第37話  そうか、もう・・

「そうか、もう君はいないのか」(城山三郎著)

何と哀しいタイトルなんだろうと、読みもしないくせに涙ぐんでしまった。バカな人だなあ、と自分の安っぽさを笑った。情報番組で紹介されたりドラマ化されても、見るのが恐い気がしてならなかった。


 長年連れ添った夫婦の別れの日は、想像するだけでも辛い。何気ない毎日が幸せで、それはいつまでも続くものと思い込んで、夫はいつでも傍にいるのが当たり前と信じて、そんな風にもう半世紀以上も一緒に暮らしてきた私だ。だからその当たり前がなくなってしまったら、「そうか、もう夫はいないのか」と、その時になって初めて本当の悲しみに気づくことになるのだろう。


 若くて元気なうちは、それほど深刻に考えたことも無かった夫との別れを、いつの間にか意識しだすようになったのは、還暦が近い頃だったろうか。子供達が巣立って老夫婦だけになった暮らしを何かのドラマで見て、いずれの日かの自分と重ね合わせて考えてみた時だった。


 夫に手を握られ「お前、死ぬなよ、死ぬなよ」と呼びかけられながら、自分は夫より3年早く息を引き取りたい、そして願わくば夫は再婚しないでずっと私を思って暮らして欲しい、と自分勝手な望みを娘に熱く語って笑われた。健康にも経済的にも何も心配なく暮らせていた若い頃だったから、そんなばかばかしいことを平気で言っていられたのだと気づかされた。


 私が古希を迎えた頃、夫がガンになり2日続けて2度手術をした。1日目の手術では麻酔が覚めると、そこにはいつもの夫がいた。けれど前日の手術で出来た腹部に溜まった血の塊を取り除く2日目の手術では、麻酔から覚めた夫はまるで別人のようだった。

  

 40日ほどしてようやく退院した夫は、言葉数も少なく余りのおとなしさに、輸血で性格が変わることってあるのだろうか、と真剣に思ってしまう程だった。余りの変わりようを心配する私達に、娘の友人の父親が大病をした後、1年以上も夫と同じような状況が続いたと教えてくれた。


 手術から今日迄の6年近くの間に、再発で何度かの入院もあった。それでも夫は少しづつではあるが元気を取り戻してきたが、やはりまだまだ本来の姿には戻れてはいない。活動的で働き者であったから、3日と家にいられない人が全く外出もしなくなり、テレビを見て静かに一日を過ごす毎日になった。


 詮無き事と分かってはいても、余りの変わりように寂しさでいっぱいになる。あんなにお喋りしていたのに、何故こんなに無口になってしまうのだろうか。帰宅する夫を待ち構えて、仕事で疲れていることなどお構いなしに、まるで機関銃だなと笑われるくらいに、一日の出来事などをあれこれ話しかける私。適度に聞き流しながらも所どころに相づちが入り、洒落の一つも言ってくれる他愛もない会話の毎日だった。


 夫の賑やかな会話は家だけでなく、友人の所や納品先など何処でも同じだった。洒落で作った町内の噺家仲間から師匠に担ぎ上げられた夫は、最も仲のよい床屋さんではいつも他のお客と一緒に大笑いして、店内はまるで寄席になったように賑やかだった。いるだけで楽しかったと言われた夫もすっかり静になって、かつての姿はもうなくなってしまったと床屋さん一家も寂しがる。


 どうかして以前のような夫に戻ってはもらえないものだろうか。そう思えば思う程、陽気で楽しい夫がどんどん遠のいていくようで残念でならない。何処に行ってしまったんだろうか、と思い切りの悪い私は、もうずうっと昔の夫を探し続けている。      


「反魂香」という落語がある。長屋に住む浪人者が死んだ人間の霊を呼び寄せる反魂香という香を焚いて、夜な夜な死んだ花魁と会っている。隣に住む粗忽者が自分も死んだ女房に会いたくて香を買う。しかし、そこは落語のことで「反魂香」を「反魂丹」と間違えて騒動になるというものだ。


 この「反魂丹」は江戸時代からある富山を代表する薬で、私が子供の頃に「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて萬金丹 それを飲む奴アンポンタン」などとふざけて喜んでいた男の子達を思いだす。


 昔は各家庭に置き薬が常備されていて、富山から薬屋さんが使用した薬の補充にやって来ていた。大きな葛篭の中には沢山の薬と一緒に紙風船があって、それを貰うのが楽しみだったことも思い出に残っている。


「反魂丹」へと話がそれてしまったが、「反魂香」のような「会いたい人と会える香」があったらいいのにな、と考えることがある。もし会えるなら誰に会いたいのか。私はずっと探し続けている夫に会いたいと思う。威勢のいい、話しっぷりのいい、仕事に夢中の、頑張り屋の、面倒見のいい、洒落の利いた会話の、負けん気の強い・・そんな昔の元気いっぱいの夫に会いたいと思う。


手術から6年が経ち、現状は定期的に5つの科に通院している夫である。どんなに頑張っても元のようには戻れない。78才では迫力不足になったと嘆いてみても仕方のないことだ。しかし、考えようによっては現在のような夫で正解なのかも知れない。以前の元気いっぱいの夫に戻れたなら、きっと通院しながらでも無理を押して仕事に励み、ぐっと寿命を縮めることになっただろう。

「そうか、もうあの頃の夫はいないのか」

ずっと探し続けた末に分かったことは、そういうことのようだ。


 「死ぬなよ死ぬなよ」と言われながら、夫より3年早くに死にたい私だったが、今は夫は頼りになれそうにないので、「まだ死なないで」と祈りながら、夫より後に逝きたいと願う。しかしそうは思っても、心臓に持病有りの私だから自信はない。


 お互いの寿命はどんどん終わりに近づいていくのだから無理は言うまい。たとえ会話は少なくなったとしても、もう一生分位も話をしてきたではないか。迫力が低下したとしてもそれは少しずつ「やがて来るサヨナラへの覚悟の練習」の為だと思うことにしよう。


「そうか、もうローバはいないのか」

そんな日も遠くはない筈なのに、「そうか、もう夫はいないのか」の日の来ることばかりを気にして、自分はまだまだ大丈夫と都合のいい考えでいる、アンポンタンなローバなのであります。

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