感に悩まされることもなく、可愛い女子高生の会話だって聞けるのだ。

 上に出てしまえば楽しいことなど何もない。あるのは暗鬱としてただ広いだけの世界と、陽の光があたることのない寂しげな日常だけだ。

 いくら目を凝らしても向こうが見えない。臭くて汚いものが、当たり前のように身近に転がっている。ルールを逸脱した危険な存在が堂々と歩き回り、頼みもしないのに近寄ってきて、うんざりするような現実をつきつけるのだ。

 俺は悪人の体内で蠢く虫を取り除かなければならない。忍耐と根気の要る困難な作業だ。

 男の身体は生温かくて湿っていた。遠くでかすかな呻き声が聞こえる。夜はしばらく明けないだろうと思った。

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