第18話  新刊本

 白く清楚なこの花の名前を忘れてしまった。美しくて愛らしく大好きな花だったのに、と残念な気持ちでスマホに訪ねると、ゼフィランサスと教えてくれた。アレそんな名前だったっけ、と思ったら寂しい気持ちになった。ああそうだった、と思いだせなかったからだ。


 沢山の花の名前も沢山のクラシックの曲名も、沢山の、沢山の・・がすっかり忘れ去られてしまっている。たとえ忘れてしまっても、花を愛でる気持ちは忘れないし、曲名を忘れたとしても流れるメロディーは聞き覚えがある、と分かるだけでも幸せなことと言い聞かせている。物忘れは仕方のないことだとは思うけれど、父の思い出からそう悪いことでもないんじゃないか、と教えられたことがある。


父は本が大好きな人で家には沢山の本があった。子供の頃、何気なく手に取ってみた本は、漢字で埋め尽くされていたが、みなルビがふられていた。大人の本であるから私には読みたいものではなかったが、今にして思えばそれらの本が、私を読書好きの少女にさせてくれる切っ掛けになったかも知れない、と思うと残念で仕方ない。


晩酌を楽しみながらの読書の時間も、炉端で寛ぎながら寝るまでの間の読書の時間も、日々を慎ましく過ごす父の一番の楽しみだった。幼い頃、寝間着に着替えさせて貰った後、父のもとに連れて行かれおやすみなさいを言うと、本から目を離し「はい、おやすみよ」と穏やかな声が返ってくる。雪が降り続く静かな夜には、炉の赤々と熾きた炭火の上で鉄瓶がシュンシュン音を立てている。そんな懐かしい風景の中や、寝静まって静かになった部屋で、父は思う存分読書に耽っていた。


 父の本好きは恐らく学ぶことが好きだったことに加え、夢の途中で断念せざるを得なかった、教育者の道への心残りからくるものではなかったろうか、と私はずっと思っている。高等師範に通っていた父は、家業は姉夫婦が継ぐものと思って勉学に励んでいた。けれど義兄の猜疑心から姉夫婦の喧嘩が絶えず、居たたまれなくなった父は、家業の後継にも財産にも全くもって無欲であることを証明するかのように、全てを捨てて上京してしまったそうだ。


 頼る伝手がそこしかなかったとの理由で、父は自身の性格も適性も構わず、全く畑違いの職人の世界に弟子入りをした。辛いことが山ほどあったそうだが、そんな時には恐らく父は読書の楽しみに救いを求めたことだろう。きっと沢山の書物は知識だけでなく、勇気や活力をも与えてくれたに違いない。


 書物から得た沢山の智識のお蔭か物知りだったから、母は何でも教えて貰える父をとても尊敬していた。その姿を小さな頃から見ていたせいだろうか、私も色々と質問に答えてくれる夫を尊敬する人になった。大層な物知りという訳ではないけれど、夫も本が、というよりも活字が大好きな人で、私なんかの程度の人が知りたい質問への回答には困らない人だったから、本は何と有り難いものかとしみじみ思う。


 父が独立して店を構えて数年後、代用教員にならないかと声がかかった。教員になる為の過程が全て終了していないからと固辞すると、不足分は追い追い取ればいいからと、家に何度も校長先生は足を運んでくれたそうだ。母は真面目だけの商売っ気のない父には、なんと有り難いお誘いかととても乗り気だったが、夢を実現させることはしなかった。


 父に似て兄姉達の本好きも相当なもので、早く逝った姉などは手元を全く見ずに編み物をしながら本を読む人だったし、兄の家の書庫にはいつも沢山の本が並んでいた。本好きの兄夫婦から次々と父の好みそうな本が送り続けられ、おそらく父は嬉しい悲鳴を上げていたことだろう。


 思い出の中には、よく相談事で近所の人が訪ねて来た時の父の姿がある。父は意見を述べる時には必ず一呼吸おいてから「そうさのう、まあ自分はこう思うが、どんなもんだろうか・・」と言うのが決まり文句のようだった。父の性格をよく表す言い方だけれど、同じ職人である義父や夫の威勢のいい物言いとは、全く色合いの違いに私はずいぶん驚いた。


 後年の父は酒やタバコの量も減って楽しみも少なくなってきたが、相変わらず読書はずっと続いた。しかし、もう本は送ってくれなくともよいと伝えられた兄は、少し寂しい気分で理由を聞くと、記憶力の低下で忘れてしまうことが多くなったからだとか。そのお蔭で読んだことのある物語だって、初めて読むような楽しみになるのだそうだ。


 父は真剣に、そして嬉しそうに、物忘れも捨てたものじゃない。送られたこれらの本のどれもが新鮮で、毎日新刊本を読むような喜びがあると言う。ならば忘れることを嘆かず、新しいものに出会える幸せと捉えればよいのか。

私が時々物忘れを嘆くと娘は必ず「毎日が新刊本で幸せ」と慰めてくれる。その言葉をお呪いとして、物忘れを嘆きマイナスな気分で過ごすことのないようにしようと思う。


 最近、山本周五郎や藤沢修平にはまって、作品の中で父の影らしきものを見つけては懐かしんでいる。父の話はあまり友人にしたことがなかったが、カクヨムの皆さまには聞いてもらえそうなので、思い出話に無理やりお付き合い頂いてしまった。うんうん、と頷いて貰えている気になって、喜んでいる単純なローバなのであります。 

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