第5話 蓮香の決意
村では蓮香が毎日、父の為に春鸞が置いて行った薬を煎じていた。父親は有り難く薬を飲み続けた。
「父さん。私は、玄家の若様の所に行くと決めたわ。でも心配しないで。だから早く体を治してね。それでたくさん隆生と遊んであげて。大好きな芋餅もたくさん食べさせてあげて。これからはお給金も届けられるし、他にもいろいろ食べられるわ。」
蓮香は笑った。
父親は娘の笑顔に頷き感謝の笑みを返しつつ、心の中では詫びながら泣いていた。
「お前も玄家で、美味しいものをたくさん食べさせてもらいなさい。それに離れの管理もしっかりやるんだ。どうせなら文字も書も学ばせてもらえ。行くからには出来る事は何でもやってみなさい。」
そう言うのが精一杯だった。
弟の隆生は姉の側を付いて回り、姉がする事は何でも真似していた。
「姉ちゃん、僕もできるでしょ。姉ちゃんと一緒に出来るでしょ。」
口ではそう言えても、まだ幼い手足には出来ない事もあった。だが、弟は懸命に姉の代わりになろうとしていた。
「うん。隆生にも出来るね。父さんも母さんも助かるね。父さんが治ったら、たくさん遊んでくれるって約束してくれたよ。」
「じゃぁ、姉ちゃんと三人で遊べるね。」
隆生は笑った。
母親はいつも通りの仕事をこなし、ただ黙って娘の様子を見守っていた。別れを決め家族に挨拶するように丁寧に接している娘の姿を。
家族の元を離れることに決めた蓮香は、家族の為に出来る限りの事をして数日を過ごし自分の心を定めた。そして、明日は満月という夜、蓮香は家族を前に旅立ちのあいさつをした。
「父さん、母さん、隆生。明日、玄家へ行こうと思います。私は、玄家の離れのお仕事をしに行きます。どうか心配しないでください。」
「姉ちゃん、嫌だよ。父ちゃんが治ったら三人で遊ぶって約束したでしょう。」
弟は泣き出した。母は隆生を抱きしめ涙を滲ませている。
「そうか。分かった。よくよく考えて決めたんだな。行くからには、得られる物は何でも得て真心を尽くし仕えなさい。娘はどうせいつかは嫁いでしまう。その日が随分と早く来てしまったと思う事にするよ。
私が体を壊したばかりに、すまない。蓮香、必ず幸せに生きるのだよ。」
父は涙声で言った。その言葉を蓮香はしっかりと受け止めた。
「はい、父さん。しっかりと何事にも真心を持って尽くします。早く体を治してね。母さんも隆生も体を大事にね。」
精一杯に微笑んで見せた。
「蓮香、あなたも体を大事に。どうしても辛かったら、家の事は気にせずに戻って来なさい。」
母は、しっかりと娘を見つめて言った。
「はい、母さん。きっと若様がよくしてくれるはず。真心で働けば、きっと善い事があるわ。」
母は、隆生と共に蓮香を抱きしめた。
翌朝、蓮香は一人で村を出て行った。街までの道は、そう遠くはない。子供の足でも十分にたどり着ける。幾度も母親と薬舗に通った事で、道もすっかり覚えていた。
街に着くと、頼りはいつもの薬舗だったので、立ち寄って番頭に玄家の場所を尋ねた。
「おや、いつも薬草を届けに来てくれる楊さんとこの娘さんだね。今日は一人かい? 一人で玄家へ行くのかい?」
番頭は不思議に思い、一人で来た蓮香に聞いた。
「はい。今日は一人です。玄家の若様に御用があって、会いに行きたいのです。」
蓮香は、はっきりと答えた。
「そうか。玄家はここからそう遠くもないんだけどね。今日が忙しい日でなければ、私が一緒に行ってあげてもよいのだけど・・・ あいにく今日は忙しくてね。今、道を教えるからね。気を付けていくんだよ。」
そう言って番頭は、表へ出て丁寧に道を教えてくれた。
蓮香は、聞き漏らさないようじっと黙って聞いていた。そして番頭が話し終わると要点を復唱し驚かせた。
「そう。その通りだ。これは賢い子だ。じゃぁね、気を付けて行くのだよ。」
「はい。番頭さん。ありがとうございます。」
蓮香は、しっかりと頭を下げお礼をすると教えられた道を復唱しながら歩き始めた。
一人で歩く街は、ちっとも楽しくなかった。今まで母さんと弟と来た街は、とても賑やかで楽しい所だったのに。今は蓮香を心細くさせる騒音の巣窟でしかなかった。ただただ、教えられた道を忘れないように、必死に玄家へ向かって歩く事だけに集中した。そうしてしばらく歩くと、教えられた目印の最後の大きな櫓に着きその先に大きな黒塗りの門が見えた。
その門が玄家の門だと確信した時、蓮香は立ち止まり足が動かなくなってしまった。少し怖くなったのだ。あの門の先に玄家が在り離れがある。あの門をくぐってしまったら、新しい生活が始まってしまう。これからは、あの門の中で暮らすのだ。そう思ったら、急に心細くなった。
〈あの門をくぐったら、もう引き返せない。そんな気がする。怖い。母さんや父さん、隆生が恋しい。今すぐ引き返したい。
でも、行くと決めて来たんだ。父さんに早く治ってもらう為に。隆生がお腹いっぱい食べられる為に。私が玄家で働かなければ。〉
蓮香は決意を固め一歩を踏み出し、玄家へと進んだ。
門の前まで来ると門番に
「あの・・・ 玄家の若様に御用があって参りました。楊蓮香と申します。若様に会えますか?」
勇気を振り絞って言い、若様から預かった青い蓮花の根付を見せた。
すると門番の顔色が変わり
「すぐにお取次ぎ致します。こちらで少々、お待ちください。」
と、門の中で待つよう内へ入れてくれた。
蓮香が緊張して待っていると、兼悟が現れた。やっと見知った顔を見て、蓮香は少しほっとした。
「あぁ、蓮香。よかった。来てくれましたね。一人で来たのかい?」
「はい。途中でお屋敷が分からず、母さんといつも行く薬舗で道を聞き一人で参りました。」
「それは何と賢いことだ。あぁ、無事に着いてよかった。さぁ、中へ。若様が離れでお待ちです。」
兼悟に案内されるままに、蓮香は屋敷の中を進んだ。
とても大きなお屋敷で、建物も大きく庭も広かった。しばらく進むと渡り廊下が現れ、その先にこじんまりとした八角形の建物が三つ連なった場所に出た。そこには、小さな蓮池と黒い太鼓橋、名残の花が咲く藤棚、樹木や花が幾つか植えられた庭があった。その太鼓橋の上に、若様の姿が見えた。
「若様―。若様―。お見えになりましたよ。蓮香が参りましたよ。」
兼悟が声をかけると、若様は笑みを浮かべこちらへ向かって歩いて来た。
「蓮香、待っていましたよ。来てくれてありがとう。これが君に任せたい離れです。」
春鸞が言うと、たまらず兼悟が
「若様。蓮香は一人で来たのですよ。途中、緑光薬舗で道を尋ね一人で玄家まで来たのですよ。」
と賢さに感心した事を話した。
「一人で? 蓮香、一人で来たのですか? それは賢い。ですが街は人も多く何があるか分かりません。これからは、一人で街へ行かぬよう約束してくださいね。」
「はい、若様。お約束致します。」
「ここが、お話した離れです。いかがですか?」
春鸞は再び歩き始め、蓮香を案内するようにして聞くと
「とても静かで落ち着いていて、素敵です。お屋敷が大きく立派で、お庭も広く少し怖くなりましたが、この離れはとても安心します。」
蓮香は、少し微笑んで答えた。
「それはよかった。私も、この離れが大好きでした。今は主を失い荒れてしまいましたが、とても美しく穏やかで心安らぐ場所でした。
今日からは、蓮香、あなたがここの主です。よろしくお願いしますよ。一緒にここに暮らし、お世話をしてくれる者を紹介しますね。さぁ、中へ。」
春鸞は、蓮香を八角堂の中へ連れて行った。
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