第23話 山荘の一夜
約束から数日後、山道を馬車に揺られ春鸞と蓮香は山荘へやって来た。大旦那様への手土産の桂花酒を持って。
「父上、春鸞が参りました。今年は、蓮香が桂花酒を仕込んでくれましたよ。父上にお届けに参りましたよ。」
「おぉ、春鸞か。久しぶりだな。さぁ、さぁ。桂花酒か・・・ もう、そんな頃だなぁ。昔は
「えぇ、母上が毎年。今も離れの金木犀は、好い香りを放っておりますよ。」
「大旦那様。今年は私が摘み、桂花酒を仕込んで参りました。お好きな頃合でお召し上がりください。」
蓮香が頭を下げた。
「そうか、そうか。蓮香、ありがとう。しばらく見ないうちに、すっかり令嬢のように美しくなったな。近頃は箏も弾くのだとか。」
「はい。大奥様が残された箏を、大事に使わせて頂いております。」
「父上、もしよろしければ今日、私の龍笛と共に披露いたしますがいかがでしょう?」
「おぉ、それは好い。ぜひ、お願いしよう。」
大旦那様の嬉しそうな笑顔を見つめ、春鸞と蓮香は演奏の準備を始める。
静かな山荘での龍笛と箏の響きは、離れのものより一層澄んで聞こえた。その音色は、山の端に染み込んで行くように消え、風が流れればその風に乗り麓へおりて行くようであった。二人の演奏にとても満足した様子の大旦那様は、酒や料理を振る舞った。そして今晩は、山荘に泊まっていくよう準備をさせた。
ひとしきり山の暮らしや離れの話に興じた頃、春鸞は蓮香に先に休むように促し用意された部屋へ下がらせた。その様子を見届けて、大旦那様から話し始めた。
「春鸞、何か大事な話があって参ったのであろう? 離れのことか? それとも蓮香のことか?」
「はぁ、父上。お見通しですね。実は、蓮香のことで・・・」
「うん。お前はあの娘を好いておるのだな。それも特別に愛しく想っておる。」
「はい。なぜお分かりに? 私自身も、最近になってはっきりと分かったのに。」
「はははっ。お前には昔から癖がある。自分では気づいておらぬのだな。」
「私に癖ですか?」
「そうじゃ。お前は、自分が心を許し愛しく想っているものだけを‘君’と呼ぶのだ。」
「えっ? まさか。そんな癖が?」
「はははっ。そうじゃ。きっと静も兼悟も、とっくに気付いておると思うぞ。お前が蓮香をどれほど特別に想っているかをな。今になってなんだが、お前は栖榮を一度も君とは呼ばなかった。あぁ、私の知る限りだがな。私が決めた縁談だったが、悪かったと栖榮に思っているよ。まさか、あのような最期になるとは・・・」
春鸞は言葉が出なかった。そして、恥ずかしさと自分の自覚のなさに情けなくもなった。
「まぁ、よい。遅くとも自分で蓮香への気持ちに気付いたのだ。それで、お前はどうしたいのだ?」
「実は、父上。私は、時期を見て蓮香を妻に迎えようと思っています。」
「うん。それも善かろう。まだ玄家には跡取りもおらぬし、お前が自分で見初めたのだ。私に異論はない。蓮香は、李花が残した美しく穏やかな離れを大事に守って来てくれたのだ。きっと、李花にも守られておる。」
「えぇ、私もそう思います。時々、蓮香は離れの庭を見て母上と同じことを言ったりするのです。」
「そうか。きっと李花と心持ちが似ているのだな。玄家にもあの離れにも合っているのだな。昔、離れの金木犀が咲くと、李花がよく云っていた。
金木犀は、隠し事の出来ない花だと。それ自身の香が強く咲けば辺りへすぐに香が広がり、その存在が露見してしまう。だから在りかを隠し切れない花だとな。お前の心も金木犀とよく似ておる。癖となり現れ露見しているのだ。
私が見初めてまとめた縁談の栖榮が不幸な事故でこの世を去り、お前の心を抑えるものが消えた。そして機が熟した花は開き、香を放ってしまったのだ。まぁ、それも善い。一度しかない今生の時を大事にするがよい。」
「母上がそのような事を・・・ 栖榮には最期に詫び、私なりに心を尽くしました。しかし、長い年月を共に過ごしても心は溶け合えませんでした。今は、それも縁の深さだと栖榮の最期の言葉に慰められています。
父上、この先の時を、もう後悔のないよう縁の深さを頼りに我が心に偽らず生きたいと思います。」
大旦那様は、黙って幾度も頷き嬉しそうに春鸞の顔を見つめた。春鸞は少し照れくさく感じ、うつむき加減で微笑んでいた。
大旦那様との話を終え用意された部屋に春鸞が行くと、蓮香はまだ起きていた。
「どうした? まだ休んでいなかったのか?」
「えぇ、若様。まだ寝付けなくって。若様をお待ちしておりました。大旦那様とはどんなお話を? 何だか嬉しそうですわ。」
「あぁ、よい話を。楽しい話をしていたのだ。いずれ君にも話そう。蓮香、あの離れに来てくれてありがとう。私は本当に嬉しいのだ。君がいなくなってしまったらと思うと、胸が苦しくて堪らない程に。香、君を愛しく想っている。いつの間にか、香が愛しくて堪らなくなっていたのだ。香、ずっと私の側に居てくれ。」
春鸞は蓮香を抱きしめた。
とても驚いた蓮香は、すぐに身を離そうと思ったが体は動かなかった。その優しく強い温もりに、いつまでも包まれていたいと感じてしまった。しばらくして身を離した時、蓮香はうつむき春鸞の顔を見る事が出来なかった。胸の奥が痛み、同時に芯は温かく満たされているのを感じていた。
「香、こうして側に居てくれ。ずっとずっと長く。そしてもっと側で、私に触れてくれ。」
「若様。私は、あの離れを守り若様にお仕えする身でございます。立場がございます。若様、もうお休みください。」
蓮香は背を向け横になってしまった。その背中を見つめながら春鸞は、ゆっくりと話し始めた。
「香。私は、君が愛しくて仕方ないのだ。実は、君が十六歳になった時から楊家には給金の支払いをしていないんだよ。君の父上に断られてしまってね。もう体も回復して以前のように働けるようになったからと。
そして君は成長し読み書きも風情をたしなむことも身に付け、もう嫁げる歳になった。どこか善い嫁ぎ先があったなら、玄家から出してやって欲しい。もし、そのまま玄家でお仕えしたければその時は頼むと云われたのだ。
だから今年、君の誕生日に美しい衣を用意し君は変わらず玄家の離れで元気に過ごしている姿を見てもらいたくて、楊家に会いに行ってもらったんだ。
君はもう、玄家の使用人ではないのだよ。あの離れの主なのだ。そして私は、君の縁談を探す気にならなかった。むしろ、何処にも嫁がずあの離れに留まり私と一緒に暮らして欲しいと想いは募った。あの朝靄の蓮を見た時のように同じ光景を見て、今夜のように音を奏で心に触れ合い溶け合う幸せを、もっとずっと長く感じていたい。君ともっと言葉を交わし心を満たしたい。そして、君自身に触れていたいと思ってしまうのだ。これが、今の私の偽りのない真実の心だ。香・・・ おやすみ。」
蓮香は背中を向けたまま何も答えなかった。春鸞は、その背中を見つめたまま眠りに就いた。
翌朝、山荘を出て玄家の屋敷に戻って来た春鸞は、蓮香の言葉を待たず秘かに婚礼の準備を始めた。ずっとこのまま蓮香と共に暮らしたい。どこへも嫁がせず自分の妻になって欲しいと自身の願いを込めて。
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