第36話  優先席

 70才になった時、シルバーパス取得の知らせが届いた。必要ないと思っていたが、ちょうどそんな時に夫がガンの手術をした。自転車で20分程の病院へは、日に何度か往復することもあった。着替えを届けたり病院からの急な呼び出しにも便利な自転車だったが、雨の日や風の強い日などでは無理なこともあった。


 病院はバスで行くとバス停3つの所にある。都内片道220円、一回行ったら440円かかる。そこでふと思い出したシルバーパスを買いにバス会社に行った。年金生活者にとって1000円也のパスはとても有り難い。病院へ3回も行ったらもう元が取れる。ありがた過ぎるので、元が取れるなどという表現は申し訳ないと思うくらいだ。


 夫は何処へ行くにも車に乗り、めったにバスを利用しなかったし、たまに一緒に乗った時でも、座席に座ったのを見たことがなかった。空いているのだから座ったら、と勧めても素直に座ったことがない人だった。


 座席を勧められても座りたがらないのは義母も一緒だった。気遣ってもらってのことなのに、ニッコリ笑って遠慮してばかりの義母。人の厚意には絶対に喜ぶ筈なので不思議に思ったが、座るとズボンの膝が出るから嫌なのだと言う。正座するわけでもないのにと、座りたがる私はお洒落に気を使う義母に、いつも感心させられてばかりだった。


 そんな義母も数年前に亡くなった。元気いっぱいだった夫も大病してからはすっかり弱々しい人になり、運転免許証を返納してからは、よくバスを利用するようになった。 私は運転手さんにパスを見せながら「お願いします」と軽く会釈して、乗り込むとすぐに優先席を目指す。夫も私の後に続いて、今迄は殆ど座ることのなかったのに、あっさりと座るようになった。


 私が利用する時間帯のバスは殆どが高齢者だ。労災病院からJR駅の区間は、通院で利用している高齢者達でいつも混雑している。聞こえてくる病気の話題には自分もそうだなと笑えたり、参考になり有りがたいと思いながら聞いている。


 そんな会話のところどころで、「だからぁ・・いいじゃないの・・ほら」と注意をするような声が聞こえて来た。「折角なんでしょ・・どうしてそう・・」と途切れ途切れの言葉が気になって見てみると、娘が高齢の父親に意見をしている様子だった。

「何でそうなの、人の厚意は素直に受けるものよ」「そんなんだから、若者が席を譲りたがらないのよ」と娘が言うと「なに言ってんだ。座りたくねえんだもん、いいじゃないか」と父親が反発している。


 私は微笑ましい親子の会話がとても嬉しかった。席を譲って貰ったら座ればいいものをと思う娘さんに好感が持てた。そして、以前の夫のように座りたいと思わない人もいれば、義母のようにちょいとばかりの拘りによって、座りたがらない人もいることを教えてあげたいな、とお節介な心がうずいた。


 その父親にもやがて夫のように、空席をありがたく思える時が来るだろう。「ご親切にどうも、私はけっこうなので」と、そのたった一言がなかなか言えない人もいるし、私のように嬉しさが隠せないで、一言どころか余計なことまで言ってしまう人もいる。


「えっ、私に?よろしいんですか、まぁ嬉しい。有難うございます。」

「膝が痛くてね、立ってるのが辛かったの、良かったぁ、ホントにありがとう、助かったわ」

そんな具合の私は、しつこいと娘に何度も注意されている。こんなにクドクドと車中に響き渡るほどの声で、まるで何かの喜びの会見のようだとも言われる。嬉しがり屋の私のいけないところだ。


 席を譲られて喜んでばかりの私だが、時には反対の場合もある。空席があったとしても、足取りのおぼつかない方が乗って来ると、直ぐに立ちあがり「よろしければどうぞ。私が後ろの席に行きましょう」とさりげない風を装って、前方の優先席からずっと後ろの座席に移動する。こんな時に、もしよろけて転倒したのでは、席を代わられた方も困るだろうし、ヨタヨタ歩いているくせに出しゃばって、と笑いものになりかねないので、とても慎重に歩く見栄っ張りの私である。


 そんなお節介で見栄っ張りな私が、特に乗り物の中で心がけていることがある。ヘルプマークを付けた人がお手伝いを必要としていたら、さりげなく手助け出来たらいいなと思っている。赤色のこのマークを知ったのは3年ほど前で、若い男性のリュックにぶら下がっていたのを見かけた時だった。


 それは真っ赤な下地に白で「+」と「♡」の模様が描かれてある。諸々の理由から手助けを必要としている人が、外見からでは分からない場合でも、このマークから気付いて貰える為のものだ。例えば座席が必要ではなさそうに見える人でも、難病や障害のある人だったり、妊娠中の女性や、内部障害(心臓・腎臓・膀胱等々)のある人達が席を利用したいとか、手助けを必要としているとかを周囲の人に伝える為のマークである。


 調べてみると随分以前からあるものらしいが、あまり周知されていないようだ。因みに「青いハートマーク」をマスクに描き、「サポートできます、私に声をかけて下さい」というものや、緑色のヘルプマークなどもあるそうだ。


 高齢の私に優しい優先席と1000円也のシルバーパスに感謝している私だが、願わくば優先席は必要なしと言っていた、生きのいい頃の夫に戻って一緒にお出かけできたなら、などと密かに思ってしまうローバなのであります。

 



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