第18話 姉の助言

 誰も口を開けず沈黙と重い空気が厨房に漂っている。


「まぁ、まぁ。何の騒ぎなの? 外まで聞こえたわよ。春鸞が大きな声を出すなんて珍しいこと。」

離れの入口に女が現れ沈黙が破られた。


「あっ、姉上。なぜここへ?」


「そんなに驚かなくても。私だってたまには実家に来るわ。今日は満月でしょう。だから今晩、茉莉花を摘んでもらって、それを少し分けてもらえたらなぁ。と思って木箱を持ってやって来たの。そうしたら、あなたが大きな声で誰かを叱っているのが聞こえたのよ。」


「お嬢様、そうでしたか。お言付け頂ければ用意しておきましたのに。」

「いいのよ。静さん。私もたまには、この離れに来たいの。ここはとても落ち着く場所だから。まぁ、泣いているのは蓮香? 大きくなって。立派な娘さんだわ。小さくて可愛らしかった蓮香が、こんなに美しい娘になったのね。」


「えっ。お嬢様は、私を知っているのですか?」


「えぇ、もちろん。あなたがこの離れに来たばかりの頃に、そっと見に来たことがあるのよ。春鸞が大きな声でごめんなさいね。でもね、きっとあなたの事を心配したのだと思うわ。許してあげてね。そうそう、そんな訳で今夜摘んだ庭の茉莉花を少し分けて欲しいの。いいかしら?」


「えぇ、もちろん。ちょうど今夜、私も摘んで茶を仕込もうと思っていたのです。」


「まぁ、気が合うわね。そうよね。摘むなら今夜が最適よね。それはそうとその足、随分と腫れているわ。早く手当てをしてもらいなさい。大事にならないように。」

「でも・・・ まだ若様のお叱りの途中で・・・」


「春鸞、早く手当てをしてあげなさい。私は来たついでに、少しお庭を見せてもらっていいかしら? 離れの主さん。」

「えぇ、もちろんです。お姉様。」

姉に見つめられ、照れながら蓮香は言った。


「静さん、兼悟。一緒に庭へ。」

姉は二人を連れて外へ出て行った。



 春鸞は、少しきまり悪そうに蓮香の足に薬を塗ってやり、水に浸した薬草を巻いてやった。そしてぽつぽつと話し始めた。


「さっきは、大きな声を出してすまなかった。姉上が言った通り、君を心配したんだ。すまない。」

「いえ、若様。ご心配をおかけして申し訳ありません。」


「でも、大事に至らなくて善かった。この木箱は?」


「これは、今日買い求めた杯です。若様や皆と茶や酒を飲むのにいいかと思って。でも、転んだ時に割れてしまったかもしれません。」

「どれ、見てみよう。」


春鸞が蓋を開け包みを解いてみると、くるみ布が歪んでいた二つは割れてしまっていた。だが、若草色が一つと蒼が一つ、無傷で残っていた。


「大丈夫。ほら、一つずつは残っていたよ。これは皆が梔子のようだと言った、あの衣の模様みたいだね。」

「そう、そうなのです。私も見た時にそう思って。きっと、若様も気に入ってくださると思ったのです。」

「あぁ、気に入った。今夜さっそく、これで酒を飲もう。」

春鸞は嬉しそうに杯を眺めている。



 久しぶりに離れに来た姉は、庭を歩きながら太鼓橋まで来ると二人に


「実は今日、街で栖榮を見かけたの。ひどく慌てている様子で青凱寺の方から駆けて来たわ。その後ここへ来てみたらこの有様。もしかして、何か関係があるのかしら?」

静と兼悟は、顔を見合わせて困っている。


「実は、お嬢様・・・ 先程、若様と母屋へ行ったら、奥様は行き先も知らせずに出かけられていて、まだ戻っていませんでした。」

「それに今朝、緑光薬舗さんからの荷物と一緒に頼んだ覚えのない茶葉が置かれていて・・・」

「若様が不審に思わたので私が医生の所へ調べに行ったら、毒のある花と葉が紛れた茶葉でございました。」


「まぁ、そんな事が? それが栖榮の仕業かもしれないと・・・ そうね。」

二人は黙って頷いた。


「これは、春鸞に態度をはっきりさせるように言った方がいいかもしれないわ。本人もまだ気づいていないのかもしれないけれど。あの子が‘君’と呼ぶものは、昔からごく限られたものだけ。」


「はっ。お嬢様もお気づきでしたか?」


「当り前よ。兼悟。私は春鸞の姉よ。あの子が産まれた時から知っているのよ。」

静と兼悟は、顔を見合わせて笑った。


「二人は気付いていたのね。あの子が‘君’と呼ぶものは愛しくて大事に想っているものだけ。飼っていたリスや玩具の鳩車。それに幼い日の兼悟・・・ ごく限られた愛しい物だけだった。」

「えぇ、そうなんです。それに加えて若様は時々、蓮香の頭を撫でて見つめるのですよ。」


「まぁ、兼悟。それは本物ね。じゃぁ、気付いていないのは本人だけね。栖榮は子もいないし、何処かで感じ取っているのでしょうね。春鸞の変化を。あの二人は、これまで仲良くやって来たと思うわ。互いに歩み寄り夫婦として一緒にいる努力をしてきた。けれど、努力なしに心が通い合う者が現れたら、どうにも敵わないのよ。心は正直だわ。惹かれてしまうもの。

 名家なら他に妻が居ても不思議じゃない。だから春鸞は、決めてもいいのよ。こんな状態はよくないわ。蓮香も栖榮も、可哀想よ。」


姉の言葉に、静も兼悟も納得だった。だが、春鸞にどう進言してよいものやら困った様子。


「まぁ、まずは本人に自分の胸の内に気付いてもらわない事にはね。そういう意味じゃ今回の事件は、よい機会になるかもしれないわ。流れに任せましょう。茉莉花は、明日取りに来るからお願いね。蓮香に、お大事にって伝えて。」

そう言うと姉は、通用門から出て行った。



 静と兼悟が八角堂の中へ戻ると、蓮香の手当ては終わっていて二人は談笑していた。


「あぁ、二人にも謝っておかないとな。さっきは、大きな声を出して・・・」

「あぁ、若様。もういいですよ。ご心配なさったのでしょう、蓮香を。」

「あぁ、だが、すまなかった。」

春鸞が、静と兼悟に頭を下げた。二人は大きく頷き春鸞に微笑みを返した。


「蓮香、お腹が空いているんじゃない? 皆でお茶にしない? お嬢様から焼餅を頂いたのよ」


静がお茶を淹れ、皆で焼餅を食べた。焼餅を笑顔で頬ばる蓮香の姿に、春鸞の怒りも心配も鎮まっていった。
















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