第69話 野分
年を重ねるにつけ髪の勢いがなくなってきている。伸びた髪を後ろで一つに束ねると、その髪の量が昔結ったおさげ髪の、片方の分量位なのに愕然とした。年の割には多い方ですよ、の言葉はプロの社交辞令だと、その時に初めて気づかされた。例え平均より少しばかり多そうだとしても、細くなってしまった髪がへたってしまっては、見るからに寂しいお婆さんに見えて、鏡の中の私に「ずいぶん年取ったんだねえ」と言って慰めてやっている。
ある日、合わせ鏡に写った後頭部を見ると、髪が真ん中から両側に分かれペシャンコにねてしまって、まるで地割れのように一本線を引いたかのように地肌が見えた。それは猛威を振るった台風が草原の草を押し分け、駆け抜けて行った後のような風景を思わせたので、側にいた娘に「まるで野分のようだね」と言った。野分(のわけ、のわき)という言葉に反応した娘は、直ぐに「のわけ前、藤村」と言ったので私もすかさず「のわけの停車場、石橋」と言って二人で笑った。
お分かりと思われるが「夜明け前、島崎藤村」「夜明けの停車場、石橋正次」ともじりあってふざけたのである。だが娘には「題名はうろ覚えで分かるかも知れないけど、古いからメロディーはきっと知らないでしょ、そして停車場なんてもう死語かも知れないね」と言いながら、ノスタルジックな味わい深い、昔の田舎の古い駅を思い出して懐かしんだ。そして停車場にいた父の姿を想像した。
以前(第21話)にも書いたが、私の兄がA中学(後のA高校)に入学した時に、近所の人達が提灯行列で祝ってくれた。美智子上皇后のご成婚の時に、正田邸の近所の方々が提灯を手に行列でお祝いしたあの情景が、私の家の側にもあったのである。そうやって入学した兄だったが、残念ながら停学を食らう事態になってしまった。クラスの友人が早稲田大学に進学して、小説家になりたいと言ったことで退学になったので、その理由が理不尽で納得がいかないと、退学取り消しを校長に直談判したのがいけなかったのだという。
日本の敗戦色も濃くなった頃だったから、そんなご時世に小説家などと夢見るのは、軟弱者だと捉えられたらしい。生真面目で律儀な父としては停学は不名誉なことだし、将来を嘱望し喜んで提灯行列で祝ってくれた人達に申し訳ないという気持ちからか、いっそ退学をしてお国の為に働けと、兄の軍隊入りが決まったのだった。
この軍隊入りした経験などを綴った、兄の手紙のコピーを貰ったことがある。姪が小学生の頃、授業で戦争体験者から話を聞くという課題があり、兄に頼んで書いてもらったものだった。当時の兄は特養ホームの園長をしていたが、おそらく皆が寝静まってから、忙しなくペンを走らせた様子が伝わってくる。細かな文字でびっしり書かれた何枚もの便箋は、姪達に戦争の悲惨さを知らせようとしているようだった。
その文章の中で、自分が軍隊に行くようになった経緯や、兄から見たその時の父親の心情が書かれてあった。不本意ながらの志願である息子を、入営地に送って行った時の様子に、私は父がどんな気持ちだったかを思い、涙が流れて仕方なかった。佐渡から船に乗り汽車を乗り継ぎ、まだ少年である息子をひょんなきっかけで戦争に送りだすのだから、どんなにか心が痛んで苦しかったことだろう。
コピーを失くしたので汽車を待った駅の名は思い出せないが、その駅舎には火の気が全くなく寒さは酷いものだったようだ。兄と同じく目的地に向かう人も何人かいて、誰もがみな寒さに震えながら汽車の来るのを待っていた。そこで父はせめてこれから入営する数人にだけでも、何とか少しでも暖が取れるようにしてもらえないかと掛け合ってみた。何度頼んでみてもダメだったので、父は兄の身体を休めさせ、せめてもの足しにと自分のコートを脱いでかけてやったそうだ。兄が懸命に断っても大事な身体なのだからと無理やり押し通して、自分は寒さの中でグッと辛抱し続けていたという。
今だったら、よほど停電でもない限り駅舎はぬくぬくである。「夜明けの停車場」という曲がヒットしてその曲を聴く度に、停車場という古い呼び名に、何十年もの昔の暖房のない駅舎で、コート無しで寒さに堪えながらいる父の姿を想像してみたものだった。それは雪国新潟の冬である。終戦間近の時代の冬の寒さは、雪国とは言いながらも暖冬で雪の少ない、今の時代の新潟とは雲泥の差の寒さである。兄は父親の親心と父のコートの二つの温もりに包まれて汽車を待ち、父もまた凍えながらも何とか息子を送り届ける役目をやり通すことが出来た。その情景が頭をグルグル巡って、いつも歌詞とは全く無関係で「夜明けの停車場」を聴いていた。
すっかり白髪勝ちになった野分の頭から、こんなエピソードに辿り着いて父や兄を偲んだが、娘が言った「のわけ前 藤村」に「野分 源氏物語」と私が続けたら、父の思い出に耽ることもなかっただろう。「のわけの停車場」と何でも直ぐにもじって遊びたがるローバで良かったなと思う。
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