巡りゆく香に
第26話 新しい玄家
永慶寺の別荘から二人が戻り、寒い冬を巣ごもりするリスのように睦まじく過ごした。もう互いの心を隠す事もなく素直に打ち明け合い、まっすぐに向き合っている。そうして言葉を交わす度に、互いの代りは何処にもいないのだと胸に響く想いを見つけていた。春鸞と蓮香は、屋敷の者も思わず顔がほころぶ程の温かい夫婦になっていた。
そして、離れに再び沈丁花の香が立つ頃となった。
早春の気配が漂い新しい季節が始まろうとするこの時、玄家の大旦那様が静かな山荘でこの世を去った。春鸞は、ただ一人の玄家の主となった。
主を失った山荘は、生前の大旦那様の意向で玄家の手を離れた。春鸞は山荘を手放したその銭で、青凱寺に子どもらが学べる場を造った。それまで青凱寺の境内は、行き場のない子供たちが集まり遊び場となっていた。あの日、栖榮にぶつかった子もそんな子供らの一人だった。
今は青凱寺の片隅から子供らが書を読む声が聞こえる。子供たちに新たな居場所と生き抜く術を得られる場所が出来たのだ。
蓮香は母屋へも行き来するようになり玄家の家事にも携わると、益々その才を放っている。その才のお陰で、まだ若き女主に皆も快く接してくれた。全ての歯車が噛み合い、善い方向へ動き出している。屋敷の誰もがそう感じていた。新しい玄家の日々が始まったのだ。そんな頃、春鸞は蓮香に話を持ちかけた。
「なぁ、香。一つ提案があるんだが・・・」
「まぁ、なんですか? 春様。」
「私たちの龍箏香堂に、新しく木を植えないか? 私たちが離れを手入れし名を付け大事にしている記念に。私たちの想い出を庭に加えてはどうかな?」
「まぁ、春様。それはよい考えだわ。楽しそう。」
いつもの華やいだ蓮香の笑顔が見え、春蘭はほっとして続ける。
「香、君はどんな木がよいと思う?」
「うーん。そうですね・・・ 離れは四季の香があり風と月を楽しめる庭がありますが、冬だけは本当に寂しく何もありません。全てが眠ってしまっているように、色も香も欠けているのです。だから・・・ そうですね・・・ ‘山茶’を植えるのはどうでしょう?」
「山茶か・・・ うん。冬の香だな・・・」
「えぇ、山茶は彩りも豊富です。紅に白、薄紅もありますし、葉は茶になる物もあります。三色植えたら、離れの春と夏の色が冬に集まったように彩られます。大奥様の書にも山茶はありましたし。」
「うん。確かに。なぁ、香。なぜ、あの離れに冬だけ花の香がないのか? 不思議に思った事はないか?」
春鸞は、少し陰りのある声で言った。
「えぇ、確かに。大奥様が冬に咲く山茶を知らないはずがないし、冬だけ何もない庭にしているのはどうしてかしら?」
「母上は‘欠け’を善しとしていたんだ。きっとね。欠けがある事に憧れや安らぎを感じていたのではないかと思う。あくまでも私の推測だけどね。
母上は、子供の頃から満たされて育った。全てが円満で欠けがなかったんだ。容姿も美しく風情もあって博識だった。家も裕福だったし、心が通い合う父上とも早くから出逢っていた。二人は共に成長しながらいろんなものを分かち合って来た。見るもの、聞くもの二人で。だからいつも安心し満たされていた。心に大きな欠けがなかったんだよ。だから自分の外側で何か欠けている物があると珍しく、そこに興味と美しさを感じ惹かれてしまったのではないかと・・・」
「欠けを求めるだなんて・・・ 羨ましくも感じます。」
「あぁ、私もそう思う。香、君は幼い頃、暮らしが苦しかった。家庭には恵まれたが、欠けのある暮らしをしていた。私は暮らしに不自由はせずに育ったが、いつもどこか寂しく心底誰かと分かち合える喜びを知らずにいた。これが私の欠けだ。
だが、香と出逢い離れを通して少しずつ分かち合える喜びを知った。見るもの感じるものを語り合い、共に喜べる幸せをね。そうして心が満たされる事を知った時、どんなに嬉しかったか・・・」
「まぁ、春様。そんな事を想ってくださっていたなんて・・・」
「ははっ。そうなのだ。欠けが消え、喜びや嬉しさや温かさで心が満たされ膨らむことが、こんなに幸せな事だなんて知らなかったんだ。
香、君との時がそれを教えてくれたんだよ。ありがとう。だから、君の言うように龍箏香堂の欠けを満たそう。私たちは、満ちる喜びを分かち合える幸せを、この離れに加えよう。」
「えぇ、春様。そう致しましょう。」
「よし。明日すぐに、山茶の手配をしよう。紅も白も薄紅も、全部を庭に植えよう。そして冬には、花を見ながら温かい茶を一緒に楽しもうじゃないか。」
「えぇ、そう致しましょう。楽しみですね。春様。」
二人は、手を取り合って喜んだ。
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