第21話  先を見る目

 先見の明などとそんな大層なものではないが、長兄の先を見る目に少しばかり感心したことがある。今では当たり前になっている事でも、数十年前ではそう思われなかったことが幾つかある。


 兄は昭和が始まって間もない頃の生まれだから、戦争も知っているし終戦に近い頃に、僅かだが軍隊での経験もある。頭の回転が早くやんちゃな悪戯っ子だったから、少しは町内でも知られた存在であったらしい。兄が町を歩くと悪戯警戒警報発令?となったそうだが、それでもその茶目っ気で案外町の人達には可愛がられていたようだ。


 兄が〇〇中学(後の〇〇高校)に入学した時には、町内の皆が喜んで提灯行列で祝ってくれたそうだ。その学校で、早稲田大学に行って小説家になりたい、という夢を持った友人が退学処分を受けた。こんなご時世に小説などとは何事だという理由だったそうだ。


 それはおかしい、理不尽だと憤慨した兄は校長に直談判をし、そこに仲間が加わって大騒動に発展した。抵抗空しく何人かに処分が下り兄は停学となった。父はこれを不名誉なことと思い、いっそ退学をしてお国にご奉公せよということとなった。


 軍隊では上官に目をかけて貰っていた兄と数人は、いつも連帯責任での酷い制裁を免れたそうだが、惨たらしい仕打ちや、死んでいった仲間達を多く見た兄は、特別扱いや理不尽さに嫌気がさし、反骨精神が高まり権力に立ち向かう人になって、穏やかで真面目なお国を思う平凡な父とは反対の人となった。あの軍隊での体験がなければ、兵隊さんごっこで遊んでいた、当時どこにでもいる軍国少年で終わっただろうに、保守的な父と革新的な兄とでは考え方の違いは大きくなった。


 私はお兄ちゃんっ子であったから、大人達の会話を耳にした時、何故か兄の意見が正しいような気になっていた。小学校卒業の頃、聞きかじりで内容も何も全く分かっちゃいない子供が、卒業文集で書いてしまった。「明日食べるお米に困っている人がいっぱいいるのに、〇〇(当時問題となった飛行機)を買うのは絶対反対です。」と。 大人しくて素直な良い子(注 贔屓してくれた先生達の評価です、念の為)が、おお何と恐れを知らぬ発言をしたものよと、今でもたまに思いだすと冷や汗が出そうになる。


 そんな兄だからか、古くて不合理で不条理な考え方に囚われる、世間の風潮に縛られることを嫌った。両親は明治の人だから世間体を気にして暮らしていたが、兄は「ソンツランモン(そんなもの)、クソくらえ」の考えだったし、誰にも恥じることはないからと平気だった。


 家事は女の仕事と普通に思われていた頃、夫婦で公務員だった兄の家では、先に帰った人が家事をするのは当たり前のこと。男女の仕事と決めつけず、時間や体力で可能な人が出来ることをやる、ただそれだけのことだった。義姉は母に気兼ねの様子だったがお構いなしで、母も義姉を敬っていたからそれでOKだった。


 私の家は漁師町に有り、近所の働き者のお母さん達は、イカやタラの加工工場で働いていた。生活の為だったり子や孫達への小遣い稼ぎの目的でも、みな揃って励んでいた。そんな頃、近所の手前か誘われたからかで、母は何度か仲間に入れて貰ったことがあった。けれど兄は自ら進んでやりたいのなら別だが、怠け者のように思われるのが嫌だから、という理由ならば止めればよいと言った。


 8年ぶりに出来た末っ子の私は、母が甘やかして殆ど傍に置いて、繕い物などをしながら遊んでくれていたので、一人で留守番をすることもなかったし、寂しい思いもすることもなかった。ただぞれだけのことなのに、兄はそれも大事なことなのだからと母に言ったそうだ。


 家事や子供を預かることが、まだお金になるという時代ではなかったから、母はどういうことか理解が出来なかった。幼稚園は別として子供を預かると幾らになる、とは考えられなかったのだろう。


 それがお金になることの例えとして、「〇〇のおばさんに家のことをやって貰ったり、子供を長時間預かってもらって知らん顔をしていられるか? それなりのお礼はするだろう」。外で稼ぐ者ばかりがお金を生む訳ではない。女の人の働きがどれだけの価値があるかを考えてみよ、という理屈だ。


 でも周りの皆はずっと昔から働いていて、家事は勿論のこと育児、介護、家業の手伝い等々、それらは当たり前のことと捉えられ、金銭的な評価はなされない。今から60年以上前に、女性の労働をお金と考えてよそはよそ、うちはうちでいけばいいと言われ母は戸惑ったという。


 私は若い頃、舅に同じようなことを言われたことがあった。婚家は工場を経営しており、町工場の立ち並ぶ周辺の工場では、奥さんが手伝っている所が多かった。夫はやたら経営に口出しされないことが、一番の内助の功だと言って、私の手助けなど全く必要としなかった。周りを気にする私に舅は、子供3人を預けるとどれだけのお金がいるかを考えたら、それだけを稼いでいるのと同じなのだから気にするなと言ってくれる。数十年前に私の母が兄に言われたことと同じだ、と本当に驚いてしまった。


 40年ほど前、県職員の兄は〇〇園に赴任したその日に、余りにも太り過ぎなのではと思われる子の多いことに気づき、改善策として施設を相撲場と洒落て相撲大会をして遊ぼうと考えた。力士〇〇山、〇〇川になって、私も小さい頃よく遊んでもらったが、それをダイエットとして取り入れて、園長のアイデアは成功となった。


 退職してからは特養施設で働いた。今ではペットの癒し効果はよく知られているが、取り入れられることの少なかった当時、園では色々な小動物を飼った。音楽で頭を活性させようと本格的に〇〇楽団を結成し、入所者楽団員は学生やボランティアと積極的に共演して楽しんだ。新聞などで取り上げられると励みとなり、活動はより活発になったそうだ。


 平凡な部屋番号も止めて施設の廊下は〇〇通り、部屋は〇丁目〇番地〇号とし、そこの住人となって頂くアイディアも好評だった。沢山のボランティアを募って交流を図り、地域の真剣に介護を学びたい人には、積極的に技術指導をして喜ばれたそうだ。無駄な経費は徹底的に抑えて水道代はけちるなとか・・これらはみな新設の施設で、良いと思うことはどんどん取り入れて構わない、と任されたから可能だったとかで、良い施設にしたいと頭をひねったのだろう。


 静かに寝かせてお世話や介護する特養であってはならない(それは兄が初めて世に訴えた訳ではなかったが)、これから先の特養はこうありたいと願ってやったことが注目され、各地からよく関係者が見学に訪れたそうだ。


 長々と聞き苦しい私の兄自慢の数々の思い出話を、先を見る目などと得意気に語ってしまい、お詫びしなければなりませんが、そんな兄にもダメな目がありました。子供のいない兄夫婦の養女となった私は、卒業後に故郷で教員になる筈だったのに、資格を生かすことなく嫁いでしまいました。一番大事な遠い将来の妹の姿を見る目、兄にはそれがなかったということです。


 婚家で楽しく暮らす自分勝手なローバに「充日」はあっても、兄夫婦の老後にはあっただろうか。一緒に暮らすことなく約束違反だとは、ただの一度も言われたことはなかったけれども、この年になってもまだ心が痛むローバなのであります。

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