第49話   車・職・住

 車には全く関心がなかった私だったが、車に夢中の甥っ子には、チラシに載っている車のほんの一部を見ただけでも、名前を言い当てることができる特技があった。幼くてろくに車名もはっきり言えない程なのに、数えきれないほどの車の名前が覚えられた。こんな幼い子にも憧れだった車も、田舎では写真でしか見たことがなく、都会で多くの車が走る風景を見たら、どんなに喜ぶだろうねと家族みんなで話した六十年近くも昔の思い出だ。



 大学の落研で先輩だった私の夫は、学生でありながら自営の会社の有力な戦力の一員だった。たまに研究会へトラックでやって来ることがあったが、「なんだトラックかよ」と仲間達の反応はちょっぴり冷やかだったようだ。家には車好きの弟が選んだ乗用車もあったが、夫はこのトラックが気に入っていた。工場で出来上がった製品の納品に都合よい1トン足らずの大きさのトラックは、その頃からずっと夫の相棒であった。


 初孫の誕生を機に同居することになり、義父は横浜に家を買った。小高い丘に出来た新興住宅地にある分譲住宅では、色々な所から越して来た人達ともすぐに親しくなり、お互いの家にも行き来するようになった。義母と私に構われるのが楽しいのかよく家に遊びに来ていた小学生の男の子が、ある日「僕のお爺ちゃまは会社の上から5番目に偉いんだよ」と言った。その会社名を聞いてみれば日本中の誰もが、いや世界でも名の知られる大会社でびっくりしてしまった。



 付き合いが深くなるうちに、我が家の両隣は某テレビ局のプロデューサーや鎌倉八幡宮傍の老舗のお店の経営者だったり、向かいは長年百科事典の校閲をしている人でその隣は東大の先生、はす向かいには号いくらの値が付く高齢女性の画家、その隣はセメント会社(当時の大企業)の重役で、その先は大手の銀行マン、等と分かってきた。錚々たる方々の中で何故か気後れすることなく、仲良くお付き合いしてもらっていたごく平凡な超零細企業の我が家だった。


 今だったら隣は何をする人ぞで、近所の住人がどんな人かは、個人情報という言葉で知ることは出来ないし無関心なのが普通だ。しかし五十年もの昔では今と関心事にも違いがあってか、どこそこの誰それはどういった会社にお勤めしている、と話題に上ったものだった。


 それと同じように、どんな車に乗っているかというのも、関心事の一つでもあったようだ。外車やスポーツカーなどはお金持ちのものと憧れの的であったし、女性とドライブするにもカッコいい車が欲しい時代だった。そのせいか知らないがこんな人がいた。いつものように近所の人と楽しく話をしているところに、最近越して来たと思われる人が入って、何軒かの家の駐車場にトラックが止められているのが不満だと話すのには驚いた。


 この住宅街の景色には相応しくないのだそうで、我が家にとって大切なトラックも嫌われたものだなと皆で笑った。きっとこの人は、いい学校に行っていい会社に入って大きな家に住んで・・という価値観の環境下で過ごした人なのではと思った。今ではおかしなことと笑われるかも知れないが、衣食住ならぬ車職住が関心事である人が少なくなかった時代だった。


 通勤時間が勿体ないからと、東京にある会社の近くに夫が家を建てた。町工場の沢山ある地域柄で、トラックが駐車場にあっても普通の景色だった。しかしここでも「この家にはトラックじゃなくて、外車置いたらどう」と言う友人がいた。やはり「車職住」をよく話題にするハイソ(もう死語?)に関心ある人で、毛皮も薦められた時には「間違えられてマタギに撃たれたら困るよ」と断ったが、ちょいとばかりの皮肉な洒落は彼女にはうけなかった。


 

 私達親子は毎週末になると横浜の家へ泊りがけで出かけた。夫の実家によくも毎週欠かさず行くものだと、友人には呆れられたが何年続いただろうか。子供達は祖父母の家で好きなように遊び、私は義母と沢山お喋りして夕食や子供達のお風呂も済ませ、帰宅したらすぐ寝かせられるようにして帰る、本当にいい週末の行事だった。


 しかし楽しい毎週の行事だったが、だいぶ後から長男から聞いて驚いたことがある。我が家が何の不安も感じることなく暮らしていた時、世間の何処かでは不況の風が吹き荒れていたが、我が社は零細企業ながら、大企業の親会社のお蔭で助かっていた。世間では倒産が相次ぎ、一家の無理心中のニュースもよく報道されていた。


 それで長男はこのニュースに心を痛め、自分の身にも起きるのではないかと心配していたそうだ。「お婆ちゃんちに行くよ」と乗った車で、ニュースにあったように何処かで車を止め、窓に目張りして排ガスを・・と想像することがあって、そうなったら自分は死にたくない!と逃げ出そうと考えていたそうだ。


 そんなことを考えていたなんてバカみたい、と皆で笑った時に、ふと高校時代に毎日一緒に登校していた友人のことが思い出された。どんな事情があってのことかはよく知らないが、彼女は父親と子供を車に乗せて海に突っ込み、心中を図ったという話を聞いて驚いた。長男が自分は死にたくないと逃げようと考えたように、彼女の父親も自分は死にたくないんだと詫びながら、懸命に脱出したと聞いた。

憧れやステータスの対象となってきた筈の車なのに、皮肉にも彼女は死に場所として選んだのかと思うと胸が痛んだ。

 

 

 さて、車職住などと駄洒落てみたその三つも、残念ながら我家にはもう無縁のものとなってしまった。夫は高齢で病気持ちの身で無職であるし、義父が起こして夫が後を継いだ会社も廃業して、技術も多くの機械も工場も、車も家も全てが無くなってしまったからだ。仕事が楽しくて休みが辛い程の夫は暇を持て余して日々を過ごしている。



 現在の燃え尽きてしまったような夫になる前のほんの数年間。夫はわずか数台の機械とトラックを持って、倒産した会社をもう一度再建させようと頑張ったことがあった。仕事で付き合いのあった方のご厚意で、工場の片隅を仕事場にと提供してもらったのだが、そこへ通うには東京アクアラインを利用するので、通勤に時間とお金がかかるからと家族はみな反対した。


 千葉へ通ってまで採算の合うものではなかったが、皆は夫の頑張りに応援しようと思わされた。それまでも夫はよく私に仕事の話をしてくれ、分からない私にも機械や図面を見せて熱く語る夫の姿は魅力的だった。仕事場も広げ機械を買い揃え、従業員がいたかつての規模とは違って、たった一人で僅かな機械を操って仕事をする。その様子をたまに見に出かける時、助手席の私はそれを昔と同じ熱量で、アクアラインを走るトラックの中で何度も聞かされた。規模は小さいながらも出来る仕事を沢山こなし、いつかは又こんな風に・・と夫が夢を語る時、トラックの中は会議室であり、晴れた日に遥か遠く車窓から見える富士山は、夫への力強い応援団のように思えた。


 辛抱強く頑張っていた時に、皮肉にも夫はガンを患ってしまった。二日続けての二度の手術は夫から全く生気を奪ってしまい、二年近くもの間私は元の意欲的な明るい夫を探し続ける日々を送った。夫の夢を育んだ小さな借り工場や、私に夢を語り続けた会議室のトラックも、今度はもう完全に消失してしまった。


 住まいや工場、長年培った町工場の技術、相棒のトラックや楽しい思い出を乗せた車たちも、そして名残りの運転免許証すら返納してもう何もない現在。我が家の車職住は全て雲散霧消となったが、それらは良い思い出となって、家族みんなの心に残るものになれた。


 夫も私ももう人生の幕が下りようとしているこの時期に、持っている物は何もなくとも終わり良ければ総て良し、と言える幸せに感謝する「ローバの充日」なのであります。


 

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