第14話 芳しき十三夜
次第に日が暮れ、十三夜月が空に顔を出した。庭を梔子の香が包み徐々に輝きを増す月に照らされ、足元で白い花弁が光っているように浮かび上がった。
「若様、見て。とても綺麗。梔子の花弁が光っているように見えるわ。」
「あぁ、本当だ。美しい。これ幸いだなぁ。」
二人は顔を見合わせて喜んだ。庭に据えられた宴の卓には、兼悟と静が用意した酒や料理が運ばれて来た。そして、春に仕込んだ桃花酒も。
「さぁ、今日は約束の日だ。桃花酒を開けて飲もう。」
春鸞の号令で蓮香が封を開けて顔を近付けると、ほんのり桃の香がした。
「さぁ、蓮香。皆に注いでちょうだい。」
静が用意した杯を手渡すと、蓮香は丁寧に注いだ。
「今日は、蓮香も飲んでみたらどうだ? もう、飲んでもよい年頃だ。」
「えっ、若様。よいのですか? 本当に? では私も。」
蓮香は自分にも一杯注ぎ、皆で乾杯した。
「蓮香、初めてのお酒だから少しにしておきなさい。それに、ゆっくりね。」
静が心配して言う。
「まぁ、いいじゃないですか。家で飲んでいるのだし、今日は誕生日なのだから。」
「兼悟はいいかもしれないけれど、後で介抱するのは私ですからね。それに、蓮香自身がが辛いわ。」
「それもそうだ。蓮香、ゆっくりな。」
「うん。分かったわ。ありがとう、二人とも。心配してくれてるのよね。それにしても好い香り。夜になって一層、梔子の香が増したようだわ。」
「あぁ、本当に好い香りだ。そうだ蓮香、久しぶりに手合わせをしようじゃないか。箏を持って来てくれないか?」
春鸞が懐から龍笛を出した。
「でも・・・ まだ、あまり上手じゃなくて恥ずかしいです。」
蓮香はうつむいた。
「何、今できる分の力でよいのだ。今日は身内しかいない祝いの席だ。桃花酒で酔う前に手合わせをしよう。さぁ、早く持って来ておくれ。」
蓮香は困って静の顔を見ると、静は微笑んで大きく頷いている。仕方なく蓮香は立ち上がって、箏を取りに八角堂の中へ入って行った。
すると春鸞は、兼悟と静に顔を寄せ小声で言った。
「今日は、離れに泊まる事にする。」
「えっ! 若様、それは・・・」
「違う! 兼悟、勘違いするな。ただ泊まるだけだ。酔ったふりをして朝まで離れに居るだけだ。今朝あんな事があって蓮香と離れが心配だから。それに栖榮への怒りもまだ納まらぬ」
「分かりました。若様。ならばそのように致しましょう。」
「兼悟、お前も離れに残れ。いいな。静さん、兼悟を厨房の隅にでも寝かせてやってくれ。」
「はい。若様。後で毛布を用意しておきます。」
「えぇっー。そんな・・・」
三人は顔を見合わせて笑った。
「何を笑っているのです? 三人で内緒話ですか?」
蓮香が箏を抱えて戻って来た。卓の三人は、まだ笑っている。
「さぁ、さぁ。一曲。手合わせを始めよう。」
月が高く昇り青白い光が庭を照らす。暮れ時にまいた梔子の花弁が一層白く浮かび上がっている。蓮香の準備が整ったのを見計らって、春鸞が龍笛を鳴らした。
青白い静寂に龍笛の高く麗しい音が浸み込むように響く。そして、その音に添うように蓮香が箏を弾く。龍笛に寄り添い、時に包み込むように箏の音は庭全体に広がる。その二つが溶け合った音は母屋へも響き、耳にした者達はしばし手を止め音色に聴き入った。
「蓮香、随分と上達したのだな。驚いた。十分に弾けるではないか。これからは時々、共に演奏しようじゃないか。よし、もう一曲。」
「ありがとうございます。若様。えぇ、ぜひもう一曲。」
二人は再び音色を響かせた。
時々、互いに顔を見合わせながら楽しそうに音を合わせる。芳しき梔子の香と青白き十三夜月に包まれて。
「あぁ、若様も蓮香も素敵だったわ。よい音色だった。」
「えぇ、静さんの言う通り。やはり離れは風流ですね。大奥様がいらした頃を想い出します。」
「兼悟も覚えているか・・・ あの頃は時々こうして、この庭で宴をしていたな。」
「えぇ、若様。大旦那様と大奥様。それに若様と姉上様もいらして。」
「えっ、若様は、お姉様がいらしたんですか?」
「そうよ。蓮香は知らなかったかしら? 今は嫁がれてしまったけど。玄家にはお嬢様もいらしたのよ。」
「だって、静さんも若様も一言も仰らないから。知らなかったわ。」
「はははっ。そう。姉上がいるのだよ。五つ離れたね。だからあの日、緑光薬舗で君たち姉弟を見た時、気になってしまったのかもしれないな。」
「そうだったのですね。きっと、お優しいお姉様だったのでしょうね。」
「あぁ、私には優しかったよ。とても。さぁ、飲もう。さぁ。」
静が皆に酒を注ぎ、再び杯を掲げ幾杯も重ねていった。
「それにしても、梔子は本当に好い香り。優雅で洗練されていて、この離れにはぴったりです。」
蓮香は、初めてのお酒も入り少しうっとりしている。
「あぁ、今更ながら母上の感性には敵わないと思うよ。よくここまでの離れを造ってくれたと感謝するばかりだ。」
「きっと風流で素敵な方だったのでしょうね。大奥様はこの離れに名を付けなかったのかしら?」
「そういえば大奥様はいつも、ただ離れと呼んで・・・ あぁ、時々は八角堂と呼んでいたかしら?」
静が昔を思い出しながら話すと
「静さんが聞いていないなら、おそらく大奥様は名をお付けにならなったのでしょうね。」
兼悟が話に加わった。
「なんだか、いつも離れ離れって呼ばれていて、少し可哀想な気がしていたのです。」
蓮香の言葉に、静と兼悟は笑った。突然二人が笑ったので恥ずかしくなった蓮香は、顔を紅らめ二人を交互に見ている。
「違うんだ。違うんだよ。蓮香。お二人はよく似ているなぁと思ってさ。少しだけ可笑しくなってね。」
「そう。若様とあなたは、よく似ている。若様も時々、今のあなたのような物言いをされるから。お二人は、感じ取る所や選ぶものがよく似ているのね。」
静と兼悟は、また顔を見合わせて笑った。
「そうか? 私と蓮香は似ているのか? ならば母上とも、きっと似ているな。この離れを好んでいるのだから。蓮香、そう思うのなら君が名を付けたらいい。今の主は君なのだからね。」
春鸞が微笑んでいると
「若様、主だなんて。でも・・・ 私が名を付けてよいのなら・・・」
蓮香はしばらく考え込んでから
「例えば・・・ ‘
「うん。よいのではないか。よし、今日からこの離れは、〈龍箏香堂〉と名付けよう。明日にでも額を手配しよう。」
「それはいいですね。若様。明日、手配して参りましょう。」
「うん。私も一緒に行こう。大事な額だからな。」
こうしてこの夜から離れは、〈龍箏香堂〉となった。上機嫌な若様は、杯を重ね酔いを増していった。そして、不意に何かを想い出したように言った。
「知っているか? 梔子は、喜びを運ぶ花だそうだ。今日は私にも喜びを運んでくれた。あぁ、好い香りだ・・・」
そのまま梔子の花弁が白く光る庭を見渡し軽く目を閉じた。
しばらく香を味わった後に目を開けると、春鸞は兼悟に目配せをし卓にもたれかかった。
「あぁ、若様。今日はお酒が過ぎたのではありませんか? もう、酔ってしまわれたのでは?」
「まぁ、まぁ。若様は、よほど嬉しかったのね。仕方ない。中へ運びましょう。兼悟、お願い。手を貸して。」
静と兼悟は、春鸞を支え蓮香の部屋へ運んだ。そして、水を飲ませると寝台へ寝かせ片付けに戻って行った。
蓮香は庭から箏を抱え戻ると、寝台の縁に腰かけ春鸞を見守っていた。
しばらくして、ぼんやりと目を開けた春鸞は、蓮香の手を取り
「香。お誕生日おめでとう。この離れに、龍箏香堂に来てくれてありがとう。さぁ、もう遅い。少し眠ろう。」
と蓮香の手を引いた。
「いえ、ここは若様がお使いください。」
「こんなに広いのだ。大丈夫。香、誕生日の夜をそんな処で明かしてはいけない。さぁ、横になって休みなさい。今朝はあんな事があったんだ。怖かったであろう。悲しかったであろう。今晩は私が付いている。安心して休みなさい。さぁ、香・・・」
「あっ、若様・・・」
蓮香は少しだけ後悔した。
昼間の外出から戻った時、まだ籠に残っていた別荘の梔子の蕾を水鉢に浮かべ部屋に置いた事を。部屋中に甘くうっとりするような梔子の香が満ち青白く月光が差し込み、特別な雰囲気を漂わせている。自分の寝台に居る春鸞の穏やかな気が生む幸せな心持ちに包まれ、蓮香は手を引かれるままに寝台に横になった。そして、いつの間にか眠ってしまった。
窓辺の卓に置かれた水鉢の中で月光を受けた梔子の蕾が今宵、静かに開こうとしている。
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