桃花が咲く頃に

第9話 桃花摘み

 蓮の花が咲き茉莉花が咲き実り金木犀が漂う。そうしてまた、沈丁花が香り桃の花が開く。四季の移ろいと共に目に映る彩りは変わり、風の香が変わる。こうして離れの四季が時の経過を知らせてゆく。


 すっかり整った離れの書庫では、読み書きを覚えた蓮香が一日中をそこで過ごす事もあった。窓から見える離れの庭に、四季の彩りが宿っている。

四季ごとの行事や暮らしを繰り返しているうちに、再び離れが開かれてから五年の月日が流れていた。



 栖榮は近頃、以前とはどことなく違う若様の様子を気にかけていた。


〈近頃、若様は遅くまで書を読んでいる事が増えたわ。でも、書斎には書が増えた様子がない。あの書は買い求めた物ではないのかしら? 誰かに借りているの? それとも読み終わって誰かにあげているのかしら? 

そう言えば、よく離れの様子を見に行っているようだわ。〉


あまり夫婦で話す事もなくなり、共に食卓を囲むこともいつの間にか減っていた。決して仲が悪い訳ではない。春鸞はいつも穏やかな笑みを向けてくれるし、優しく接してくれる。でもどこか遠くにいるように感じていた。その感覚は、玄家に嫁いで来た頃からのもの。初めのうちは、まだ互いによく知らないからだと思っていた。

 

 だが月日を重ね夫婦の時を重ねてもなお、その感覚はなくならずにいる。言葉を交わしても顔を合わせても触れ合っても、どこか遠い人のまま。嫁いで十数年が経った今でも遠い。むしろ今の方が遠い人だとさえ思う。栖榮は、胸の奥にその想いが強く確かにあるのを感じていた。


 栖榮の足は、自然に離れに向かっていた。渡り廊下まで来ると庭が見える。その庭の太鼓橋の上に春鸞の姿が見えた。


〈あっ、若様。やはり離れに・・・〉


すると、数冊の書を抱えた地味な衣の娘が春鸞に駆け寄っている。二人はとても親しげに書を挟んで話をしている様子。その会話までは聞こえないが、楽しそうに話し込んでいる。


〈そうだわ。確か離れには、大奥様の書庫があると言っていたわ。近頃、若様が読まれていた書は、離れの書庫の物だったのね。〉

栖榮は少しほっとした。


 けれど同時に、妙な胸騒ぎも覚えた。そして急にいたたまれなくなり、足早に渡り廊下を去り自分の部屋へと戻って行った。


 そうとは知らぬ春鸞は、数冊の書を手にほころんだ顔で母屋に戻り書斎に本を置くとそのまま出かけてしまった。




 空は蒼く朝露が残る離れの庭。その蓮池の奥で蓮香は、一人で桃の花弁を摘んでいる。そこへ栖榮が通りかかった。あの日、太鼓橋で楽しそうに話す春鸞を見かけて以来、なんとなく離れへの疑いがぬぐいきれず心配になって様子を見に来ることが多くなっていた。


今日は、日頃見かけない少し華やかな衣を着た年頃の娘を庭に見つけた。たまらず栖榮は共に来た侍女に聞く。


「あれは誰かしら? どなたかお客様がお見えなの?」

侍女が少し庭に近付いて見る。


「離れにお客様があるとは聞いておりませんし、あれは蓮香かと思います。」

侍女の言葉に栖榮は少し驚いて息を飲んだ。


「そう・・・ 蓮香なの・・・ 蓮香! どうしたの? 何をしているの?」

栖榮が辺り廊下から呼びかけた。


 その声に慌てて桃の木を離れた蓮香は、渡り廊下へ駆け寄る。


「おはようございます。奥様。今日は、こんなに朝早く何か御用でしょうか? 私は今、桃の花弁を摘んでいたところでございます。昼過ぎから桃花酒を造りますので、その前にと思って・・・」

と微笑んだ。


 栖榮の目の前に現れた華やかな衣の娘は、侍女の言うように間違いなく蓮香だった。久しぶりに間近で見る蓮香は、すっかり年頃の娘に生長していた。弾けるような瑞々しい眩しさを放つ蓮香に、栖榮は驚いた。


「そう。桃花酒を。風流ね。でも、いつもの衣とだいぶ違うようだけど、どうしたの?」

不審に思った栖榮が顔を歪めていると


「あっ、これは静さんに云われて。今日は若様が桃花酒の為に使うお酒を選びに行くので、そのお供に参ります。ですから若様に失礼がないようにと、これを着るように云われました。」


無邪気にそう話す蓮香に

「そう・・・ そうだったの。とっても素敵な衣ね。よく似合っているわ。たまには美しい衣もよいものよ。でも、そういう衣を着た時は、少し淑やかにね。衣に見合った振る舞いを。」

と優しく諭した。


「はい。奥様。申し訳ございません。衣を傷つけないよう振る舞いに気を配ります。」

「そうね。では失礼するわ。」

蓮香は、母屋へ戻って行く栖榮を見送った。


 そして、摘んだばかりの花弁を籠に入れ軒先に吊るすと、再び桃の木に戻った。


 今度は、まだ開ききっていない大きく膨らんだ蕾を十六ばかり摘むと、用意していた小さな鉢に入れ太鼓橋まで戻って来た。するとそこへ、通用門から春鸞が現れた。


「蓮香、どうした? 朝から庭に出て。しかもそのような美しい衣の時は、あまりお転婆をしてはいけないよ。振る舞いに気を配らねば。」


「はい。つい先程、渡り廊下を通りかかった奥様にも同じ事を云われました。申し訳ございません。今日は若様と桃花酒のお酒選びに街へ行くから若様に失礼がないようにと、この衣を静さんが。でも、帰って来たらすぐにお酒を仕込めるようにと思って、朝の内に桃の花を摘んでおきたくって。ほら。」

蓮香は今摘んだばかりの大きな蕾を見せた。


「うーん。好い香りだ。これ以上摘んだら、夏に食べる桃が減ってしまうぞ。」

「えぇ、ですから花弁だけを摘んだ物があちらに。」

そう言って、さっき吊るした軒下の籠を指差した。その籠に春鸞は歩み寄る。


「おぉ、たくさん摘んだな。一人で摘んだのか?」

「えぇ、早くから。出かける前に済ませておきたくて。」

と太鼓橋を下りながら蓮香が答えた。


「そうか・・・ 来年は、私も一緒に摘もう。それから酒を買いに出ればよい。いいね。」

「はい。若様。これを部屋に置いて参ります。少しお待ちください。」

「うん。分かった。ゆっくりでよいから、慣れぬ衣に気を付けて。」


部屋へと小走りに戻って行く蓮香の後ろ姿に、春鸞は声をかけた。衣一つで見違える娘っぷりに、いつもと変わらぬ愛くるしく闊達な蓮香。その姿に春鸞は、胸が躍った。


 静と共に蓮香が庭に戻ると、離れの通用門で待っていた兼悟と四人で街へ出かけた。



 この離れの庭の様子を渡り廊下の陰からじっと見ている者があった。さっき母屋へ戻ったはずの栖榮だ。


〈どうして? 若様のあんなに華やいだ笑顔を、私はみた事がないわ。なぜあの娘には、あんな笑顔を向けるの?〉


栖榮の心に確かな嫉妬が芽生えた。

 誰もいなくなった離れの庭に侍女と入ると、吊るされている桃花の籠を下ろし足で踏みつぶした。そして人目を避け、すぐに母屋へ戻って行った。


















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