第22話 花散るとき
夕方になって、栖榮はみぞおちの激痛を訴えた。胸の辺りを押さえうずくまっている。驚いた侍女が慌てて春鸞に知らせると、すぐに医生が呼ばれた。
やって来た医生が診ると、栖榮は医生の手が軽く触れただけで激しく痛がった。みぞおちの辺りは大きく腫れ上がっている。
「奥様。今日、何かにぶつかったり打ちつけたりなさいましたか?」
「えぇ、昼間に外で。走って来た子供がぶつかって、その拍子に馬車の車輪に体を打ちつけたの。」
「そうでしたか・・・」
「でも、それからしばらくして痛みは引いたのよ。」
医生は黙って頷き、立ち上がると春鸞の元へ行き小声で話し始めた。
「若様。おそらく奥様は、激しく車輪に打ちつけられ臓腑から出血したものが塊となっていると思われます。その為にみぞおちが腫れ上がり、痛みが起きているのだと・・・」
「それでどうなのだ? 何か手立てはあるのだろう?」
「それが・・・ 若様、ここまで臓腑が傷ついてしまっていては私たちにはもう、どうする事も出来ません。手立てがないのです。申し訳ございません。」
「何だって? もう本当に何もないのか?」
「腹を割いて中の血塊を取り除き臓腑を縫合すれば可能性はありますが、おそらく途中で血が足りなくなるでしょう。その後も、臓腑が上手く回復せず傷口が悪化する恐れもございます。ですから、奥様の体をこれ以上傷つけるのは・・・ ためらわれます。」
「そうか・・・ 分かった。ありがとう。先生をお見送りしてくれ。」
春鸞は肩を落とした。そして、栖榮の元へ寄ると手を握った。
「あら、若様。まだ私の手を握ってくださるのね。嬉しいわ。今日、青凱寺で凱霧様に偶然にお目にかかって‘縁’についてのお話を伺ったの。それでね、私思ったの。
あなたは、私よりご縁の深い方がいたのだと。私は、その方に引き継ぐまでのご縁だったのだと。あなたは今世の始まりに、別の方と大事な縁を結んで約束をしてきたのだわ。
だから私は来世ではもう、あなたに出逢わない事を祈るの。そして私は、別の方ともっと深い縁を結んでお約束をしておくの。
だから若様、あなたに会うのはもうこれが最後よ。二度と逢う事はないわ。報いはちゃんと帰って来るのね。もうこれで、怒りも嫉妬もきえる。それに愛も。あなたとの縁も尽きるのね。」
「栖榮・・・ そなたとは長く歩み寄って努力をしてきたのに、なぜか深く心に触れ合うことが出来なかった。申し訳ない。決して愛がなかった訳ではない。大事に想っていたのだよ。」
「そうね。私たちは努力をしてきた。あなたの愛も感じて来たわ。でも、世の中には努力をしなくても心に触れ合えるご縁もあるのね。来世は、そういうご縁を望むことにするわ。」
栖榮はそう言って涙を流し、傷ついた臓腑を抱え息を引き取った。
その夜、春鸞はじっと栖榮の傍らで過ごした。夫婦となっての十数年が思い出され、様々な顔が浮かび二人で見た景色が浮かんだ。だが、交わした言葉はあまり浮かんでこなかった。自分が投げかけた言葉も、栖榮から届けられた言葉も。
〈私たちはこの十数年、何と言葉を交わして来たのだろう? こんなに胸の内に言葉が残っていないなんて。決して嫌いではなかったし美しく優しい人だと想って来た。気配りも家の事もよくやってくれた。向けられた愛も感じていた。それなのに心が溶け合えなかった。なぜだ?
栖榮、そなたが逝ってしまい悲しい。だが、苦しくはないのだ。こんな私を冷たいと想うであろうな。けれどそれが、今の私の胸の内に在る真実なのだ。こんな最期を迎え可哀想だと想っている。反面、そなたが言った様に報いだとも感じている。そなたがした数々の仕打ちが浮かび上がり、怒りすら再燃するのだ。そなたが死んでしまったというのに、寂しさもない・・・ 苦しさもない・・・
今この時、私の前から消えてしまったのが蓮香でなくてよかったとさえ思っている。私は非情な男だな。恨むか? 栖榮。そなたが逝き胸の炎を覆うものがなくなった。今私は、はっきりと自覚した。私はいつの間にか香を愛していた。愛しくかけがえのない存在として見ていたのだ。その密かな愛が、そなたを追い込んでしまったのかもしれないね。すまない。わたし自身の心でありながら、今まで気づかずにいた。本当にすまない。
だがもう、この想いを抑え込むことは出来ない。すまない。すまなかった、栖榮。栖榮、すまない・・・〉
息を引き取った栖榮の傍らでわずかに揺れる灯りに照らされ、春鸞は一晩中詫びた。
そして同時に、自分の胸の内で静かに灯っている蓮香への愛が大きくなっていくのを感じていた。
蓮の花が散り、離れの庭はしばらく花の香のない時季が続いている。その無香のような庭が、一層の無味を感じさせる。時が止まり、全てが途絶えたように。
あの朝、今年初めての蓮の花を愛で蓮華の舟の話をした事を蓮香は後悔していた。まるで栖榮の死を予測するような話に思えたからだ。そして少し、自分を責めてもいた。自分がこの離れに来なければ、栖榮があんな最期を迎える事もなかったのかと。栖榮が去ったあの日以来、蓮香はどことなく沈んで見えた。
やがて朝夕の風が少し涼しくなり、金木犀の香が交じる頃となった。離れの庭に、再び花の香の季節がやって来た。春鸞は、蓮香を心配して毎日のように離れに来ては長く留まるようになっていた。
「香は、桂花の酒は造らないのか?」
「あぁ・・・ 若様。実は私、金木犀の香がそれほど好きではないのです。もちろん、漂ってくる香は素敵だと思います。ですが、梔子や茉莉花、沈丁花に比べて私には強いのです。」
「そうか・・・ 実は母上も同じような事を云っていた。だが、父上が桂花酒が好きだったから、母上は毎年作っていたのでね。」
「まぁ、そうでしたの。ならば大旦那様の為にお造り致しましょう。」
「そうか。ありがとう。それならその桂花酒を持って、父上の山荘へ行かないか? 一緒に父上の様子を見に行こう。」
春鸞は、蓮香の気を晴らそうと大旦那様の居る山荘へ誘った。蓮香も久しぶりに出かける気になり、春鸞の誘いに乗った。そして、すぐに庭へ出て金木犀を摘み桂花酒を仕込んだ。
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