第58話   お手提げ

「やっぱり、つまるところはお手提げなんだね」

またこの台詞か、と私は心の中で呟く。そしてまだそんなことに囚われているのかと、娘が可愛そうでならなくなる。「私は暇な専業主婦だったんだから」という慰めの言葉を、私は今までに何回言ってきたことだろう。「お手提げですよ、何たって」とばか笑いしながら言う時はいい。でも話が真面目なことになった時には、そのお手提げが娘の心をチクチクと痛めていることが私にはよく分かる。


 孫が保育園に行くようになった時、娘は張り切って必要な持ち物を取り揃えた。喜びそうなキャラクターの模様の物にしたり、一つ一つ名前を書いたりする細かな作業は、仕事で忙しい娘には面倒なことではあったが嬉しい作業であった。私は少しばかりの手助けはしたものの、初めてのことであるからと、なるべく母親の仕事にさせて見守ることにした。


 持ち物のリストの一つに手提げ袋があった。娘がいまだに拘っている「お手提げ」である。私には何の拘りもないせいだろうか、どんな手提げ袋だったか全く記憶にない。孫のそれはぼんやりとでさえ思い出せないが、私が娘の幼稚園入園に備えて作ってやった手提げ袋は、五十年近く経った今でもはっきり脳裏に浮かんでくる。


 その手提げ袋には民族衣装の少女が、オランダの山々や風車をバックに立っている絵が刺繍してある。それは細かな何百何千の、クロスステッチが布一面に刺されていて、立派とは言えないが見るからに時間がかかったことだけは分かる物だった。技を要する訳でもないただ刺した針の数の多さを、まるで母親の愛情の数と思い違いをしているかのように、あの刺繍された手提げ袋を思い出しては、自身の心をチクチク刺している娘が気の毒で仕方ない。



 娘が孫を連れて出戻ってきたのは、孫が三才になる少し前のことだった。ちょうどその頃、夫の経営する会社が倒産して、亡き義父や夫が五十年かけて作り上げた全財産を失って、義母と次男と我ら夫婦の四人で、マンションを借り新しい生活を始めたばかりのことだった。


 娘親子の同居は予定外だったが、都合よく広めの居間が母子の居場所となって、彼女らも同じように、ここで新しい生活が始まった。子供を片親にしてしまったことや、実家に世話になるという負い目からだろう、娘は気を張り詰めながらがむしゃらに働いた。


 経済的なゆとりのない我らは、孫の為に何がしてやれるかと考え、夫や次男はなるべく男親の出番の代役が出来るように、私は少しでも時間に余裕のない娘の手助けが出来るようにと、みな一生懸命だった。孫は運よく近くの保育園にも入れたし義母の認知症もそれ程酷くはなかったので、窮乏生活のわりには楽しく暮らしていけていた。


 私が育った頃の世間では、何かあれば「やはり片親の子だから」と言われるのが常だったから、そんな冷たい風に母子が苦しめられないかと、心配ばかりの私だった。娘も余計なことは言われないようにと懸命に働いたし、学校の行事やPTA活動にも労力を惜しまなかった。そんな姿を見ては、倒産しなければ娘にこんな思いはさせずに済んだのではないかと、時々悔やんだりした私だった。



 孫は認知症の義母の良い遊び相手となり、保育園でもお利口で良い子と評価され、学校へ行くようになっても友達と仲良く遊び、ごく普通の男の子に育ってくれたと娘も私も喜んでいた。それがいつの間にか、我がままで内弁慶な自己中の子供に成長していった。何故かと考えればいとも簡単なことで、それは片親にしてしまった引け目から、どうやら皆で甘やかし過ぎたのが原因のようだった。



 中学三年生の頃、孫は学校へ行きたがらなくなった。何が原因で何に不満なのかと尋ねても答えてはくれないから、家族にはなす術がなかった。子供が不満を表す度に、片親のせいか、子供への愛情が足りないからか、等と娘は悩んだ。悩む時には必ずあの刺繍の手提袋を思い、自分が母親から与えられた愛情と比べて、不足しているのではないか、と責められる思いをしていたようだ。


 ある日、登校拒否の意思を示すためか、孫は制服をカッターで切りつけた。私は平静を装って「一太刀あびた背中の傷のようだ」と言って、手術で縫合をする女医を気取って「傷口は分からなくしてやるから」と、細かい縫い目で裂けた部分を縫い合わせてごまかしてやった。


 二十センチ近くの縫い繕われた傷を負った制服で、仕方なく登校した孫も、とうとう卒業近くになった頃には、登校もせず暴れて家族を不安にさせた。叫ぶような声を聞き、怒りをぶつけるかのように机や家具を叩く音を聞く度に、愛情のバロメーターと決めつけた「手提げ袋」の呪縛に、勝手に苦しむ娘だった。私も弱った心臓の爆発に恐れながら、何が不満なのか、何に怒っているのか、教えてほしいとそればかり願った。



 平穏になった今、そんな思い出話をする度に娘は「やっぱりお手提げなんだよ」と必ず言う。娘にとって忙しさと裁縫が苦手という理由から、手作りの手提げ袋ではなかったことを悔いている。反抗的な態度や我がままが過ぎたりする度に、愛情不足なのだろうかと悩み、自分が両親から受けたそれと比較してしまうようだった。しかし、そうやって愛情の度合いを測らなくても良い筈だ。それよりも子供の為にと父親の分まで働き、愛情を持ってしっかり子供と向き合っていたではないか、と私は力を込めて言ってやる。


 思えば娘は本当に、遊びでも父親の役目を担っていたと言えるだろう。河原に出かけてよくキャッチボールをしたり、サッカーボールを蹴ったり、バドミントン等の相手をしてやっていた。仕事で疲れていても頑張っている姿に、河原で見ていたホームレスのおじさんが、よく励ましてくれたと笑ったこともあった。誰の目にも娘は父親役も務める頑張り屋だったのである。


 それなのに、私の手提げ袋にそんなに責められてどうする、と私は思う。あの刺繍の細かさは夫の庇護の下で、のんびり暮らしていた母親だったから出来ただけのことだ。孫のはどんなものだったかは思い出せないが、それは子供を守らなければと一生懸命に頑張った娘の選んだ、愛情がいっぱいの証の手提げ袋だ。今の人達がよく言う言い方を真似て「手作りじゃないですけど、何か?」とでも言って胸を張ればいい、と私は言ってやりたい。


 記憶力に乏しくなった私の頭には「明日の用意は・・お手提げと・・」と嬉しそうに手提げ袋に物を入れている孫の姿が浮かんでくる。小学校高学年になっても「お手提げ」と呼ぶ孫に「手提げにおが付いてお上品ですこと」と二人でよく笑ったものだ。



 親の責任は二十歳までと決めて頑張ってきた娘に、やっとその時が来た。子供の為と言い聞かせて職場や色々な場所で、言いたいこともグッと押し殺してきた。どこで子供が世話になるかも知れないからと我慢し続けた日々も、もう終わらせればいい。そして何よりも愛情のバロメーターだった「お手提げ」の中には、沢山の愛情を詰めこんでやったんだと大いに誇ればいい。


 この頃ではその「お手提げ」の後を継いだ二代目のものが、ローバと一緒に散歩する良き相棒となっている。




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