07

「っくしゅ」


 小さくくしゃみをこぼし、エミルは慌てて手元のスケッチブックに目を落とした。良かった、汚れてはいないようだ。

 趣味の絵を描く為に、空いた時間はよく外をぶらつく。新規開拓をしてインスピレーションを刺激するのも大切なことだ。今日は普段通らない道から、河川敷に来ていた。

 スケッチブックには、描きかけの絵がある。目の前ではミニバスケに興じている青少年達が居て、エミルはそれを描いていた。それは、まるでモノクロ写真に撮ったかのように美しい。

 一方で、見慣れない少女の姿に、ミニバスをしていた人達の一部が振り返った。 陽光で金に輝く髪と、アクアマリンの瞳。 どう見ても皇人じゃないエミルは、やはりミニバスのメンバーもこの街では初めて見るし、良くも悪くも目立つ。


「手が止まってるよー」

「……!」


 ふと、すぐ近くから聞こえた少年の声に、エミルはビクリと肩を震わせた。

 振り返ると、エミルよりいくらか小柄な少年の姿。知り合いなのか、ミニバスをしていた彼らに手を振っている。


「あ、皐月さつきじゃん。入んねぇのー?」


 土手の下から声をかける青年に、皐月と呼ばれた少年は「今日はいいや」と手を振る。それから、じっと皐月を見つめたままだったエミルに目を向けた。

 そのままにっこりと無邪気な笑みを見せる。


「初めましてだね。僕は皐月。君は?」

「エ……エミル。あたしは、エミル・クロード」

「へぇ、エミルちゃん、か」


 邪気の無いまっさらな笑みに釣られるように名乗ったエミルは、直後に浮かべられた先とは違う皐月の笑みに背を震わせた。

 全てを見透かすような、黒曜石のような瞳。澄んだその瞳と、どこか妖艶とも言えるような微笑みが……何だか怖かった。

 すっとエミルから離れた視線が、ミニバスを再開した青年達の方へ向く。だが彼の意識は、エミルに向いたままだった。


「君ってさ、何処の国から来たの?」

「両親と生まれはフランシカ。でもほとんどスメラで育ったから、気分は皇人だよ」

「ふぅん。皇語、上手いもんね」

「ありがとう」


 にこりと笑いはするが、背筋を冷や汗が流れている。穏やかに見える会話なのに、エミルにはどこか空気が堅いように思えた。

 分かっている。空気を堅くしているのは、あくまで自分だけ。この少年はずっと自然体そのものだ。


「この街ってさ」

「?」

「外の国の人って少ないし、目立たない?」

「! …………そうかも」


 隣に座った皐月が世間話を続ける。

 ミニバスをしている青少年達とのやり取りから考えると彼も普段はあの中で一緒に走り回っているのだろうが、今日はそうでないなら何をしに来たのだろうか。

 たまたまエミルの姿があったから、ミニバスへの参加を今日はやめたというだけか、それとも……。

 いや、こんな子供相手には、邪推だろうか。


「特に君みたいに可愛いと、余計目立っちゃうよね」

「え、そうかなぁ? 皐月君、だっけ? あたしは、君の方が可愛いと思うな」

「えー、僕男の子だよ?」


 からからと笑う皐月に言葉と笑みを返しながら、エミルは思った。この少年からは、何か危険な香りがすると。だけど自分はこの少年を、人として、好きになるかも知れないと。だからこそ……深入りしてはいけないと。

 密かに覚悟を決めた時、ふと皐月がエミルの手元を覗き込んだ。


「何描いてるの?」

「えっ? きゃ!」


 慌ててスケッチブックを抱きかかえ隠すも、とうに手遅れだ。赤くなったエミルの顔を覗き込んで、皐月がまた無邪気に笑う。


「今のって、あの人達だよね。すごい上手。写真みたい」

「……う、うん」

「ねぇ、他にも何か描いてる?」


 興味深げに言って、皐月はエミルの隣に腰を下ろす。困ったように眉尻を下げたエミルは、少し考えるようにした後おずおずと手にしていたスケッチブックを差し出した。

 嬉しそうに受け取った皐月が、パラパラとページをめくる。海や山、犬や猫や小鳥、時には風車の絵まである。そのどれもが景色を切り取ったように美しく、惹き込まれるようだった。

 ふと、皐月が一枚の絵を見て手を止める。今まで見ていたどれもが皇の景色だった。だがその一枚だけは、明らかに皇ではなくて。その光景に、彼は確かに見覚えがあった。


「…………」

「何? ……あ、それは」

「君の故郷?」


 にこりと笑って、皐月がエミルにスケッチブックを返す。受け取りつつも小さく頷いたエミルの微笑みは、ひどく泣きそうに歪んだそれだった。

 心のまま、ありのままで生きて良いと言われている。「仕事」の時以外は。

 手元のスケッチブックを見下ろして、深く深く息を吐き出した。懐かしい景色。思い出深い景色。

──二度と、戻らない過去。

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