第24話 玫瑰花に込められた決意

 次第に長くなってゆく秋の夜。

 その夜空を膨らんだ月が東から西へゆっくりと渡って行く。明日は十三夜。月は夜毎に明るさを増している。


「蓮香、若様から玫瑰花が届いたわよ。こんなにたくさん。今夜はこれを入れて湯に浸かるといいわ。いますぐ用意するわね。」

静が蓮香に声をかけ、湯の用意を始めた。


「まぁ、こんなにたくさん? 珍しい。少し残しておいて。後でお茶にして飲みましょう。」


静は一握りを茶器に取り分け、残りを湯桶に入れた。湯気の中に玫瑰花の優美で華やかな香が立ち上がる。その香に包まれて蓮香は幸せな心地で温かい湯に浸かった。心が解け柔らかくなる。湯上りの若く艶やかな肌からかすかに玫瑰花の香が上がる。まだ瑞々しい色香を纏った蓮香の姿は、身も心も解け無防備な花のように見える。


「今夜はとても心地よく眠れそうだわ。好い香りだった。この離れには無い香りも、時々はいいわね。このお茶も素敵。体の内にまで玫瑰花に染まるようだわ。明日、若様にお礼を言わなくちゃ。」

すっかり和らいだ笑顔で蓮香は言った。


「そうね。明日、若様にお礼を言うといいわ。きっと喜ぶ。さぁ、今日はもう早く休みなさい。体が冷えないうちに。」

「えぇ、静さん。ありがとう。お先に休みます。」


蓮香は自分の部屋に戻り床に入った。


 その様子を見届けた静は、そっと渡り廊下を行く。その先に、大きな箱を抱えた春鸞がいた。


「蓮香は?」

「えぇ、今、玫瑰花の湯に浸かり茶を飲んで眠ったところです。」

「そうか。それは善かった。これを明日、頼みます。」


「はい、若様。ですが、本当にこれで善いのですか? 蓮香は繊細でまっすぐな娘です。情の深い娘です。このままでは、傷つくことになりませんか?」


「うん。そうかもしれぬ。だが、私も怖いのだ。香の気持ちを確かめる勇気がない。こんな強引なやり方しか出来ぬ。それでも香を手放したくない。この屋敷に、私の手元に置いて置きたい。私の妻となってもらいたいのだ。

 少なくとも今日までは、嫌われても疎まれてもおらぬ。私たちは琴線も似ている。事を運んでから、ゆっくりと時間をかけて心を補ってゆくよ。」

春鸞は、意を決した面持ちで静に言った。


「分かりました。若様がそうお決めになったのなら、私に出来る事をさせて頂くのみ。蓮香に何かあっても私が支え、お二人の力になります。」

「ありがとう。静さん。この恩は、これから返し続けるから。」

春鸞は微笑んで母屋へ戻って行った。


 静は大きな箱を抱え離れに戻ると、中から美しい衣を取り出し蓮香の部屋の鏡台の横に吊るした。衣に織り込まれた銀糸が、月光に照らされ美しく輝いている。静は、しばらく蓮香の寝顔を見つめると自分の部屋へ戻った。




 翌朝目覚めた蓮香は、鏡台横の美しい衣に驚いた。その衣を見た瞬間、胸がくっーと痛み息が苦しくなった。そして、意識的に新しい息を吸うと厨房へ駈け込んで行った。


「静さん、あれは何? あの美しい衣はどうしたの?」


「蓮香、あれは若様からよ。あなたの婚礼衣装・・・ 今日、あれを着て母屋に行くの。あなたは、若様の妻になるの。この離れだけでなく玄家の主になるのよ。」

静は凛として言った。


「どうして? どうしてなの? なぜ私が若様の妻に?」

蓮香は突然の事に戸惑い泣き出した。


 静は蓮香に向き合い、確かな口調で言った。


「若様は、とても愛しくあなたを見て来た。ずっと見守って来たの。あなたの事がとても大事なのよ。そして、あなたの支えが必要だと気づいたの。一人の女性としてあなたに側に居て欲しいと願っている事に気付いたの。だから妻に迎えたいと心を決めたのよ。蓮香、あなただって若様をずっと慕って来たでしょう? 心の奥では愛しているのでしょう?」


「違うわ。きっと違う。若様には感謝しているし、子供の頃から慕って来た。だけど、私は使用人で、若様には奥様がいて・・・ だから違うわ・・・」


「さぁ、蓮香。着替えましょう。若様が母屋でお待ちよ。向こうで玄家の皆が待っているわ。皆、あなたが来るのを待っているのよ。」


蓮香は、静の言葉と手から離れるように自分の部屋へと後ずさりしてゆく。


「いや、嫌よ。だって・・・ 違うわ・・・」


「蓮香。本当に、本当にあなたが嫌なら今逃げ出せばいい。あなたが少しも若様を愛していないのなら、この衣を着なくていいわ。

 でも、あなたが心の奥底で若様を愛しているのなら、今逃げ出せば必ず後悔する。二度と玄家には戻って来れないわ。若様にも会うことが出来なくなってしまうのよ。それでいいの?」


蓮香は黙ってしまった。力なく寝台に座りうつむいている。


「さぁ、着替えましょう。きっと、あなたによく似合うと思うわ。」


静は蓮香を着替えさせ、髪を結い上げ化粧をしてやった。その間ずっと、蓮香は黙りこくり人形のようにおとなしかった。


 すべてが整えられ鏡台に写し出された蓮香の姿は、とても美しかった。銀糸の衣と婚礼化粧が大人の女の姿を浮かび上がらせた。百合のように凛として梔子のように芳しく。


「蓮香・・・ 美しいわ。とてもよく似合っている。素敵よ。これまでで一番・・・」

静は涙声で言った。


 初めて見る鏡台の中の自分の姿を見つめたまま、蓮香は話し始める。


「静さん、教えて。若様は最初から、こうするつもりで私を玄家に引き取ったのかしら? 私、裏切られた気がしているの。なんだかとても悲しいの・・・」


「いいえ。若様は、そんなつもりではなかったと思うわ。あなたに才を感じこの離れを託し、その才をより開いて欲しかった。ただそれだけだったと思うわ。

 だけど、あなたの成長を見守り日々甦ってゆく離れで過ごすうちに、閉ざされていた若様の心も豊かに開かれていった。そして、あなたに惹かれたのだと思う。若様の心の封が解かれ、心の奥深い処があなたの心と触れ合ったのだと思うわ。冷たい孤独から温かい触れ合いを知ってしまったのよ。

 だから、あなたを手放せなくなった。それだけだと思うわ。」


「でも・・・ でも・・・ 静さん・・・」


「さぁ、時間よ。若様があなたをお待ちよ。行きましょう。」


 蓮香は心の整理がつかぬまま静に促され立ち上がり、離れを出て渡り廊下へ向かった。離れの扉を出ると兼悟が待っていた。兼悟は蓮香の美しさに目を見張り、初めて見る娘を前にしたように驚いている。


「蓮香、とてもきれいだよ。さぁ、安心して。私もついている。」

優しく声をかけた兼悟は微笑み、蓮香と静を先導する。


 静に支えられた蓮香は、兼悟の後に続き母屋の広間へと渡り廊下を進んでゆく。広間では、深い昆布茶に金糸の衣を纏った春鸞が待っていた。


「香、ありがとう。来てくれて嬉しいよ。さぁ、私たちの婚礼だ。」

と、蓮香の手を取り微笑んだ。


 蓮香はわずかに微笑みを返すと、心を閉じた。

















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