第10話 祝いの桃花酒

 街から戻って来た蓮香たち四人は、離れの通用門から買い込んだ酒や食材を厨房へ運んだ。全部を運び終わると、蓮香と春鸞はすぐに朝干した桃花を取りに庭に向かう。すると、庭につぶれた籠が転がっているのが目に入った。


「どういう事? どうして? どうして・・・」


蓮香はうろたえて涙声になっている。その蓮香を支えながら

「どういう事だ。なぜこんな事に? 朝はしっかり吊るしてあったのに。」

春鸞も驚いている。


「せっかく摘んだのに。台無しだわ。これではお酒に入れられない・・・」

蓮香は泣き出した。

「蓮香、大丈夫。まだほら、摘んだ蕾があるじゃないか。大丈夫だ。今年は、その蕾だけで造ろう。ほら、衣が汚れる。立ちなさい。」


春鸞が抱き起こしながら言うと

「でも若様、桃の花が・・・ お酒を造るのを楽しみにしていたのに・・・ 若様と一緒に造るのを楽しみに摘んだのに・・・」

蓮香は泣きじゃくっている。


「大丈夫。花弁がなくても、蓮香が摘んでくれた蕾があるじゃないか。それで今年は十分だ。さぁ、中に入ろう。桃花酒を造ろう。」

蓮香は春鸞に抱きかかえられ中へ入って行った。



 二人が厨房にはいると

「蓮香、どうしたというの? まぁ、せっかくの衣が汚れて・・・」

静が衣の汚れを払い心配顔で見ている。


「若様、一体どうしたというのです? さっきまであんなに楽しそうだったのに。」 

兼悟も不思議そうに聞く。


「朝たくさん摘んで軒下に吊るしておいた桃の花弁が・・・ 花弁が全部・・・」

蓮香が再び泣き出した。


「全部下に落ち、籠がつぶれ汚れてしまったのだ。」


崩れ落ちそうな蓮香を支え、たった今見て来た光景を春鸞が代わりに説明した。


 すぐに兼悟が庭に出て籠を探す。そして、庭に落ち無残に潰れている籠を拾い上げると、中に残っていた桃の花弁がひらひらと舞い落ちた。兼悟は、その籠を拾い力なく厨房へ戻ると静に見せた。


「まぁ、なんて事に。籠まで潰れて。誰がこんな・・・」

兼悟は静の顔を見て首を横に振り、言葉の先を制した。


「蓮香。お酒はまた、桃の花を摘み直してから造ればいいわ。何も今じゃなくても。」


静が慰めると

「静さん。どうしても今日なの。今日造りたかったの。今日じゃなきゃ・・・ だって今日は、若様のお誕生日だから。」

蓮香は、涙声で言い静に抱きついた。


「そうか。そうか。そうね。今日は若様のお誕生日だわ。蓮香、よく覚えていたわね。」

静はしっかりと優しく蓮香を抱きしめたまま、春鸞と兼悟を見た。


「蓮香。ありがとう。私の誕生日を覚えていてくれたんだね。嬉しいよ。大丈夫。桃花酒は、今日造ろう。朝、私に見せてくれた蕾はどこにあるんだい? それで造ろうじゃないか。」


「蓮香、蕾も摘んだの? 何処にあるの?」

静が体を離し、蓮香の涙を拭きながら聞いた。


「うん。蕾の方が香りが強いと書にあったから、それも一緒にと思って。私の歳の数だけ摘んだの。」

そう言って蓮香は自分の部屋に行き、小鉢に入れた桃の蕾を持って来た。


それを見て春鸞は

「大丈夫。これで桃花酒を造ろう。書には、蕾の方が香りが強いと書いてあったのだろう? それなら大丈夫だ。しっかり書を読み蕾も摘んで部屋に置いた君のお手柄だ。さぁ、これで一緒に造ろう。」

と優しく蓮香の頭を撫でた。



 そうして十六個の蕾をそっと洗い優しく丁寧に拭き、買って来た甘めの酒に二人で入れた。その酒瓶は、大事に蓮香の部屋の寝台の下に置いて寝かす事にした。



 その後、蓮香が長寿麺を作り皆で味わい夕陽が照らす桃の木の下で茶を飲み菓子を食べ、春鸞の誕生日を祝った。


「若様。書には、ひと月程で香りが移り桃花酒になるとありました。いつ頃お飲みになりますか?」

すっかり笑顔が戻った蓮香が聞くと

「そうだなぁ。ならばひと月程で蕾を取り出し、蓮香の誕生日に飲むとしようか?」


「若様、それはいいですね。若様の誕生日に造った酒を、蓮香の誕生日の祝いの酒にするのですね。」

「うん。兼悟、その通り。どうかな? 蓮香。」

「えぇ、とても善いと思います。そう致しましょう。今からとても楽しみです。」


蓮香の華やいだ笑顔に春鸞は乗じて

「ならばその日は、今度は私が長寿麺を作り皆に振る舞おう。」


「えっ? 若様が自らですか? お作りになった事があるんですか?」

静が驚いた。

「いいや。まだ一度もない。静さんに教えてもらわなければ・・・」

春鸞が笑い、皆が笑った。


「風が冷たくなってきたわ。そろそろ片づけて中に入りましょう。」

静が蓮香に促すと、二人は厨房へ戻って行った。



 桃の木の下に兼悟と残った春鸞は、真剣な顔で話し始めた。


「今朝、栖榮がそこの渡り廊下まで来て、蓮香を衣の事で叱ったそうだ。その事と桃花の事は関係があると思うか? 栖榮は、離れの事が気に入らないのであろうか?」

「若様。奥様のお心は計りかねますが、今後はもう少し離れの事に気を配っておきます。」

「あぁ、兼悟。頼む。そうしてくれ。あんなに悲しむ蓮香の姿を、私はもう見たくない。」

 そして二人も、厨房の中に声をかけると母屋へ戻って行った。



 母屋ではその夜、春鸞の誕生日を祝う盛大な宴が開かれた。膨らみかけた月がすでに西に浮かぶ夜空に、離れの庭から箏の音が流れて来た。その音の流れは、宴を離れ母屋の庭に出た春鸞にもかすかに届いた。


〈ほう。蓮香だな。だいぶ上達したようだ。これは祝いの曲。ここまで弾けるようになっていたのなら、昼間桃の木の下で披露してくれたらよかったのに。あぁ、好い音だ・・・〉


春鸞は、一人目を閉じて箏の音を聴いた。背後の宴の雑踏より、鮮明に大きく心に届く箏の音は胸に喜びを広げた。


〈今年は、好い誕生日だ。母上が亡くなられてからは、これほど嬉しく想ったのは初めてだ。今日はもう、このまま眠ってしまいたい・・・〉


春鸞は手を後ろに組み膨らみかけた月を見上げている。箏の音が運んだ胸に広がる温かい喜びに、何よりの祝いの品を受け取ったような心持ちだった。そんな春鸞の後ろ姿を、ちょうど探しに出た兼悟も嬉しく見つめていた。


 宴の席を離れた春鸞が戻らぬ事に胸騒ぎを覚えた栖榮が部屋を出ようとすると、母屋の庭に立ち後ろ手に夜空を見上げる春鸞の姿が見えた。栖榮は、こちらの庭に一人でいる春鸞を見つけ安堵すると同時に、近くに居ても手の届かない遠さを感じた。
















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