第6話 離れでの夜

 その八角堂の中には、母親以上に歳の離れた女が立っていた。


「この者は、私の母の侍女をしていた静さんだ。君のお母さんだと思って何でも頼りなさい。静さんは、私も信頼する人だから。」

「まぁ、若様。久しぶりにお会いして、そんなに褒められるとは。」

静は嬉しそうに笑っている。


「それにしても驚きだ。兼悟が静さんに偶然会い離れに来て頂けたと思ったら、同じ日に蓮香も現れるとは・・・」

「えぇ、若様。私も驚いております。きっと蓮香は、この離れによほどの縁がある。いや、大奥様や静さんと深い縁があるのかもしれませんね。」


兼悟が感慨深げに言うと、

「兼悟、本当にありがとう。よく静さんを呼んでくれた。静さんも、この離れに戻って来てくれてありがとう。これからこの離れと蓮香を、よろしく頼みます。」

と、春鸞は頭を下げた。


「あぁ、若様。お止め下さい。またここに戻れて、私も嬉しいです。蓮香、これから、よろしくお願いします。何でも言ってくださいね。」


静の優しい笑顔にほっとした蓮香も

「はい。よろしくお願い致します。」

と笑顔を見せた。


「今日のところは、夜寝られるようにだけ片付けて、ゆっくりしてください。作業は明日からという事で。食事は、母屋の方で作ったものを今日は運びますのでご安心を。それに若様も今晩は、こちらで一緒に召し上がるそうです。」

兼悟が静に目配せをした。


「分かりました。何かとお気遣い、ありがとうございます。では若様、後程お食事で。」

静は一礼すると、蓮香を伴って離れの中を案内した。



 離れの造りは、とても可愛らしく面白いものになっていた。大小の八角形の建物が三つ連なった形になっていて、その南に小さな蓮池と奥に桃の木と茉莉花がある。屋敷の母屋から続く渡り廊下に沿って藤棚があり、花の頃には花房が下がり藤の簾のようになる。そして庭には、沈丁花、梔子、金木犀があり春から秋まで花の香が楽しめる造りになっている。とても趣きがあり、四季を楽しむには静かでよい場所のようだ。


 一番広い八角堂には小さな厨房があり、すぐ横には侍女の部屋が設けられている。次に大きな八角堂は、大奥様が生前寝起きされていた場所で寝台や湯あみ用の桶場、厠なども備えてあった。そして一番小さな八角堂は書庫になっていて、壁にぐるりと書棚が備え付けられ真ん中には小さな卓が置かれている。南に小さな窓もあり、適度に明かりも取れるようになっている。この離れだけで十分に暮らしていける造りになっていた。


 今日からここで、蓮香と静の生活が始まるのである。



 蓮香は、一人で大奥様が使っていた八角堂を使う事になった。そこには既に、春鸞が秘かに用意させた衣服や布団が置かれていた。特に荷物もなく小さな風呂敷包一つでこの離れにやって来た蓮香には、用意されたすべてが有り難く初めて手にする美しい衣に胸が躍った。


 静が部屋の窓を開けると心地好い風が通った。まだほんの少し、名残の藤の香がする。


「この離れは素敵な処よ。大奥様が考えて造られ、大事に使って来られたの。季節ごとの花の香が楽しめて、屋敷の中で一番静かで穏やかな場所よ。月もよく見えるわ。

 今日は満月だから、夜には二人でお月見をしましょう。これから二人で、この離れを大事に守っていきましょうね。」


静の言葉に蓮香は大きく頷いた。


 それから静がお茶を淹れてくれ、二人で厨房の卓について談笑した。明日からの作業について静は丁寧に説明してくれたので、蓮香はとても心強くなりいつの間にか不安は消えていた。




 日が沈むと母屋から兼悟と侍従が食事を運んで来た。料理は、蓮香の部屋の卓に並べられた。


「これから若様が離れにいらした際には、この卓へご案内してください。ここで一緒にお食事やお茶をお召し上がりください。」

兼悟は二人に申しつけた。


「はい。兼悟さん。若様は、こちらへも度々来られるのですか?」


蓮香の問いに兼悟は

「若様は子供の頃からこの離れがお好きでしたから、これからは度々こちらへ足を運ばれるでしょう。特に花の季節には、その香と風を楽しみにいらっしゃる事も多いかと思います。」


「そうですか。では、お茶やお菓子なども用意しておかなければなりませんね。あっ、若様は、お酒は召し上がりになられますか?」

「はははっ。」

蓮香の問いに、兼悟と静は顔を見合わせて笑った。


 蓮香は、二人が急に笑い出したので訳が分からず顔を紅くしてうつむいた。


「蓮香、まだ子供なのによく気の付くこと。本当に、人の心の奥を感じ取る子だ。若様はお酒も召し上がるが、そんな事は今はまだ蓮香が気を回さなくてもよいのだよ。全部、静さんが用意してくれるから大丈夫。安心しなさい。」

と兼悟が言うと、蓮香は更にうつむいてしまった。


「どうしたの? 蓮香。あなたは今、兼悟に褒められて感心されたのよ。素晴らしい気配りだわ。本当に才がある。さすが若様だわ。あなたのその才を一目で見抜いた。大丈夫よ。

 あなたのその才に、きっと私も助けられる日が来るわ。兼悟、今日は満月よ。蓮香が気にかけた通り、若様に月見酒の用意もお願いね。」


「分かりました。静さん。そうか、今日は満月か。それは好い。さっそく酒を用意しよう。」

と、兼悟が一つ手を打って振り返ると


「それならもう準備できている。名残の藤を浸けた紫藤の酒を持参したぞ。皆で月を見ながら歓迎の宴といこうじゃないか。蓮香には、生姜糖水を用意したぞ。ここに藤花を浮かべてやろう。君はまだ、お酒が飲めないからね。」


春鸞が酒瓶を持ってやって来た。兼悟と静は、また顔を見合わせて笑った。



 やがて東の空に月が浮かび、庭に影の世界が訪れた。

四人で卓を囲み窓から差し込む月明りに、大人たちは籐花酒を飲む。蓮香は、初めて飲む生姜糖水の甘く刺激的な味に驚いた。あまりの美味しさに三杯もお代わりして、お腹が膨れてしまった。


 そして、月が東南に寄り蓮香の部屋の窓にその姿が写り始めた。

たった一人で意を決して街へ出て玄家にたどり着いた蓮香は、膨れたお腹に緊張の糸も切れたのか卓にもたれて眠ってしまった。その幼い寝顔を微笑んで見つめていた春鸞は、そっと蓮香を抱き起こすと寝台まで運び寝かせてやった。そのまま傍らに腰かけ幾度か頭を撫でて見守っている。


 その春鸞の様子を見ていた静は、小声で兼悟に言った。


「若様は、知っているのかしら? 藤花酒が宴に好まれる意味を・・・」

「えっ? 藤花酒に何か深い意味でもあるのですか?」


「あらっ、知らないの? ‘君を歓迎します。決して離れないよ’という意味があるのよ。それにもう一つ、‘恋に酔う’という意味もあるわ。」

「えっー。そんな意味が! だから贈り物や宴の席で好まれるのか・・・ 若様は、知ってて持って来たのだろうか・・・」


「若様の事だから、大奥様に聞いて知っているかもしれないわね。」

「だとしたら大変だ! もし知らなかったとしても、これは見えない縁がありますね。きっと・・・」


二人がそんな内緒話をしていると、春鸞は立ち上がって蓮香の寝台を離れ静に後を託し兼悟と母屋へ戻って行った。
















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