第20話 朝靄の蓮池で
厨房に戻ると蓮香は、今摘んで来た花をきれいにふき取り自ら選んで求めて来た茶葉と混ぜ茶筒に入れた。春鸞と兼悟が摘んだ花は静が用意してくれた茶葉に混ぜ、姉の持って来た木箱にもいっぱいに詰めておいた。
そして、さっきまでの夕餉の席に残っている酒瓶にも茉莉花を落とすと、梔子柄の杯で春鸞は再び酒を飲み始めた。
片付けを終えた静と兼悟も加わり、即席の茉莉花酒で初夏の香酒を楽しんだ。足を痛めた蓮香も一口だけ分けてもらった。
夜風が、まだ庭に残る梔子の香と初々しい茉莉花の香を運んで来る。笑顔の戻った蓮香に少し安心した三人は、互いに微笑み合い幸せなひと時を過ごした。
その夜、春鸞は程よく酔い蓮香の寝台で横になった。窓辺の卓では、静と蓮香が向かい合っている。春鸞が眠ったのを見て静が聞いた。
「ねぇ、蓮香。よい機会だから聞いておくわ。この離れに来て、もう六年が経つ。その間にあなたは、年頃の娘に育ったわ。他の人から見たら、いつ縁談があってもおかしくない年頃よ。誰か好きな人はいるの?」
「いいえ、静さん。私には誰も。ここでの暮らしは夢のようで。読み書きも十分に出来るようになったし、箏まで弾けるようになった。大奥様が残してくれた花たちのお陰で、季節毎の暮らしの楽しみまで覚えたわ。ただただ若様に感謝するばかりです。お陰様で実家の父の体も好くなって。」
「そうね。若様のお陰ね。でもね。あなたにそう暮らす素質があったから、この離れを守り様々な事を身に付けられたのよ。努力しなくても心が通い合う人に出逢えた事や、同じ風情を自然に一緒に味わえるという事は、実はとても貴重な事だと思うの。
若様は大奥様亡き後、この離れを閉ざされた。それは、大奥様と同じ感覚で風情を大切にしてくれる人でなければここまで造り上げた離れが台無しになってしまうと感じたからだと思うの。
でも、蓮香。あなたに出逢い離れを再び開き、今は一緒に風情を楽しんでいる。そう出来る事が嬉しいのだと思う。だから、あんなに大きな声を出す程、あなたの事を心配し大切に想っているのだと・・・ 蓮香、あなたは若様の事をどう想っているの? 好き?」
静の問いに戸惑った蓮香は
「若様には本当に感謝しているし、一緒に過ごす時はとても安心できて幸せだと感じているわ。だけど、好きかと云われたら分からないの。素晴らしい人だと思っているし、書についても何気ない事でも、もっと話していたいと想う事はあるわ。でもそれが、静さんの云う好きかどうかは分からない。だけど・・・」
「だけど・・・ 何?」
「さっき、茉莉花を摘みに行った時、若様が私を抱き上げ運んでくれた時、緊張したわ。胸がドキドキした。どうしてよいか分からず、若様の顔を見られなかった。」
「そう・・・ 分かったわ。もう十分よ。きっと少しずつ胸の内が見えて来るわ。今日はもう、休みなさい。」
静は部屋を出て行った。
寝台では、眠りに落ちずにいた春鸞が二人の会話を胸にしまい寝たふりを続けている。蓮香はそのまま部屋の卓で、静の言葉をぼんやりと考えているうちに眠ってしまった。
翌朝、まだ夜が明けきらぬうちに目が覚めた春鸞は、そっと起き上がると一人庭へ出た。空は朝日が薄く暁の帯を棚引かせている。その空を見上げ太鼓橋まで来ると、蓮の花が開いている。朝日に輝く美しい蓮花を見つけた春鸞は、そっと部屋に戻り卓で眠ってしまった蓮香を起こした。
「香、香。起きてごらん。庭の蓮が咲いたよ。とても美しい光景だ。来てごらん。」
耳元で優しく囁く。
「あぁ、若様。もうお目覚めだったのですね。」
「あぁ。さぁ、庭へ出てごらん。」
立ち上がった蓮香を抱き上げようとすると
「いいえ、若様。自分で歩きます。歩いて一緒に見たいです。」
と拒んだ。
「うん。分かった。ならば手を。」
春鸞は手を貸すと、蓮香を支えゆっくりと歩き太鼓橋へ向かった。
「わぁ、美しい。とても荘厳で、仙人でも出てきそうだわ。」
「はははっ。本当だ。確かにそうだな。」
「しっ。若様。まだ皆は眠っております。それに仙人も驚いてしまいます。」
「そうだな。その通りだ。しっー。」
春鸞はわざと小声で言った。
朝靄の中に花開いた蓮に、徐々に朝日が差し荘厳さが増す。
「蓮華の舟・・・ 蓮の花は本当に、最期の旅立ちの舟のようだわ。」
蓮香が穏やかな大人びた声で言った。
「あぁ、母上も話していたよ。人は、蓮華の舟に乗って旅立って逝くのだと。」
「えぇ。だって大奥様が残された書で読んだのだもの。」
「はははっ。そうか。通りで同じことを言う訳だ。後でその書を貸してくれないか? 私も一度読んでみよう。」
「えぇ・・・」
それから二人は、ただ黙って目の前の同じ光景を見つめていた。次第に靄が晴れ朝日が蓮の花を浮き上がらせた頃、
「さぁ、皆も起きる頃だ。今日は先に粥を作って驚かせよう。」
春鸞が言った。
「まぁ、若様。粥をお作りになれるのですか?」
「粥ぐらい作れるさ。きっと・・・」
「ふふっ。まぁ、いいわ。私もお手伝いしますから。」
太鼓橋にいる二人の姿を部屋の窓から見ていた静は、戻って来る二人の話し声を聞いて急いで寝台へ戻り、もう少し眠っている事にした。そうして湯気の香が立ち上がり、二人の粥が出来上がった頃を見計らって起き上がり厨房へ顔を出した。
母屋では栖榮が眠れぬ夜を明かし、朝まで離れに医生が呼ばれていない事に安堵していた。
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