7月 プロレス会場にて

紫鳥コウ

7月 プロレス会場にて

 ゴングが鳴り、ふたりは距離をあけながら相手の隙をうかがう。王者・増井美紅が先に間合いを詰めると、紅葉の背後をとり、首を締めあげた。紅葉はするりと彼女の腕から逃れると、同じ技を美紅にかける。


 序盤は、絶対王者たる美紅がものの見事に、滔々と流れる美しい川のような試合運びをした。身体中にダメージを負った紅葉は、満足に動くことができず、何度も仰向けになって、荒い呼吸を繰り返す。


 乙快園――プロレスの聖地であるこの場所で、七度目の王座防衛を狙う美紅に対して、シングル戦では一度も勝利したことがない紅葉が挑んでいる。


 美紅は、自力で立ち上がれなくなった紅葉の長い黒髪をひっぱり、起き上がらせると、軽々と担ぎ上げて、ブレーンバスターをきめた。そして、紅葉のだらりとした足をひっぱり、コーナーに横たわらせる。美紅はリングを両手で何度も叩き、観客を煽る。


 会場はもう、美紅の七度目の防衛を確信したかのような盛り上がりだった。


 美紅はコーナーポストに登ると、両手を上にのばして拍手をはじめ、観客にもそれをするように求めた。


 最高潮の興奮のなかの、美紅のムーンサルト。紅葉の上に降ってくる美紅の身体。必勝パターンだ。もう闘うことはできない紅葉の上で、勝ち誇った笑みをみせながら、スリーカウントを待つ美紅の姿が想像されてしまう。


   ――――――


 あれは、高校一年の、七月のことだった。まもなく一学期が終わる、そんなときに、紅葉は転校してきた。クラスメイトと親睦を深める時間なんてなかった。みんな、目の前の紅葉のことより、この先の長期休暇の計画を立てるのに夢中だったから。


「お前、倉科さんに告ってこいよ」

 気弱で、臆病で、友達がいない、あのころのぼくは、不良のクラスメイトからそんな命令をされた。

「なんでそんなことしなくちゃ……」

「おもしろいじゃん」

 そう言ってひとりが嗤うと、ぼくの机をとりまく彼らは、口々に冷やかしの言葉をふりかけてきた。


「校舎裏で告れよ。二階の窓から見ててやるから」

「お前が無理だったら、おれがもらうからさ。わりとかわいいじゃん、あいつ」

「言いつければ、なんでもやってくれそうだよな」

 下卑た思春期の男子たちの言葉は、廊下側に座る紅葉に、しっかりと聞こえていた。


 雑に破ったノートの切れ端に、「大切な話があるので、校舎裏にきてください」と書かされた。それをとりあげた彼らは、「センパイの下駄箱にいれちゃおうかなあ」とふざけたことを言いながら、嬉々として教室を去っていった。


 告白をする勇気がでずに尻込みしていると、不良たちに背中をおされて、校舎裏へと投げ捨てられた。そこにはもう紅葉がいて、夕陽の影に包まれていた。二階の窓にも、壁の向こうにも、嘲笑の眼があり、予想しているオチで爆笑するのを愉しみにしていた。


 覚悟を決めて、目をつむり、白々しい告白の言葉を絞りだした。

「あの、倉科さん、ぼく、倉科さんのことが……」

 パチンッ。風船が破裂したかのような音が、校舎裏に響きわたった。

 それがビンタであることは、壁に身体を打ちつけたあとに、彼女の右手を見るまで分からなかった。

「わたし、あなたたちより強いから」

 カバンを持ちなおした紅葉は、そう言い捨てて去っていった。


   ――――――


 美紅の身体が、紅葉をめがけて落下していく――そのとき、紅葉は、両足を立てて彼女を撃墜した。美紅は腹をおさえて、リングの上で悶えた。諸刃の剣であるこの技。紅葉も足に大ダメージを負ったに違いない。


 この起死回生の迎撃で、一気に形成は逆転した。


 美紅の髪をひっぱり起き上がらせると、意地のエルボーの打ち合いがはじまった。しかし美紅のエルボーのキレはどんどん失せていき、最後は、紅葉の渾身の一発がきまり、彼女は膝から崩れ落ちた。


 二度のブレーンバスター。息も絶え絶えになった美紅の身体を押さえて、スリーカウント。ゴングが鳴り、訓練生たちがコールドスプレーを持ってリングにあがってくる。


 仰向けのまま、両手を天に突きあげて、紅葉は雄たけびをあげた。観客からの大声援がリングにめがけて飛んでいく。


 喧噪のなか、メタルCore羅がリングにあがってきて、ベルトに挑戦することを宣言した。

「わかった。場所は、一カ月後の乙快園。楽しみにしてるよ」

 もうすでに、紅葉は王者の風格をまとっていた。マイクを放りなげて、リングから去っていく。


   ――――――


 高校三年の冬、紅葉は、ぼくの顔をのぞきこんで、「来年こそ、受かるよ!」と励ましの言葉をかけてくれた。なのにぼくは、その軽い調子にイライラして、激昂してしまった。


「ごめん」と言う彼女の表情を見たときに、卒業式の日に、胸をはって言おうと思っていた言葉が、くしゃくしゃになってしまったことを実感した。


 紅葉は、もう、ぼくのことなんて忘れているだろう。ぼくは、まだ、忘れきれていないのに。

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7月 プロレス会場にて 紫鳥コウ @Smilitary

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