09
エミルは出て早々、山の中を彷徨っていた。実は今日、落し物をしてしまったのだ。
今朝はまず、この辺りで絵を描いていた。次はあの河川敷。その後は家に帰ってこれからの準備をしたから、どちらかにはある筈。ここへ来る前に寄り道はしたが、落し物に気付いたのは家だからその前だ。
記憶を辿って草陰などを探すも、見付かる気配すら無い。
(いけない。もしあの皐月とかいう子が見付けてしまったら、あたしのことがバレるかもしれない)
失くしたのは、一冊のスケッチブック。それも昼間に皐月に見せた物なら何も問題は無かったのだが、よりにもよってこれまでの暗殺対象と依頼人の似顔絵を描いたものを落としてしまった。 皐月がそういった裏事情に精通しているという可能性は、無きにしも非ず。人の考えていることなんて、簡単に分かる筈が無いのだから。
ましてや彼は、エミルの絵を見て、どういった絵を描くのかを知っている。絵の些細な癖や違いを見抜けるほどの審美眼があるかどうかも分からないが、スケッチブックの絵とエミルの絵、そしてこれまで特定の暗殺者が暗殺したとされている被害者の顔が一致してしまえば。それこそ『エミル』としても逃げ場を無くしてしまう。
少なからず、探し物をするエミルに焦りの色が浮かんだ。そこへ、
「探し物は、コレですか?」
木にもたれかかるような体勢で、一人の少年がスケッチブックを掲げていた。
「……霧崎、桜波……」
昨日、わざわざ挑発しに行った相手が、今は自ら出て来ている。つまり彼の準備は出来たということだ。
呟いたエミルの言葉に、少年・桜波の笑みが深まった。それから桜波は、ぱっとスケッチブックを上空に投げる。それを見たエミルが手を動かすと、吸い込まれるようにスケッチブックは彼女の手に収まり。感心したように、桜波が息を吐いた。
「斬鋼線、ですか。珍しいですね」
「霧崎桜波、
ただの世間話などは聞く気さえ無いとばかりに告げる名は、スケッチブックに一番最近描いた、暗殺対象の関係者達。
今まさに目の前に居るその少年と、周辺の者達。気配は無いが、どこかに潜んででもいるのだろうか。
「
解せないのは、どうして東間青水一人だけが対象なのか」
特に親しい人物。関係組織やその周辺も、『夢幻桜』が出来うる限りは調べたと言うが、大した情報は得られなかった。
だがそれにしたって全てを言うのはきりが無いし、意味も無い。調査結果として、確かに東間青水は敵にすれば厄介な相手だ。だが厄介なのは、別に彼一人では無い。
「……意外と侮れないものですね」
くすっと笑みを漏らし、桜波が笑う。
「正直驚きましたよ。それに描かれた者達…………貴女、『氷の刃』ですね?」
『氷の刃』――
ここ数年でよく聞くようになった殺し屋の名で、裏ではかなりの有名人だった。
その正体は不明。どのくらいの年齢かも、容姿も、性別も。多くの情報は知られてはいない。ただ『氷の刃』は、酷く冷酷無慈悲、かつ残虐非道。狙った獲物は絶対に逃さない。相応の額さえ出せば、殺し屋だろうと一般人の女子供だろうと構わず依頼を遂行する。
知られている情報はほんの二つ。
暗殺の始めと終わりには必ず鈴を鳴らすこと。そして仕事の後には自身の証として、その相手の血で壁や地面に花の絵を残すこと。
それだけだった。
それだけになるよう、『夢幻桜』が情報を操作し隠蔽した。彼の情報操作が無くなれば、エミルは表社会で生きていくのが難しくなる。
「受けた依頼は必ず遂行する。その為には、情報が必要でしょう?」
「そうですね、間違いありません」
互いに交わす微笑みが、酷く冷たく白々しい。冷静に、冷酷に、感情を悟らせず、そして相手を見ろと、そう教えられた。
己の力量を知れ。相手の力量を見極めろ。今目の前に居る相手に自分は勝てるか。先日『夢幻桜』が下した判断は、「ドロー」。本気を出して勝てるかどうか。だったら尚更、自分が見て判断しなければならない。
沈黙が続く中、局面を動かしたのはエミルだった。
「あたしの問いに、答える気はある?」
「その問いの答えは、貴女自身の持つそれと同じだと思いますよ」
「そうよね」
聞いておきながら、エミルはやはりくすくすと冷たく笑う。
答えは、「否」。敵に話すことも、その質問に答えることもする必要は無い。誰もがそうするだろうし、分かりきったことだ。
それから――
「だったら、次にとる行動は決まってるわ」
やけに恐ろしく、彼女のアクアマリンの瞳が煌めいた。
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