第25話 風に香る龍笛

 婚礼の儀は、玄家の身内だけで簡素に執り行われた。慣例にならい婚礼から三日を夫婦は同じ部屋で過ごし、蓮香は春鸞と正式に夫婦になった。


 四日目にやっと離れに戻った蓮香は、久しぶりの自分の部屋に安堵した。


 そして離れの庭を歩き、蓮池の太鼓橋の上でしばらく佇んでいた。誰も寄せ付けぬ雰囲気を放つ蓮香を静も黙って見守るしかなかった。やがて庭から戻って来た蓮香は、そのまま部屋に閉じこもり一晩中出てこなかった。

 

 


 翌朝になって部屋から出て来た蓮香は、これまでにない凛とした顔で静に向き合った。


「静さん。私、このままでは居た堪れないの。心の中がまとまらないの。しばらく永慶寺の別荘に行ってもいいかしら?」

「分かったわ。そうしなさい。私も一緒に行くわ。」

「ありがとう。静さん。では、今すぐ発ちましょう。いいかしら?」

静は黙って頷いた。


 それから程なくして、二人は馬車で永慶寺の別荘へ向け龍箏香堂を出て行った。

 


 別荘へ着くと蓮香は少し落ち着きを取り戻し、窓から入り込む芳しい山の香に心が穏やかになってゆくのを感じた。

 


 夜になって、別荘に春鸞がやって来た。幾度も扉を叩くが、蓮香は会おうとしない。開かぬ扉の前でうなだれた春鸞は、仕方なく玄家の屋敷へ戻っていた。次の日も、その次の日も、仕事を終え夜になると春鸞はやって来て扉を叩いた。


「お願いだ。香、ここを開けてくれ。会って話を聞いてくれ。」

だが蓮香は、扉を開けなかった。


 次の夜、いつも春鸞がやって来る時分になって龍笛の音が聞こえてきた。蓮香が窓からそっと見ると、別荘を見下ろす高台に人影が見えた。聞き覚えのあるその龍笛の音に、あの人影が春鸞だと確信した。龍笛の音は、次の夜もその次の夜も聞こえてきた。


〈香、どうか私の心を見てくれ。私の話を聞いてくれ。君の心を見せてくれ。君の話を聞かせてくれ。私が何でも受け止めるから・・・ 

 やはり君を傷つけてしまったのか? 私のやり方が間違っていたのだな。すまない。私は怖かったのだ。君に拒まれるのも、去られるのも怖かったのだ。だから強引な、あんなやり方しか君を私の側に繋ぐ術がなかった。許してくれ。心から君を愛しく想っている。君に側に居て欲しい。頼む。〉


春鸞はそう願いながら夜空に龍笛を響かせた。



〈若様・・・ どうしてそんなにまっすぐに私を求めるのです? どうしてそこまで私を想うのです? どうして・・・?〉

蓮香は、夜毎響いて来る龍笛の音に話しかけた。


〈若様は、本当に私を大事に想ってくださっているのですね。今もこうして私を心配してくださっているのですね。私も本当は、若様と龍箏香堂でずっと一緒に過ごしたい。〉


〈でも、私がそんな事を願ってよいのかしら? 私が側に居てよいのかしら? 私は若様に何をしてあげられる? 私は若様に善くしてもらうばかりだわ。これ以上、若様のお心を受け取るだなんて・・・〉


〈若様は、私をいずれ側室にするおつもりだったのかしら? まだ子供の私に書と衣と離れを与え、意のままに上手に大人にしたのかしら? そんなのひどいわ。〉


〈いいえ、違うわ。若様は、そんな方ではないわ。もし仮にそうだとしたら、どうなの? 私は裏切られたの? 本当にそう?〉


〈いいえ。そんな事はどうでもいい事なのだわ。私もいつの間にか、若様を好きになっていた。互いの言葉が通じ、あんなに語り合える方は、きっと他にいない。心安らぐ方はいないわ。

 でも、それを認めるのが怖かったのよ。若様に惹かれている自分を認めるのが怖かったのだわ。この気持ちが露わになって若様に線を引かれ拒まれるのが怖かったのよ・・・〉



 夜毎に細くなり光が弱まって行く月に、蓮香の心もすっきりと潔くなっていった。だんだん消えゆく月の光と共に心の靄も消え、自分の心の奥底にあったものが浮かび上がった。蓮香がはっきりと若様への想いに気付いた時、龍笛の音が聞こえてから、もう十日が経っていた。


〈私は、若様の心を受け入れるのが怖かったのだわ。自分の心に在る若様への想いを見られるのが怖かった。それだけなのだわ。他の事は全て、自分をごまかすための言い訳だった。私は若様を愛しく想っている。

若様は今も、一人の女性として妻として私を想い続けてくれている。これほど嬉しく心を満たすものはないわ。なのに私は、何をしているのかしら・・・?〉


その夜、蓮香は窓辺に箏を運び聞こえてくる龍笛の音に合わせて弾き始めた。


〈若様、ごめんなさい。あなたの愛をずっと拒んで来ました。けれど、私もずっと若様が好きでした。黙って飛び出してごめんなさい。あの離れに戻りたい。私たちの龍箏香堂へ。若様との日々を手放したくない。〉




 春鸞が夜毎立ち続ける高台からほど近い山荘で、この数日の龍笛の音を聴きじっと黙って様子を見守って来た大旦那様も箏の音の重なりにほころんだ。


〈ほう。箏の音が重なったか・・・ 春鸞の想いが届いたようだな。よかった。夫婦の路は始まったばかり、これから二人仲睦まじくあればよい。善かった。〉


と、安堵の笑みを浮かべて蓮香が仕込んでくれた桂花酒を開け龍箏の音に浸った。


 それまでずっと悲し気に響いていた龍笛の音が、明るく光差す音色に変わった。二つの音色は喜びを乗せ一つに溶け合いながら、静かな夜の山中に染み渡って行く。その山に棲む全てが、その音色を見守っている。やがて龍笛が止み、箏の音も止んだ。


 春鸞は高台を下り、永慶寺の別荘の扉を叩いた。


「香、ここを開けてくれ。会って話を聞いて欲しい。私のやり方が間違っていた。すまない。君を、大事な君を悲しませてしまった。」


中から蓮香が扉を開けた。


「若様、申し訳ございません。」

目に涙をいっぱいに溜めた蓮香が、そこに立っている。


「香、すまない。私が悪かった。すまない。」

春鸞は、扉の中へ進んで言った。


「いいえ、若様。私が幼かったのです。若様のお人柄をよく分かっていながら、自分の胸の内に在る愛を認めるのが怖かったのです。だから突然の婚礼に戸惑い、心の整理が尽きませんでした。それでこの別荘に逃げてしまいました。

 でも、毎夜若様はあの高台へ通い、龍笛の音を聴かせてくれました。その音を聴いているうちに、この愛を・・・ 若様を失う事が怖くなりました。若様・・・」


「もうよい。よいのだ。私が君の心にある真実を確かめる勇気がなかった為に、強引な婚礼を決行したのだ。悪かった。私も、君を失うのが怖かった。すまない。」


春鸞は、しっかりと蓮香を抱きしめた。


「私と一緒に龍箏香堂へ帰ろう。これからはそこで、二人で過ごそう。一緒に帰ってくれるか? 香・・・」

「はい、若様。これからもずっと若様のお側に。若様と龍箏香堂で一緒に。」


二人は夜のうちに別荘を出て、二人が名付けた玄家の離れ‘龍箏香堂’へ帰って行った。















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