第48話   手術

 とうとう手術することに決まった。三度のお産以外に入院したことのない私だったから、初めてのことに少しばかり気分が浮かれてしまった。病気を何だと思っている、なめるんじゃない、浮かれるだなんて不謹慎ではないか、と自分で自分をたしなめてみたりもしている。そして、これではまるで義母と同じではないかと、病気に対する義母の思い出を手繰ってみたりしている。



 義母は楽天家で物事を何でも良い方に良い方にと考える人だった。私の娘に言わせれば典型的な「誠におめでたい人」だそうである。その義母のおめでたいと言われることの一つが、自分は丈夫で病気一つしたことがない、と大威張りすることだった。処方された血圧の薬を飲んでいるということは、れっきとした高血圧症という病気なんだよと言っても認めない。ものの見え方に異常を感じて診てもらい、軽い脳梗塞ではとの疑いで薬を飲んでいた時も、眼鏡の度が合わないだけなのにと不満でいっぱいだった。甲状腺が腫れて治療を受けた時も、先生の質問に「よく昔から出目だねって言われたことがあったの」と楽しそうに答える義母だった。


 今思い出しても一番おかしいのは、盲腸で入院してそれが癒着したとかでもう一度入院したとさんざん私に聞かせているのに、盲腸は病気には入らないから病歴はゼロと言い張る自信である。どうやら虫垂炎という病名は、義母の辞書にはなかったらしい。


 皮肉なもので後年になって認知症という病名をもらったが、それでも自慢の病気とは無縁という口癖はいつまでも続いていた。ある時診察を待っている義母を、近くにいた同年齢と思われる人達が話の仲間にと誘ってくれた。皆の話題は病気のことで、幾つもの病気で大変だとか、大病をして苦労をしたとかいう言葉に、義母は「私って丈夫で一度も病気をしたことがないの、だからホントに病気で寝てみたいくらいで・・」と嬉しそうに話した。すると最近病気がちな高齢の母親を心配する娘さんの家に引き取られて来たと話す人に「そがんことは言わんとよ」と注意されてしまった。


 認知症で仕方ないこととはいえ、病気の人には申し訳ない発言であった。相手の方には私が義母へ一生懸命に目配せしている様子から、何とか分かってもらえたから良かったが、義母の健康自慢にはこんな弊害があったなあと思い出しながら、自分の初めての手術や入院に対する心構えを反省した。



 私の婦人科での手術は前々から薦められていたものだったが、命にかかわるものではないからと言い訳しながら、年に三回ほどの処置をしてもらっているこの状態が、何とか死ぬまで続いてもらえないものかと、虫のいいことを考えて今日まできていた。しかし人生百年時代に向けて、健康な今のうちにしておく方が良いと説明され、「どう見ても六十代後半ですよ。とてもしっかりしているし・・」と煽てられて半ば急かされるように、そのまま直ぐにその手術の出来る病院に予約させられてしまった。


 紹介された川崎の病院は交通の便が良く綺麗で、先生もスタッフの皆さんも好印象でとても気にいってしまった。十月の下旬に手術が決まると、五泊六日の入院中は音楽や朗読を聴いて過ごそう、カクヨムでお気に入りの作品をたくさん読もうか、初めての入院の経験をエッセーに書けたらいいな、などとまるで旅行気分の私だった。


 しかし術前検査の結果で血液の状態がサラサラ過ぎて、この状態で手術をすると手術中に血が止まらなくなる危険があり、手術が出来ないと言われた。サラサラなのはいつも服用しているリクシアナ錠(血液をサラサラにする薬)のせいではないだろうか。かかりつけの先生からは、薬は一時的に手術の前日から止める位でよいだろうと言われているけれどと言ったら、そんな程度のことではないから血液内科で詳しく診てもらうようにと勧められた。


 馴染みのない血液内科とはどんな病気を調べる所なのだろう、と思ってスマホで調べてみると、白血病という病名やら出血が止まりにくい、あざや内出血が出来やすい、などの文字が次々と目に止まった。更に血が止まらないという言葉から、血が止まらなくなる病気とは何?に進んでいって、血友病という病名が気になった。


 呑気に考えていた私も、さすがに白血病や血友病などの文字にはドキッとさせられてしまった。重い病気と闘うには十分な備えがないうえに、夫の病気のこともある。娘に負担をかけてしまうし、皆に心配されるのはもっと辛い。そんなもやもやした気持ちで四日後の診察の日を待った。


 当日、大きな病気を覚悟していた私は、検査データを見た血液内科の先生の「これはリクシアナのせいでしょう」とサラッと言われた言葉に拍子抜けしてしまった。だがこれで心配なく手術に、と思っていたところ、暫く薬で落ち着いていた不整脈がまた起きるようになって、急きょ心臓の手術を先にすることになってしまった。


 心臓のカテーテル手術も前に予定されていたところ、コロナで延期となりその後は脈拍を抑える薬で状態は落ち着いていて、手術は延び延びとなっていたものだった。結局はどちらもあわよくば死ぬまで手術をしないで何とか凌ごうという、私のずるい思惑通りにはならなかったということだ。



 つい先日七十六歳の誕生日を迎えた。思えばこんな年齢になるまで一度も病気で入院することなく過ごすことができた。これには神仏だけでなく、世の中のあらゆるものに感謝を申し上げたいものだと心から思う。それなのに、病気知らずの私ときたら健康な体に慣れっこになって、今まで感謝の気持ちが足りなかったようだ。もしもこの「サラサラ問題」がなかったらどうだっただろう。「リクシアナ錠のせいとは簡単に言えないサラサラ状態」という紛らわしい数値とやらが示されることがなかったなら、血液内科という言葉を聞かされることがなかったなら・・私は自分の一度も入院したことがないという変な自信から、病気で不安な気持ちになる患者さんの気持ちを知ることはなかっただろうと思う。


 手術をするという事態を甘くみて、呑気に旅行気分になった私は、まるで「そがんことは言わんとよ」とたしなめられた義母と同じではないか。義母は認知症で仕方なかったという事でもあるが、私の思い上がりは大いに反省しなければならない。不況になって暮らし向きが厳しくなり、窮乏生活をするようになって初めて、生活苦にある人の辛さがわかったように、もしかして大きな病気に罹っているかも知れないと、真剣にスマホで調べるような事態になってやっと、ほんの少しだけ病気で不安な人の気持ちが分かったような気がした。


 平凡ではあるが何の苦労もなく過ごして来た日々が、死ぬまでずっと続くものと思っていたがそうはいかなかったし、生涯病気知らずでいける訳などないことも思い知らされた。今回手術をし入院をすることになったのは、身を持って病に苦しむ人の気持ちがわかるようにとの、天からの思し召しのようなものだと思えてきた。ならば人生で学ばなければならなかった残りの課題に取り組もう、などと少しばかり気負っているローバなのであります。

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