第16話  茶葉を買いに

 梔子の宴からひと月程経った頃、離れの庭の茉莉花が咲き始めた。次第に膨らんでゆく月光に照らされ、花は数を増し毎夜美しく浮かび上がる。夕暮れから夜になると開かれた茉莉花の香が庭中に広がり夜毎に強くなっていった。



 明日は満月という晩、蓮香は静に頼みごとをしていた。


「明日は満月だから、夜に茉莉花を摘もうと思うの。それでね、自分で選んだ茶葉でも茉莉花茶を仕込みたいの。だから明日、昼間のうちに街へ買い物に行ってもいい? それと、青凱寺にもお参りに行きたいの。」

「えっ? 青凱寺にお参りに? どうして? それに茶葉はもう、若様に云われて用意してあるわよ。」


「うん。知ってる。本当は永慶寺に行こうかと思ったんだけど、ちょっと遠いし馬車でってなると大事でしょ。だから茶葉を買うついでに寄れる青凱寺で、大奥様のお力を借りる為にお参りをしたいの。美味しい茉莉花茶が造れますようにって。青凱寺は‘縁寺’でしょう。だから大奥様と縁を結んでもらって、茶葉選びに力を貸してくださいってお願いするの。」


「まぁ、まぁ。随分と気合も入っている事。珍しいわね。」

「そう? だって、大奥様と大旦那様の大事な想い出の茉莉花を使わせて頂くんですもの。」

と蓮香は笑った。


 自分に向けられた照れ笑いに別の秘められた想いを感じ取った静は、

「まぁ、いいわ。でも明日は、井戸と屋根を見てもらう約束をしてしまったから、私はここを離れられないのよ。一緒に行けないわよ。」

「大丈夫よ。もう十七歳よ。街へ買い物ぐらい一人で行けるわ。」


「そうね。でも、気を付けてよ。あなたに何かあったら大変。若様に叱られてしまうわ。私も平穏ではいられない。十分に気を付けて、早く戻ってらっしゃい。」

「はい、約束します。ありがとう。静さん。じゃぁ、明日、行ってくるわね。」


静の許しを得た蓮香は、弾むように自分の部屋へ戻って行く。成長しすっかり娘盛りを迎えた蓮香を、静は愛しく見つめていた。




 翌朝、蓮香は一人で街へ出かけて行った。静が厨房の片づけを始めていると、緑光薬舗の孝永が来た。


「おはようございます。静さん。お届け物に参りました。」

「あぁ、孝永さん。早くからありがとう。今ちょっと手が離せないので、そこの卓の上にお願いします。」

「はい、分かりました。では、こちらに。今日は、蓮香さんは?」

「あぁ、蓮香はちょっと出ているのよ。」

「そうでしたか。では、私はこれで失礼致します。」

孝永は、残念そうに薬舗へ戻って行った。


 それから井戸と屋根の職人が来て離れは珍しく騒がしくなり、その対応に静も忙しくなった。




 久しぶりに一人で街に出た蓮香は、あれこれ店を見て回りたい気持ちもあったが、たいして欲しい物もない事に気付いた。唯一心に浮かんだのは、若様と飲むお酒や茶の新しい杯だった。ちょうど青凱寺の手前によさそうな店があったので寄ってみると、白く美しい広口の杯に黄色と若草色の模様が入った物と同じ形の杯に蒼と桜色の模様が入った物に目が留まった。


〈まぁ、美しい杯。前に若様から頂いた衣のようだわ。これにしましょう。きっと若様も気に入るわ。〉


蓮香はその杯を四つ買い求めた。若草色を二つ。蒼い方を二つ。店主は杯を幾重にも布で包み、箱の隙間には紙を詰め丁寧に整えてくれた。

 蓮香は杯の木箱を手に青凱寺でお参りを済ませると、とても清々しい気持ちで門を出た。


〈さぁ、後は茶葉を買って帰りましょう。きっと大奥様も喜んでくださるわ。大奥様、私が善い茶葉を選べるようにお力をお貸しくださいね。〉


そんな事を思いながら青凱寺の石段を下りていると、後ろから誰かがぶつかって来た。持っていた木箱が大きく揺れ、蓮香はよろけて石段を踏み外し地面へ転んでしまった。


「はぁっ。」


地面に倒れ込んだまま振り返ったが、もう後ろには誰もいなかった。安堵と残念な気持ちを覚えた後、手元の木箱の事を想い出した。まだ地面に座ったまま慌てて木箱を開けてみると、杯をくるんだ布が二つ歪んでいた。


〈あぁ・・・ 割れてしまったかもしれないわ。勿体ない。ごめんなさいね。〉

蓮香は布を解いて確かめる気力もなく立ち上がると、足が少し痛んだ。


〈あぁ、足まで痛めてしまったようだわ。なんて事でしょう。静さんに気を付けなさいと言われて来たのに・・・〉

衣の砂を払いとぼとぼと歩き茶葉を求めに向かう。


 ようやく茶舗に着くと香りの優しい柔らかな茶葉を選び。少し多めに買い求めた。店を出ようとすると蓮香の後ろ姿に店主が声をかけて来た。


「お嬢さん、足を痛めているのかい? 家は近くなのかね? その足じゃ大変だろうに、誰か迎えに来てくれる人はいないのかい?」


「あっ、いえ。大丈夫です。たいした事はないので一人で帰れます。ご心配ありがとうございます。」

蓮香は微笑んで返すと、店を出て歩き始めた。


 だが、足は歩くたびに痛みが増すようだった。しばらく歩いてはみたものの痛みに立ち止まり、見ると足首から下が先程より一回りも大きくなっているように感じる。急にじんじん、ズキズキと痛みが増した。その足を引きずりながら蓮香は一人でゆっくりと龍箏香堂へと向かった。
















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