第63話 大工さん
大工さんになりたかった。将来の夢とまでは言わないが、憧れたことがあった。小学生の頃、家の前の道路の拡幅の為に、通りに面していた我が家の庭の松の木が、私の小学校の校庭に移植された。枝ぶりの良さに両親は残念がり、私も庭で遊べなくてつまらなかったが、代わりに通りに面した平屋の部分に、二階が増築されて嬉しかった。
工事が始まると、その仕事を見るのが楽しかった。私は小さな頃から仕事場を覗くのが大好きな子で、道路工事を遠くから見たり、畳屋や建具屋、瓦屋、鮮魚店等々の店先で、仕事をしているのを眺めるのが好きだった。その中でもカンナかけや釘打ちする大工さんの仕事に興味津々だった。
仲良くなった大工さんに学校から帰ると、二階の現場に向かって「トクさ~ん」と声をかけると、「おぅ帰ったか、お帰りぃ」の声を聞くのが楽しみになった。そんな声掛けが何日か続いた頃、完成した部屋を見た時は、大工さんって凄いと感動した。
小学校の夏休みの宿題で、私は家の模型を作ることにした。方眼紙にそれらしく線を引いて間取りを決め、工作用の細い木を切って柱を立てた。トクさん達の仕事を思い浮かべて真剣だった。しかし、努力嫌いな私の熱意は次第に薄れて、夏休みが終わると「上棟式までで施工中止になった家」の提出となった。翌年は張り切ってみたものの、ボール紙で壁を作るまでで終わった。小さな流し台やコンロを作り、襖などの建具や箪笥なども設置しようと計画しただけで、今度もまた私は優良工務店にはなれなかった。
家作りに興味があったからかは分からないが、小さな頃から奥座敷の畳を利用して、ここが玄関でここが茶の間で寝る部屋はここで・・と、一人で空想して遊ぶのが好きだった。部屋の隅に四つ折れ屏風で半畳程のコーナーを作り、そこを寝室と決めて座布団を敷き、寝たり起きたりしてよく一人お家ごっこをして遊んでいた。
小学校の学芸会で「三匹のこぶた」の舞踊に選ばれた。三匹のこぶた役は教頭先生とPTA役員の娘さんがなり、私達女の子六匹は二人一組で大きな看板のようなものに、藁や木やレンガの絵が描かれたものを持って登場し踊った。大工さんに憧れた私はここでは立派に、レンガの家を建てて念願を果たすことが出来た。
このこぶたの役の説明に先生が家に来た時、私の姿が見えなかった。夕方になっても戻らない私を皆で探すと何のことはない、奥座敷の私の立派なお家の屏風で作られた寝室で、猫のように丸くなって座布団の上で熟睡していたのである。
さて、舞踊「三匹のこぶた」だが、出来上がった衣裳合わせをした時に、一匹のこぶたさんに困ったことが起こった。可愛いしっぽがお尻にじゃなくって反対側、ちょうど前の大切な処に付いてあら大変!女の子だもの、そりゃぁ泣いちゃうに決まってるでしょ。夢を打ち砕く悪質施工業者のようだ、何と憎らしい仕立て屋だ、と怒りが爆発してもよさそうだが、かわいそうに皆で大笑いした。そんなエピソードがあったのだが、大工さんの話にコレって、何か意味はあるのかと聞かれれば・・ははは、いやこれは、なぁにほんのおまけだね。そう、トン間な話なんですよ。
夫が四十代の初め頃に家を建てることになった。自分の望むような家にすればいいと私に任せてくれたのはいいが、あれこれ考える暇なく急かされて、やっつけ仕事のような希望の図を工務店に提出した。本来なら住宅展示場などに出かけたり資料などで研究して、大工さんになりたかった私の本領を発揮するところだったのに、と悔しい思いをした。
バブル時代の悪いところで、銀行はいくらでも融資してくれるのをいいことに(積極的に借りてくれと頼まれた程だった)夫は大きな家を望んだ。そろそろ建材が高騰しだした時でもあり、義父母の家もあることだしと、大きなものは不要だと、私は二階建ての控えめな図にした。すると夫はいずれ同居の時のことも見据えてと、三階建てを希望した。費用を考えて三階部分をこっそり消しゴムで消す私に、夫はまた三階建てをと迫り、遂にはペントハウスまでついた、高さも値段も高い家が出来上がった。
その家を建てる前に横浜の夫の両親の家から独立して、東京で会社の側の建売住宅を買って住んだことがあった。木造二階建ての3DKの小さな家だった。子供達が少し大きくなった頃、二人で使っていた部屋を半分づつに分け、其々の個室のようにしてやろうと考えた私は、大工さんになった気分で頑張った。
電気屋さんに頼んで、先ずは六畳の天井にある電気を二つに分けて、其々の個室?部分の天井に照明器具をつけてもらった。次に二段ベットを部屋の真ん中に設置し、其々の個室側から布団に入れるように仕立てた。長女の個室には机やピアノもうまく配置できたし、長男の個室にも机とタンスがうまく収まった。
更には、押し入れに棚を作って、沢山の物を収納出来るようにしたり、階段の空いてる部分にカラーボックスを何段も重ねて収納場所とし、階段の吹き抜け部分の半分程に板を張り、そこも収納場所に作りあげた。四十年ほど前の若きママさん大工は、思う存分に腕を振るいながら、その家で十年近く楽しい時を過ごした。
それから新しい家には二十年ほど住んだが手放す事態となり、引っ越し先は広々とした一軒家から半分以下の3LDKになった。我ら夫婦と義母、次男とでそこに住んで暫くすると、思いがけず幼い子を連れた娘が出戻って来て、我が家は急遽六人のシェアハウスとなった。
そうなると今度もおばさん大工の出番である。釘打ちは禁止なので本棚を上手く利用したり、押し入れに棚を作ったりして、大人数の荷物の収納を工夫した。そこでも十年ほど暮らすと、マンションの建て替えで仕方なく現在の住いに越してくることになったのだが、いずれ我ら夫婦もいなくなることを考えて、敢えて広い家に越そうとせず今度も同じような間取りに決めた。
それならば狭い住まいを何とかしようと、七十を超えたお婆さん大工が、これが最後の仕事と腕を振るったのは言うまでもない。釘を打たずして棚は作れるか、押し入れを効率良く使う工夫は?と知恵を絞った。孫も大きくなり今では大人五人でひしめき合って暮らすこの家だ。義母もいなくなったし、やがて我ら夫婦もいなくなる。残った者達はどんな住まいでどんな暮らしをするだろう。そう思いながらの仕事だった。
こうして今までの住いを振り返ってみると、横浜の家も夫の建てた家もみなゆとりある良い家だったが、私には若きママさん大工の活躍した、あの家が一番思い出に残っていると言える。夫が懸命に働いた証の家を出る時は、夫には申し訳ないが私は手放す辛さを感じることはなかった。今は福祉施設の職員の寮となっているその家を、何度か見ることがあっても何の感慨もないのは、果たして大工仕事をする私の出番がなかったからかと思ったりもする。
そんな思い出話に娘が、住宅模型を作る仕事のことを教えてくれたが、高齢の私には時すでに遅しであるし、「上棟式までで施工中止となった家」を平気で作るようでは無理である。更に言えば、片づけ嫌いの私の仕事は箱物行政並みの作りっぱなしで、有効活用されてないのが現状である。しかもこれからはもっぱら断捨離に勤しまなければならない私なのに、ガラクタばかりを前にして、青写真や作業工程表すら書けないでいるのである。
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