エピローグ

 真夜中の砂浜。激しく波が打ちつける。伸ばせば手も足もつく浅瀬で、男がうつ伏せの状態で海面に浮き、上下に揺られている。身動きを取らない。拘束衣を着せられていた。

 水を蹴る音がする。男が二人、拘束衣をつかむと沖まで運んだ。そこにもう一人黒い影が見える。影が拘束衣の男を待っている。

 拘束衣の胸元に荒く縫い付けられた布切れの中から、ゆっくりと赤い小さな光が点滅している。それは限りなく弱々しい、その男の命の灯火のように見えた。

 影の右手に同じ光が握られている。そこから心電図のような音がする。影に近づくとその間隔は速くなる。嫌悪感や焦りを感じさせる不快な音だった。

 影が左手で海から引き上げた男の髪をつかみ、その顔を見る。拘束衣の男は意識を取り戻したのか、急に目を開き、影をじっと見返した。

 また死ななかった。死ぬことは許されていなかった。


 海の上を仰向けに漂っていた時は、ずっと空を見ていた。眩しい太陽。煌々と光る月。青空や星空。ただ一番に視界に入る、目がいくのは遥か上空へと伸びる一本の赤い糸だった。

 数日間漂流した。何も食べていない。顔に降る雨水をすするだけ。

 その間、身体は海水に浸かっていた。本当であれば皮膚が剥がれ落ちていてもおかしくないはずなのに、一切ふやけているようには感じられない。誰かが拘束衣の下にダイビング用のウェットスーツを着させ、手足には防水性のある袋を被せたようだ。その誰かは指示を受けたわけでもなく、自分の意志でもなく、そうせざるを得なかった。発信機だって誰も装着した覚えがない。

 海に放り込まれた時、脚には鎖でコンクリートブロックが繋がれていたが、海底に着いた途端に砕けて外れた。鎖も波に揉まれながら解けていって、息が続く間に海面へ浮上することができた。

 海に沈められる前は、刃物で刺されたり、ガソリンをかけられて燃やされたり、漂白剤を飲ませたりするはずだったが、どうしてか毎回、実行者のゴトーという男が人違いをする為、別の誰かが殺害された。

 あまりにも不可思議なこれらの現象は全て、この一本のか細い赤い糸がもたらしている。

 別の誰かがその糸を無理やり切ろうともしたが、切る前に刃物が破裂したように砕け、飛び散るだけという結果に終わった。

 感じるのは糸の意志、願い。この人に生きていてほしいというシグナルが常に糸を通して全身へと流れていく。

 ただし男には生きる気力がなかった。愛する人を失った。自分のせいで。

 今、男は自分の敵を見つけ出して殺すためにのみ存在している。ジマという男が生きているのであればこの手で殺したい。

 今はただそれだけだった。


 影が口を開いた。

「賭けに勝ったんだね。本当に? 何一つお前の思い通りにはなってない。死んでしまいたいよなー? 地獄だもんなぁ。わかるだろ? この先もずっと……おもしろくないぞ。」

 拘束衣の男は何も言い返さない。自分の望みはすでに伝えていた。

 影は『嶋小八』とだけ印字された名刺を取り出し、砂の上に放り捨てた。ひっくり返った裏面に日時とある駅名が書かれている。数年前に閉鎖され、使われていないはずの駅だった。

 影やその取り巻きが去っていく。拘束衣の男にはそいつらの後ろにも百以上の影が蠢めくのが見えた。

 拘束衣の男は身体をよじりながら地面を這って進み、裏返しの名刺を口で取って、すぐに吐き出した。もう一度名前を確かめたかった。

「ジマッ! ジマ…」

 男はそう繰り返した。

 口に入った砂が気持ち悪い。でも男が吐き気を感じるとしたら自分自身に対してだった。

 一番大事な人に残酷な選択をさせてしまった。その状況を作ってしまった。まさかそんなことになるとは夢にも思わなかった、と今考えている自分が気持ち悪い。良くなることはない。償うことができないのだから。


 拘束衣の男は薄っぺらい検査衣を着た男になっていた。

 病院の出入り口から外に飛び出す。そのまま全速力で1分以上走り続けた。手には睡眠薬が入ったビニール袋が握られている。

 看護師二人が追いかけてくる。距離が縮まることはなく、検査衣の男はどんどん離れていった。一人が立ち止まり、自分の携帯電話で恐らく警察に通報し出した。

 多くの視線を感じたし、パトロール中の警察官から声をかけられたりもしたが、捕まらず、とにかく走ってそれらから逃げ切った。

 検査衣の男はその足で上野へ向かった。途中、道の端に落ちていた空のペットボトルを拾い、粉末状にした睡眠薬と公園の手洗い場で出した水を入れて混ぜ合わせた。

 京成線の線路に忍び込んで下り方面へ歩いて進み、博物館動物園駅に着く。

 地下内の駅で定期的にて電車が通過していた。辺りは静まり返っている。奴らは上の改札階にいるようだ。ホームは照明が点灯していたが、誰一人としていなかった。『死にぞこない』を除いては……


 暗闇からゴトーが現れて、検査衣の男の肩をつかむと、静かに泣き出した。帰って下さい、生きて下さいと懇願してくる。

 首を横に振り、睡眠薬をゴトーに渡してジマに飲ませろと命令した。

 この大男が何者なのか、どうして自分を助けるのかわからなかったが、検査衣の男には確証があった。

 ゴトーはペットボトルを受け取り、辛い表情のまま頷いた。


 改札階にはゴトーを合わせて五人の男たちが集まった。正確には四人と赤い球体が一つだ。学校の運動会にある大玉転がしで使う赤玉そのものがあった。よく見れば全て糸であるとわかる。ところどころ雑に繋ぎ合わされた箇所もある。

 球体の中から筒が二本飛び出ていて、恐らくそこからものを見ているのだと検査衣の男は直感した。

 あの砂浜にいた影もいる。ジマも。

 もう一人は検査衣の男が見たことのない男だった。右手にある赤い糸が、他の奴のような円状ではなく、横向きの八の字型をしており、小指の先のところで漂っていた。


 検査衣の男も、人とは違う赤い糸を持っている。男がこの世で一番大切で、心の底から愛した人が自身の命と引き換えにくれた糸、それには限りがなかった。

 初めは円が何周もできるほどあったがそれは数日で全て解けて、最後の先端が空へ昇っていくかと思ったが、先端は右手小指の先で止まった。その後、小指の先から新たに糸が形成されているかのように伸び始め、それまでと変わらず命は続いた。

 検査衣の男は自分の寿命でも、与えてもらった分の寿命でも死ねなかった。

 二度目の寿命が尽きると思い、死に場所を探していた男は富士の樹海をさまよって、これだと決めた大木に登った。

 円は後一周だけになっていたからタイミングは問題なかったはずだ。しかしうまくいかなかった。ロープでも、結んだ枝でもなく、その木そのものが真っ二つに割れて崩れ落ちた。凄まじい音を通して、あの子の怒りを感じた。自分のすべきことに改めて向き合い、もう一度、愛を誓った。その後、自分の糸の進化に気づいた。


 男たちは検査衣の男について話していた。ゴトーと影の男以外には潜んでいることは知られていないはず。

 検査衣の男は、『暁』になっているとジマが言った。その後、八の字糸の男が自分もその『暁』であると言って、右手を他の奴らに見せた。それから八の字糸の男はこのように話を続けた。

「要点は三つ。紅の糸が死人と繋がっている。糸は無限に出せる。周りの運命を捻じ曲げる力がある。」

 赤玉が「くだらないね。生き埋めにすればいいだけじゃないか。」と言い、ジマが首と手を同時に横に振った。

「……殺し方はとりあえずヘリに乗せ、高いところから重りを背負わせて落としてみようということになった。間違いなく糸は速く生成されない。ゆっくり落ちて、身体が、恐らく腕が吹っ飛ぶ。出血多量で死。そうでなくても空中で餓死してくれるかもしれないなぁ。まぁそれも、あいつに自分で伸ばせることを知られたら終わりなんだけどね。」

 ジマは楽しそうに言った。検査衣の男が自分の右手の糸を引っ張るとその分だけ糸は形成され、離すとたわんだ部分が指先で八の字を描いた。ただ一周分だったので間もなく解け、最短に戻った。

「方法はもう一つある。愛を放棄させればいい。」

 八の字糸の男が言った。それはないと検査衣の男は思った。

「よし! どっかから都合のいい女を連れて来い! ハハハ!」

 赤玉が笑った。またジマが手を振る。

「羽嶋菜緒の両親を拉致する。一人はその場で殺して、こちらが本気だと言うことをわからせ、愛を放棄させる。これで終わり。」

 検査衣の男は羽嶋の両親に娘を死なせたことを告白すると同時に身を隠すよう話はしていた。

「最初からそれでいいじゃないか!」

 赤玉は苛立っていた。

「一つ問題がある……」

 そこで影が口を開いた。

「田宮悠斗は自分が羽嶋を死なせてしまったという罪の意識がある。だから、自分への戒めは喜んで受けるけど、羽嶋の両親を殺すとなるとー、キレるかもしれない。」

「それがなんだって言うんだ? 怖くも何ともないね。」と赤玉。ジマも「私も同感だ。生きていられるのが邪魔なだけで、脅威ではない。」と言った。

 影は八の字糸の男を見て、何やら頷き合うと、その後赤玉に向かって「『暁』がその気になれば、あくまで例えばの話だが、お前は指を差されただけで死ぬ……俺の仲間の半分がこいつに殺された。」と言うと、赤玉は八の字糸の男から一歩離れた。

「それは後藤のせいだ。故郷を街ごと消されるところだった。覚えてるか? 力だけの脳足りんが。」と八の字糸の男が馬鹿にしたように言う。

 影が「『糸の奴隷』がいるという偽の情報があった。お前のことは知らなかったし、一般人には手を出してない。まーなんにせよ、金で解決した話だ。」と答える。ゴトーは押し黙っていた。『糸の奴隷』というのは恐らく、赤い糸を作らせるために捕らえ、監禁でもされている人のことだろう。

「お前たち本当に黒渦なのか?」

 赤玉が不安げに尋ねた。

「テイラーは嫌いだし、『糸の奴隷』をつくることは許さない。だけど紅だけの世の中にするのには賛成、かな。」

 影の返答に八の字糸の男も「同じく。」と続いた。

「後藤、お前はどうなんだ? 『奴隷』解放ばかりでお前が人を紅にしてるとこを見たことがないぞ。」

 ジマの口調には明らかな敵意が感じられた。

「俺は……」

 ゴトーの声を遮るように、コツコツと足音が数十、いや数百は聞こえた。

 無数の影が暗闇から現れた。そいつらは検査衣の男を無視して前進し、五人を囲うように集まった。最低でも二百人はいるようだった。

 検査衣の男も前へ進み、影たちの中に隠れながら五人が見える位置まで移動した。

「どちらかといえばジマ、お前のほうが問題なんだよねー。」

 影が言った。ジマは笑っている。

「狩る側、狩られる側っていうお前の考え方は古い。テイラーの教え通り、救いを提案する。真実を受け入れる準備をさせる。糸を見せる。紅に自らなる。これが正解。奪い取るだけ、従わせるだけのお前のやり方じゃ、誰もついてこない。化け物を生み出すだけだ。」

 影が赤玉の方を一瞬だけ睨んだのを検査衣の男は見逃さなかった。

「私は教え通りにやってるつもりだが? 」

 ジマはいつの間にか拳銃を握っていた。

 赤玉も黙って何か武器を組み立てていた。さすまたのように見えたが、赤玉が手元を操作すると、自動的にさすまたの先端がリング状になり、その内側全体に刃が出てきた。

 八の字糸の男はというと、近くのベンチに深々と座り、くつろいでいる。何事もないように。

「いいや、お前は人の心を踏みにじることしかしていない。それはお前に心がないからだ。」

 影の言葉を聞き、ジマが笑うのをやめた。

「心……? いつも沸き起こってくるこれは?」

「湧き起こってくるって何が?」

 八の字糸の男が興味を示した。「出会った頃から疑問だったんだ。お前はどういう人間で、二百年も無駄に生きながらえて今、いったい何を感じているんだ?」と質問し直す。

 ジマは時間稼ぎがしたいのか、その質問にできるだけゆっくりとした口調で答えていった。

「……怒り。人が憎くてたまらない。二百年変わらん。伝染病で家族が死んで、感染したが悪化はしなかった私だけが生き残った。両親が死ぬ前、私に糸を紡いで。私は何も知らず、糸も見ずに紅になった。三つにもなってないガキだったから、どうしていいかわからず、家族の死体にすがって泣くことしかできない。数日後、周りの人間らが私の家に火を放って……私はすぐに外に出たけど、燃えていく家族を見ながら、全身を真っ二つに引きちぎられたような思いがした。その怒りが今も消えない……ただ和らぐ瞬間はある。憎い相手が苦しみ死んでいくところを見た時だ。やつらの悲鳴を聞くと安らぎを感じ、やつらの目から光が失われるのを見ると希望が湧く、自分は生き、幸せであると実感する。だから私は赤い糸を狩り続ける。」

「うーん。赤い糸の根本が理解できてないんじゃないの? そういうものじゃーないでしょ?」

 と影がきく。

「愛の糸か。理解できない。テイラーが不死の私に気がつき、会いに来て、真実を告げられたその時、だいたいのことを教わった。だが、愛や暁、螺旋、二重螺旋、理解ができない。黒い糸が愛を放棄された赤い糸の成れの果てと聞いた時はなるほど、面白いなって思ったけど。」

 ジマが答えると、赤玉が横で「螺旋って何?」と言い、それに対して八の字糸の男が指を鳴らし、「見せてやれ、どうせやるんだろ?」と影に向かって言った。

 その瞬間、ジマが拳銃を上げて影を撃った。今から影がやろうとしてることを阻止したかったようだ。

 影の上着の胸元から血が滲み、右手の糸が今までの数倍の速さで解けていく。限界のスピードにまで達しているようだ。このままだと数日で死ぬ。検査衣の男はそう思った。

「そうだね。まー、始めよう……」

 影は平然と言った。周りの取り巻きの数十人が特殊なハサミを取り出して、自分の右手の糸の輪を途中から一筋切った。

 切られた片方、輪と繋がっている方はまた真上へ上がっていったが、もう片方、元々天井に伸びていた方はなぜか影の方へ位置をずらしていった。

 糸の動きばかりに気を取られていたが切断した者たちは全員、右手の人差し指で影を指差していることに検査衣の男は気づいた。

 そして、影が自分の顔の位置まで上げた右手小指にその糸が集まっていき、影自身の糸を中心に螺旋を描き始めた。

 天井まで何重もの螺旋が連なり、右手の輪も赤い天然石をくり抜いて作った分厚い指輪のような状態になっていた。

「黒き世に赤く。永遠に命を紡ぎ合う。俺たちの目指すべき形だ……」

 影が言う。

 コツンと床に音がなる。影の胸に当たった弾丸だった。影が手を伸ばしそれをつかむと発泡スチロールのように崩れていった。

「欠陥品だ。深くは入ってなかった。」

 影が手を払いながら言う。

 ジマは歯を食いしばりながら影に再度銃口を向け、今度は何発も連射したが、もう一発も影には当たらなかった。その後ろにいた影の仲間が流れ弾を受けたが、他の者たちがまた数十人、自分の糸を切り、同じ現象が起こした。

「いい加減にしろ!」

 ゴトーが突然叫んで、左手でジマの顎をつかむと反対の手でペットボトルに入った睡眠薬を無理矢理飲ませた。ジマは銃を離して両手でゴトーに抵抗し、口に含んだ液体の半分以上を吐き出したが、それでも相当な量を飲み込んだ。

 ゴトーはペットボトルを投げ捨て、今度は右手でジマの顔面をつかみ、そのまま地面に叩きつけた。

 地面のタイルがプラスチックのように軽い音を立てて割れる。何かまた不可解な現象が起きていた。

 ゴトーは馬乗りになってジマの顔を二回左右の拳で殴ると、ゴトーの両手、両腕がへし折れた。枯れ枝のように。それでも、もうまともに動かない腕でどうにか相手を傷つけようともがいている。

「やれ……」

 苦しそうなジマの声が聞こえる。

 赤玉がゴトーにさすまたを振り下ろした。ゴトーの右手に命中し、手の甲が地面に押しつけられる。

 赤玉が近づきゴトーの右手から伸びる糸を手で作った輪っかで握る。さすまたの刃の角度を変えてから、手元に引く。一瞬の間の出来事だった。

 ゴトーの糸の輪がほぼ全て切られ、残骸が周りに広がっていく。ゴトーは一度立ち上がって、後ろ向き、仰向けに大きな音を立てて倒れた。

 そこでやっと検査衣の男が前に出た。影の仲間の一人が肩を叩き、ハサミを渡してきた。ジマと決着をつける時が来た。検査衣の男は今までに感じたことのない興奮を感じた。

 ジマが手探りで地面に転がっていた自分の銃を右手で拾うと、寝転んだまま検査衣の男に向かって引き金を引いた。

 バンッ! 弾は出ない。銃が爆弾のように暴発した。ジマの右手の手首から先が全て吹き飛んだ。痛みに悶え、白目を剥く。今にも気を失いそうになっていた。

「ここまでとは……」

 八の字糸の男が驚き、笑っている。それから検査衣の男に向かっていく赤玉へ指を差し、次のように言葉を発した。

「汝、愛なき愛の糸を解放す……」

 赤玉が動きを止める。糸の球体が丸ごと少しずつ上に向かって上がっていった。

「ぎゃーっ!」

 赤玉の中から出てきた男が叫び声を上げる。

 本当に生きているのか疑いたくなるような、干からびた肌をした死体のようなものがそこにいた。

「動くな。口を開くな。」

 八の字糸の男がミイラ男に命令した。手を下ろすと同時に赤玉の上昇が止まる。ミイラ男は何も言い返さない。必死に右手を天井に向かって伸ばし、輪から小指が外れないようにしていた。

 次に影が仲間に何やら指示を出す。床で倒れたままのジマを改札階内にあった担架を使い、二人がかりで持ち上げると、下のホーム階へ続く階段の方に向かって進み出す。検査衣の男も続こうとしたが影が立ちはだかる。

「先にそいつと戦ってもらう。考え方もやっていることも正しいが俺の仲間の脅威、恨みの対象となってしまった男だ。降伏させ、愛を放棄させるだけでいい。」

 影が八の字糸の男を手で指し示しながら言った。また、「お前が死んだら、俺が責任を持ってジマを始末する。」と言い残して階段を降りていった。

 八の字糸の男は影に向かって一度指を差したが、すぐに止めて「おもしろいおもしろい。」と今まで以上に大声を出し、笑って、今度は検査衣の男を指差し、「汝、死より窘む、男を思ひ、解放、かいほー、解放せよ……」と言った。しかし何も起こらない。

「やっぱりこんなんじゃダメか。」

 八の字糸は目を瞑り、ぶつぶつと呪文を考え始めた。

 検査衣の男は、階段の方を見た。人が密集し、突破できるとは思えない。八の字糸の男の方へ歩き出すと、ゴトーが折れた左手で足をつかんできた。

「無駄死になんかしないで下さい。ここで逃げてもジマはあいつが殺します。戦う必要がない。もう、あなたしかいないんです竜斗さん! あなたのお母さんも香澄もいない。紅に味方なんていない。あなたの味方はこの世には残ってない! あなたは、あなたは生きないと!」

「でも感じるんだ。立ち向かえと言ってる。」

 検査衣の男がしゃがみ左手をゴトーの肩、右手を自分の胸の辺りに置いた。

「聞こえるんですね? 糸の意志が。良かった。本当に良かった。それならもしかしたら……」

 そう言って、ゴトーは息絶えた。足をつかんでいた左手が地面に落ちる。小指の先が少しえぐれるように切り落とされていた。

 誰もゴトーを助けようとはしない。ゴトーがそれを望んでいないのかもしれない。検査衣の男が首に触れる。脈が完全に止まっているのがわかった。天井を見上げたゴトーの表情は満足げに微笑み、冷たく、固まっていた。

「時間を稼げロバー!」

 八の字糸の男がミイラ男に言った。ロバーは右手を上げたまま、左手でさすまたを握り、それを地面に引きずりながら、少しずつ検査衣の男の方に近づいてきた。

「この糸は全て、悪人たちから奪い取ったものだ。」

 ロバーが検査衣の男に話し始める。

「凶悪犯、汚職警官、悪徳政治家、どいつもこいつもクズばかり。傷をつけたり、殺しはしてない。物理的な罰は法に任せればいいさ。それ以外で、俺たちに出来ることがある。一番に、そいつらの赤い糸を切ることで繋がっていた相手を救える。その者がまた別の誰かと運命で繋がればいい……お前にも思い当たる節があるんじゃないか? 羽嶋菜緒のために赤い糸を切った。鈴木京平のために赤い糸を切った。違うか?」

 検査衣の男は答えない。

「お前も俺も、変わらないんだ。ただ上には上がいて……俺は家族を巻き込まないためにこうやって戦っている。ジマの言っていたことを聞いただろ? あいつは平気で関係のない人を巻き込む。」

「お前もあいつに賛成してただろ!」

 検査衣の男が怒鳴る。ロバーは首を横に振った。

「演技さ。ジマの機嫌を損ねるわけにはいかない。あいつの怒りは赤い糸で防ぐことはできない。テイラーも同じ。二人には共通点がある。テイラーの場合はペストだ。」

「それは、何の話だ?」

「あいつら二人は死の伝染病の中を生き抜いた。自分だけが生き残り、周りの人間か死んでいく。常人なら気が狂うが、二人は違う。優越感に浸っていた。さっきジマが言っていた通り、『自分は生き、幸せであると実感する。』というやつだ。この話で重要なことは、俺がやつらとは違うってことさ。俺は関係のない人は巻き込まない。入念に調べ、悪人だけを黒き世に導く……」

 検査衣の男がロバーに指を差す。

「待て! 何やってるんだ!」

 ロバーが泣きそうな声で言う。

「石井久美子の赤い糸を解放する。」

 検査衣の男がそう言う。ロバーに何かが起きた気がする。

「武内奈々の赤い糸を解放する。」

 また、まだ見えてこないが確実に何かが起きた。

「待て! 協力しないとあいつには勝てないぞ! 俺を殺すな!」

「藤澤由美の赤い糸を解放する。」

 検査衣の男が言い終わると、ロバーの赤玉のところどころが再び上昇し始めた。差した指を下ろしても止まることはなかった。全体が乱れ、崩れていく。

「そいつらの糸だなんて知らなかった! 本当だ! 信じてくれ!」

 ロバーが叫ぶ。

「誰の糸はいいかとか、悪人のだけを狩るとか、お前の言い分なんて凄いどうでもいいよ。オレはオレの物差しで判断するだけ……だから菜緒の友達の糸は逃したい。」

「誰の糸か見てわかるのか?」

 八の字糸の男が驚いた様子できいた。検査衣の男は「聞こえる。」とだけ答えた。

 ロバーは説得を諦めて、右手で糸の乱れた箇所をつかむと、左手のさすまたで自分の糸を切り始めた。菜緒の友人らの糸は全て外側にあったが、ロバー少しでもいつもと違う動きをする糸を全て切り落としていき、結果、ほとんど残らなかった。巨大な赤い鳥が羽をむしられているような光景だった。

「お前の糸をよこせ! 俺が暁になる。」

 ロバーがさすまたを振りかざした。検査衣の男は「絶対切れないよ。」と言って、左手で右手から赤い糸を横に伸ばし、ロバーに向かって差し出した。

 刃が縦に振り落とされ……空中で粉々に砕け散った。

 ロバーは諦めがつかない様子で、右手で検査衣の男の糸をつかんだが、指が触れた瞬間、完全に動きを止めた。そして「聞こえる。」と呟く。

 ロバーはゆっくり手を離し、地面に膝をついた。気力を無くし、遠い目をして、ただそこにいるだけの存在になってしまった。

「何が聞こえた?」

 八の字糸の男がきく。その声には焦りが感じられた。

「この人に生きていてほしい。」

 ロバーはそう言って泣き出した。地面に大きな涙がいくつも落ちていく。少しして、「貸してもらえないか?」と、検査衣の男が持つハサミを指差して言った。

 検査衣の男がそれを渡すと、ロバーは自分の糸を切った。横向きに倒れていく。

「家族を巻き込まないためっていうのも嘘でしょ? もう全員死んでる。」

 検査衣の男がきいたが、ロバーは何も答えない。

「殺したのはジマだよ。」

 ロバーが目を閉じる。もう一度、大粒の涙が流れ落ちていくのが見えた。


「あいつが自殺とは、信じられない。」

 八の字糸の男が言った。いつからか自分の糸を必死に引っ張り出していて、それに気づかれると「負けた時のためにね。」と説明した。

「道を開けさせたりはできないよね?」

 検査衣の男がきいたが、八の字糸の男は、「力づくならできるけど、ジマをほんとに殺すならこの人数要るよ。」と答えた。

 ちょうどその時、下の階から男女数名の叫び声が聞こえた。早く行かないと……ジマに逃げられたら元も子もない。検査衣の男は八の字糸の男に向かっていった。


「幻覚か?」

 八の字糸の男が言った。地面がへこむ。壁や天井もへの字に曲がっている。近づくほどに二人以外の全て、周りが、空間が大きくゆがんでいくことに検査衣の男も気づいた。

「お前にも見えるのか? お互い同じ異常が起きてる。暁に会うのは初めてじゃないのに。敵意を向けているとこうなるのか……」

 もう一歩も近づけないほどの状況だった。先に道はなく。2人は完全にねじれ曲がった世界で立っていることしかできなかった。

「エレベーターがある……」

 八の字糸の男が言うと、検査衣の男の目の前にもエレベーターのねじれのない長方形の扉が見えてきた。両側が開くもので、八の字糸の男が向こう側から先に乗り込んだ。

「田宮、お前も来い。」

 促され、田宮も大きく一歩進み中へ入った。相手は平気そうな様子だが、田宮は意識が朦朧としていて、横の手すりを全力で握り、気を失わないよう必死になっていた。

 エレベーターは音もなく、凄まじい速さで上昇をし始めた。

 八の字糸の男側の扉のガラス越しに何かが見える。それは古い映画のフィルムを流しているかのようで、段々と鮮明になっていった。

 病院の廊下だ。景色に特徴はないが、糸の映っていない、つまりは過去のもので、さらに田宮と羽嶋が並んで立っている姿があるのでその場所だとわかる。エレベーターを待っているようだ。

 いつのだろう。田宮が思う。二人は手を繋ぎ、見つめ合い、微笑みながら何か話している。

「生きていてほしい。」

 聞こえてくる。口の動きは別の事を言っていたが、確かに声が聞こえる。二人の心の声が。お互いに「この人に生きていてほしい。」と何度も叫んでいる。

 生きていてほしかった。自分が命をかけて繋ぎたかったものが、残したかったものが、どうして……どうして、こんなに自分の望みは叶わないのだろう。

 映像は消え、辺りは急に暗くなり、エレベーター内の小さな豆電球の光が二人を薄っすらと照らしていた。

「……俺が指摘するものじゃない。俺が指を差すものじゃない。お前自身が解放させてやるべきなんだ。」

 八の字糸の男が言う。その通りかもしれないと田宮は思った。

「愛を放棄しろ。このまま黄泉の国まで行く気か? 放棄してくれ。俺にはできない。俺にはその決断ができない。」

 そう続けて言われた。

「自分のことなのに、どうして決められないんだ?」

 田宮がきく。

「俺はだだの死にぞこない。死者。生きた屍。糸は関係ない。言葉の通りのそれだ。死人に口なし。そもそも自分の意見なんてない。だから何も決められない。ガキの頃、ジマにそそのかされ紅になった。俺には赤い糸がないと聞かされて。他全員にあるものがお前にだけはないと言われた。それがどんな気持ちがわかるか? 愛なく生きていけと言われているようだった。それなら人間をやめてやろうと、それが俺が決めた最後のことかも。ロバーのように奪うのではなく、用意された糸をただ巻きつけて、俺は不死になった。黒渦では裏切り者を探す、ねずみ捕りを任されていた。ちなみにロバーは羽嶋のようなぽっと出の新参者を狩るのが仕事だったよ。まぁ紅の奴なんて大抵がクズだったから糸を切るのもわけなかったね。何をして、何をしなかったかは置いといて、十二の時には完全にジマのような人間になっていた。ただその年、朝起きたらいつの間にか赤い糸が出てた……」

「何の話を聞かされているのかわからないんだけど……」

「いいからいいから。俺はその年から自分の運命の相手を守る為だけに生きた。20年間、相手のいる街、故郷を紅から守り続けた。相手が成人してから会いに行って、正直に全てを打ち明けた。糸の存在、自分に赤い糸がなくて絶望したこと、自分の罪、それからのこと。全部。そしたらあいつはこう言った。『分かったよ。何となくはね。』って。おもしろいだろ? そうして俺たちは結ばれた。」

 そこまで言い終えた時、またエレベーター内の明かりが灯った。田宮の正面側の扉には何も見えなかったが、背後の扉には先ほどと同じように過去の映像と思われるものが映し出されていた。それを八の字糸の男が指差す。

 そこには今より若い八の字糸の男と、車椅子に座る老女がいた。九十才くらいで、痩せ細り、見るからに衰弱していた。二人もまた、エレベーターを待っていた。

「妻は紅にはならなかった。」

 さっきまで楽しく思い出を語っていた八の字糸の男が、今度は急に落ち込んだ様子で映像を見つめていた。

「声が聞こえる。」

 田宮が言うと、八の字糸の男は聞きたくないとそれを拒んだ。八の字糸の男の妻はもう話をする気力も残っていないようだったが、田宮は確かに夫への伝言を受け取っていた。

「俺にはまだあいつの為にしてやらなきゃいけないことがある! 子供たちや故郷や、思い出を守らなければいけない!」

「故郷はもう誰も手出ししない。家族だって誰一人、紅にはなっていないだろ? 黒渦にも入っていない。」

「そうだ! それは俺が奴らを遠ざけていたからだ! 妻が俺にそうさせてる! 自分たちの赤い糸も切って使うように言われた。俺に少しでも長く家族を守らせるためだ!」

「そうかもしれないけど。奥さんはあんたに……」

「言うな!」

 八の字糸の男が田宮に背を向けて、扉をこじ開け、外に飛び出した。その先の何もない世界へ。


 暗くて何も見えない。何もない。エレベーターも消えた。地面だけはあるようだ。前に進むことはできる。ただ田宮は状況を理解できなかった。

「宇宙は暗いんじゃない。黒いんだ。」

 八の字糸の男が言った。目の前にある全て、進んでも永遠と続く闇の正体は、黒い糸だった。

「田宮! 俺は上に行きたい! 邪魔しないでくれ!」

 何をしているか見えなかったが、田宮も上に上がる唯一の方法を実行した。

 右手で輪を作り、糸をつかみ、ぶら下がる。糸はゆっくり上昇していた。百メートルほど上がると変化があった。糸は横向きに大きな八の字型の渦を描いて進み出した。中心部へ行って今度は広がっていき、また別方向へ八の字を描いた。その繰り返し。終わりはないと悟り、田宮は一か八か左手を右手より高く伸ばし、そこで糸をつかもうとした。無数の赤い糸に触れた感触があったような気がして、しっかりと握り直す。そして、はしごを手の力だけで登るように上を目指した。


 上の世界は赤みがかった白い霧が立ち込めていた。地面が全て赤い糸だ。八の字の渦が真っ直ぐ平らに、限りなく広がっている。その地面の下から透けて上がってきたわけだが、今は落とす様子はなく田宮の足を受け止めていた。周りには果樹園のように等間隔で木が前後左右永遠と先の方まで生えている。赤い木で、糸が連なってできていた。形はバオバブの木に似ている。太さが数十メートルあり、高さも二、三十メートルはあるが霧で先端まで見えなかった。田宮は自分の右手の糸もその木と繋がっているように思えた。

 今、もう一本の赤い糸が田宮に近づいてきていた。

「言葉を聞くよ。ただ、あの男を放ってはおけない。」

 八の字糸の男が指を差した先には、テイラーがいた。

 

 テイラーは手に持った切れた赤い糸を地面の渦の中心に田植えのように刺し入れていった。糸は中心に引きこまれていく。

「あいつが黒渦のトップでいる理由があれだ。黒い糸の使者をしてる。」

「黒い糸を作っている?」

 田宮が八の字糸の男にきいた。

「そうだ。しかも、普通の糸じゃない。普通は一定数赤い糸から自然と変化して黒色になっているが、あいつは愛を引き裂いた糸から黒い糸を作っている。」

「何のために?」

「歪んだ糸ができるからさ。違和感を感じる糸、外したいと思うような。ただ生には固執して、結局紅になる。歪んだ糸から解放されても、違和感は消え去ることはない。その者は自らの存在を持続させる為だけに生き続ける。ロバーみたいに。」

「これ……全部幻覚だろ?」

「だったら尚更、俺はあいつに勝負を挑む……」

 八の字糸の男がテイラーと向かい合う。テイラーはスロー再生された映像のようにゆっくり、相手の方を見て笑い、何かを呟いた。

「言ってくれ!」

 田宮にそう叫ぶと、次の瞬間、八の字糸の男は跡形もなく消滅した。幻覚から元の世界に戻ったのではなく、殺されたのだと感じ取れた。

 田宮が身を構える。赤みがかった濃い霧の塊のようなものがすぐ横に流れてきた。田宮はそれに向かって、「じっとあなたを待っています。」と言った。

 それを機に無数の霧の塊が集まり始めた。

田宮の背後から現れ、テイラーの前に立ちはだかる。

「逃げて。」という声がして、田宮は発作的に羽嶋の名を叫び、呼んだ。ここにいるのかもしれない。もしそうだとしたら、どこにも行かない。ここで永遠を過ごしていいとさえ思った。

 しかし声は地面の遥か下の方から聞こえた。どうしてか分からない。自分は今、意識を失って幻覚を見ていて、取り残された肉体の方が声を受け取っているから、こんな風に聞こえるのだろうと無理矢理結論づけた。

 霧の塊が時間を稼いでくれていた。テイラーは鬱陶しそうに手でそれを払いのけている。

ガン、ガンと低い音がする。田宮が上を見上げると、霧で覆われた空の中から六本木ヒルズくらいの巨大な何かが落ちてきた。地面にぶつかると凄まじい轟音と衝撃が伝わってきて、田宮は数十センチほど体が浮き上がって、そのまま転んでしまった。その物体は地面に突き刺さり、そのまま沈み始めていた。

 それは筒状の糸巻きだった。羽嶋が持っていたものだ。田宮は急いで立ち上がり、その中心の穴を目指した。もう何度か羽嶋の事を呼んだが、何も変化はない。

 それなら羽嶋はどこにいて、自分の糸はどこに繋がっているのだろう。そう疑問に感じながら、田宮は完全に沈み切る前の糸巻きの筒に滑り込み、下へと落ちていった。


 目を覚ますと、目の前に八の字糸の男の亡骸があった。自分の胸に向かって右手人差し指を当てていた。

 その階には他に誰もいなくなっていた。急いで下へ降りると、ホームに積み重なった大量の死体の上に、目を閉じて悶えた様子のジマが手を肩の辺りまで上げて立っているのが見えた。吹き飛んだはずの手は、小指にあった赤い糸の輪が変形して、五本の指の先まで復元していた。小指に余った大量の糸を巻きつけた変な手袋をしているように見える。それを飛び回る羽虫を払うように振ると、宿主から離れて周りに散乱していた赤い糸が全て黒色に変わっていった。黒い糸はその場に留まり、ジマの周りをゆっくりと漂っていた。

「証拠は揃った。奴はテイラーを凌ぐ存在だ。こんなの知らない、見たことがない。早く支部に繋いで、二重螺旋を寄越してくれー!」

 田宮の近くで、影が携帯電話に向かって叫んでいた。取り巻きは四人しか残っていなかった。

「勝てない……」

 田宮は影に尋ねるつもりだったが、それはほとんど断定した、独り言のようなものになってしまった。

「時間を稼ぐしかない。協力しよー、なっ?」

 影は田宮の背後に回り、背中をジマの方へ押した。

 田宮はジマに指を差し、唱えた。

「汝、愛なき愛の糸を解放する。」

 ジマの赤い手がガタガタと震え、膨張を始めた。でもすぐにジマがその手を一度大きく開いて、力強く握るとその異変は何とか収まっていった。

「私は生きる。なぜわからない? そう約束されているんだ。私は黒い糸に選ばれた。負けるわけがないんだ。」

 ジマが赤い手を田宮に向かって、丸いドアノブを捻るような動きと、また振り払うような動きをした。それからその指を回し始める。何かが天井から降りてきた。黒い糸の渦だった。

 逃げるべきだ。田宮は分かっていても動けなかった。ゆっくりと何かがやって来る。漂っていた黒い糸が集合してこちらに向かってきていた。幻覚の中で見た霧の塊のようなものだ。

 それは田宮の前で止まり、広がっていった。人の形に変わり、顔と思われる位置に先程の黒い渦があった。声を出さずに何か言葉を叫んでいる。赤い糸のように上手く聞き取ることはできなかったが凄まじい大きさの悲鳴が頭の中に響いた。

 その人形は田宮の右手の糸をつかもうとしていた。もう避けることはできない。死ぬ、そう思った。

 四本の赤い糸が視界に入ってきた。田宮の右手で螺旋を描く。人形はその螺旋を透けることが出来ず、弾かれたような反応を見せた。田宮の糸は螺旋の糸に完全に守られている。影の仲間たちが自分たちの残りの糸を全て田宮のために捧げていた。

 人形に触れられた螺旋糸は黒く変色していきながら上がっていった。

「みんな間違っている。」田宮が言う。「命を繋ぐだけが正しいことなのかよ? それで自分が死んだら意味がないよ……」

 人形が動きを止める。首を傾げ、田宮をじっと見てから、後を振り返る。ジマをさらに長く見ていた。田宮にはその人形の正体が何か分かる気がした。

「ジマはあなたと一緒に死なせてやるべきだった。」

「そいつの言うことを聞くな!」ジマが叫んだ。人形はジマの方へ戻っていく。「これを見ても、お前は同じことが言えるのか! これが、何より大事なものではないのか? 自分の命よりも!」

 また指を回し始める。黒い糸の渦が降りてきて、ジマの手の上に収まった。

「ダメだ!」

 今度は影が叫んだ。首を振って何度も連呼する。それだけはダメだと。

「私ならできる。肉体も魂も寿命も全て、いつか元通りにしてやる。条件は、今ここで愛を放棄すること。羽嶋のために。この私に敗北を認めろ。」

 影はまた電話をかけながらどこかへ姿を消した。田宮の決断を恐れているようだった。

「触れさせてくれ……」

 田宮が左手を伸ばす。ジマが手首を捻ると、黒い糸の先端がこちらに向かってきた。左手で作った輪でそれに触れると、間違いなく羽嶋のものだと感じ取れた。

 微かに何かが聞こえる。目を閉じて、それに集中する。羽嶋の声だ。

 目を開けると目の前にジマがいた。左手で胸ぐらをつかまれた。

「愛を放棄しろ!」

 ジマは言ったが、田宮は首を横に振った。

「できないのなら死んでしまえ!」

 引きずられて、頭をホームから線路側に飛び出したところで地面に押さえ込まれた。

「お前と、数百人の乗客、どっちの運命の方が強いか見てみようじゃないか!」

 田宮は一切抵抗しなかった。電車が向かってきている。

「直前で止まって、二重螺旋が降りてくる。」

 田宮が囁き、それが現実となる。何の変哲もない在来線が現れ、急ブレーキをすると、田宮の顔のちょうど真横で停止した。ジマがケタケタと笑う。

 見ると、運転手は駅員ではなく、黒いスーツを着た男だった。先頭車両の扉だけが開いて、中から、運転手と同じ格好をした男が十人弱降りてきた。全員が八の字の糸をしている。その中の二人が、車椅子を二台引いてホームに降り、その車椅子をこちらに向かって並べて停止させた。十七、八の若者二人がそこに座って眠っていた。互いの左手の赤い糸は最短で結ばれていて、右手の赤い糸も最短の距離まで伸びており、ただその位置で小さな二重螺旋を描き、浮上していた。二人とも巫女の姿をしていて、女性に見えた。

「あり得ない……」

 ジマが後退りをした。人形がジマを守るようにその集団の前に立ちはだかる。スーツの男たちも巫女二人を守るように前に出てきた。

「その人に手を出すな!」

 そう言ったのは田宮だった。人形を傷つけて欲しくなかった。でも争いを止める権限は田宮にはない。人形は、一斉にジマに指を差す男たちに襲いかかり、一人残らず男たちの命を奪っていった。人形に触れられた者は、八の字の糸を一瞬で解ける黒い糸に変えられていた。人形は攻撃する度に、顔の糸が折れた針金のように変形していき、弱っていった。もう元には戻れない。この人形は消滅すると思った。

 ジマは右手の膨張を何とか封じ込めようと躍起になっている。自分の怒りをコントロールすることが出来ていない様を見せられている。そんなふうに思えた。田宮は右手で思いっきりその顔を殴った。ゴトーの時のようにはならない。つまり、ごく普通に田宮はジマを殴り飛ばした。ジマは地面に倒れたまま、唖然としていた。現実を受け止められないでいるのだ。

「母親を助けたいんじゃないのかよ!」

 田宮が言うと、ジマは人形が致命傷を負っているに気づき悲鳴を上げて泣き出した。

 人形は巫女の方へゆっくりと進んでいた。田宮の肩の辺りに、ジマが呼んだ黒い糸の渦が近づいてきた。田宮はそれに頷いて、人形を呼び止めようとした。

「待て! 二重螺旋が全て終わらせる!」

 影が戻ってきていた。巫女二人が目を覚まし、ゆっくり笑い始めた。田宮にはそれがテイラーのあの笑みと同じように見えた。

 ジマが立ち上がって、人形の元に駆け寄り、左手と、触れることのできないはずの右手でも人形をつかみ、巫女から庇うように抱きしめた。

 巫女二人がそれぞれ左手の指をジマに向けて、バラバラに二つの呪文を唱え始めた。田宮がジマと人形の前に出て、巫女の正面に立った。影が離れたところから、身振り手振りで田宮をどかそうとしている。

 物凄くゆっくりと、何か目には見えない衝撃波のようなものが向かって来ていた。それが通った後、床にモザイク状の歪みが生じた。

「本当にいいの?」

 田宮が、そばにいた黒い糸の渦に尋ねる。渦は何か返事をしているかのような動きを見せて、その後大きく広がっていき、田宮の前で衝撃波を受け止めた。

 黒い糸は干からびて死んだ針金虫のようになっている。遅れて風圧だけが到達し、田宮は後ろ向きに吹き飛んだ。

 仰向けに倒れる。天井と赤い糸が見える。上に向かって一直線だった糸は段々と角度がついていった。そして、間もなく、ほぼ横一線になる。

 田宮は立ち上がって、床に落ちている黒い糸を左手でつかみ、顔に近づけていった。唇が触れた瞬間、糸が息を吹き返したように、浮上を始める。赤く染まりながら。

「命の糸が愛に変わる……」

 影が呟いた。黒い糸は田宮の左手小指に繋がって、そこから大きく一度波立つような動きをしながら、右手の糸と同じ方向に向かって伸び始めた。

「お前も二重螺旋になるのか? でも誰と……」

「羽嶋菜緒。」

 田宮が影に答える。

「羽嶋は死んだだろーよ……」

「死んだんじゃない。繋いだんだ。やっとちゃんと分かった。オレたち二人の愛を繋いだ。菜緒は正しかった。」

「全く分からないよ。でもまぁ、おもしろい、おもしろい……」

 影が静かに言う。また足音が聞こえ、暗闇から影の仲間たちがまた二百人ほど現れた。

「ジマを殺す。」

 影は田宮に対して言った。田宮が抵抗すると分かっていたから。どちらの糸も目的地に到着するまでしばらく時間がかかる。巫女からもう一度術を出されたら防ぎようがなかった。

 田宮は呪文を唱え始めた巫女の目の前まで行って、両手を使い二人の額にでこぴんをした。二人は同時に唱えるのをやめて、額を擦り、二人一緒に、「痛い。」と言った。

「この島のことはオレがどうにかするから、テイラーをどうにかしろよ。」

 二人は顔を見合わせて、「うん。」と頷いて、お互い左手を前に差し出す。田宮がそれを右手でつかむと、二人はぴょんっと立ち上がり、手を繋いでスキップをしながらどこかへ行ってしまった。二人の赤い糸は車のライトの残像のように田宮の元から二人の行った先に伸びていた。

 影の集団が近づいてくる。赤い糸が握られた手をそのまま横に振ると、そいつらは後ろに吹き飛んだ。

「この人たちとだけで話したいんだ。亡くなった人を連れてどっかに行ってくれ。」

「お前は正しいのか? 運命が味方していればお前の行い全てが正義になるのか? 間違ったことは一度もないのか?」

 影はそう言いながらも、周りに撤退を指示していた。電車も前進をして、視界から消えていき、ホームは薄暗くなっていった。

「余計なことは考えないことにしたよ。初めに菜緒との糸を切った時も色々考えてたけど、結局のところ結ばれたし。やりたいようにやってもいいんだ。一人一人、目の前の現実と向き合って正しいと思うことをすれば、それだけでいいはずなんだ……」

「ジマにも同じことが言えるか? その人をやめた怪物にも。」

 影は一人残っていた。

「オレには同じ人間に見える。人を愛せる人に。」

 ジマは膝をついて、朽ちていく母親を抱えながら震えていた。。

「そーか。本当にお前が、ジマに勝てるなら。そういうことならジマはお前に任せるからな。死ねない体、死者と結ばれ、糸の声を聞く、お前は無敵なんだからよ。」


 ジマに近づき、田宮は右手を前に差し出し。そこにはまだ巫女の糸が握られている。

「これはお前を滅ぼすことができる糸。これで、お前の負けだ。……まだ、自分は黒い糸に選ばれたと思うか? 違うだろ? 認めろよ、お前は何も特別なものは持ってないだろ?」

 ジマは悔しそうに首を横に振った。田宮が左手で殴りつける。それを見て、人形が残った力を振り絞って小さく悲鳴を上げた。とても哀れな姿だった。

「お前には何の力もない。あったのはその人の力、母親の愛だけだ。」

「違う……」

「いいや違わない。お前だってよく分かってるはずだ。怒りなんて表面的なものでしかない。お前は母親の愛を繋げるために生きてきたんだ。」

「何を言っているのか私には分からない。」

 田宮が右手を振り上げる。人形が動き、手をそれに向かって伸ばす。巫女の糸ではなく、田宮の右手の糸をゆっくりとつかんだ。糸は変色しない。攻撃が目的ではなかった。人形は引っ張って伸ばした糸をジマに向かって差し出した。

 ジマは赤い右手でそれに触れた。諦めたような、満足したような顔をした後、右手を広げて上に向けた。

「私は……私もこの人に生きていてほしかった。ただそれだけだったんだ。」

 そう言い終わった時には顔から生気が失われていた。右手の糸が全て浮上し始める。人形もそれについて行った。寄り添い、同じ場所に向かって旅立ったのだ。


 ジマの服を奪って着替えた後、ポケットに入っていた財布から取った金で東北新幹線に乗り、盛岡を目指した。駅から伸びた道をひたすら進み玉山へ。そこは道路こそ舗装されているものの、周りには三、四百メートルおきに家か小屋がぽつぽつと建っているだけだった。田宮はその一軒に入っていった。家の横に数頭の黒い牛が、簡単な作りの木枠の中で積み上げられた穀物を食べている。家の裏はだだっ広い草原になっていて、2キロ程先が森。木々のざわめきが遠く聞こえた。

 家の中に入ると、老婆が食事の支度をしていた。丸いお盆には既に三人分のおかゆが用意されていた。

 老婆は田宮に気づくと、「ごはんはもっと後にしましょうねぇ。」と言って、奥の部屋に案内した。畳の部屋、小さな裸の電球が点いていた。田宮は目の前の光景をまじまじと眺めた後、力が抜けてゆっくりと膝をついた。介護ベットの上に羽嶋が寝ていた。布団の上に出された右手の上に螺旋状の赤い糸が見える。一方は天井へ、もう一方は、羽嶋の右隣に置かれた椅子の上に座る男の右手から伸びていた。男はずっとその場所でじっとしていることしかできないのか、髭や指の爪が伸び放題になっていた。小さい声で、「心は海、顔は花、身体は風……」と訳の分からないことを繰り返し呟いている。

「田宮悠斗……」

 田宮に気づく。その男は鬼のような顔をしていた。



「俺が先に目覚めて、ジマにとどめを刺そうと思った。でもしなかった。もっと重要なものがあった。目の前にもやのようなものが見えて。俺はそれが妻だと分かった。その姿を追って、永遠と走り続け、一人で船に乗り、気づいたらこの子を助けていた。自分のことだが、まるで落ちてくるのがわかっていたかのようだった。螺旋を発動させ、意識は戻らなかったが延命はできた。それから北上してここへ……どうして、俺はこの子を助けたんだ? 訳が分からないんだ。知っているなら教えてくれ。」

「何となく、だと思う。」

田宮が答えると、鬼顔は「そうか……」と静かに言った。一人で二人分の命を生かしているからか、鬼顔の意識はどこか朦朧としていた。

「お前の糸はどうなってるんだ? 左手も、もう新しい相手を見つけたのか?」

「まさか。遅れてるだけだよ。どっちの糸も時期にここへ来る。」

「信じられない。じゃあこの子は、本当に助かるのか。いや、間違いなく助かるんだな……それは、良かった。」

 田宮は自分の糸を待ちながら、これまでのことを鬼顔に話した。八の字糸の男と行った世界のことに興味を引かれているようだった。

「俺がそこに行ってテイラーを殺し、黒い糸の使者になる……」

「本当に望んでいるのはそーじゃないでしょ。」

 鬼顔は少し驚いた後、頷きながら笑った。

「あぁ、そうだ。そこへ行って、もう一度妻に会いたい。そこで永遠に妻といたい。」

 そう言うと右手小指の糸の輪が指先に移動して、一度中心に集まり、再び開くと八の字型になっていた。

「見える……ゴンドラがある。俺は、行くよ。」

 鬼顔は自分の胸に左手人差し指を置いて、目を閉じた。老婆が「お迎えになりましたか?」と言いながら部屋に入ってきて、鬼顔の右手の方に両手を重ねた。そして、その上に、羽嶋の右手がゆっくりと置かれる。その小指の先から糸が今まさに伸び始めていた。羽嶋が目を覚まして、布団の中から左手を出し、それを田宮に差し伸べた。そこにも赤い糸が見える。運命で結ばれた二人を繋ぐその糸が。

 田宮はゆっくりとその手を握った。指輪が触れ合って音を立てる。田宮の指輪は表面が剥がれ、傷だらけになっており、羽嶋の指輪と見比べるとかつて同じものだったとは思えないほどになっていた。

「生きていて……」

 羽嶋の声が聞こえた。

「生きていてくれてありがとう。」

田宮が聞きたかった、本当の声が聞こえた。


 その家の電話を借りて、親戚経由で連絡先を教えてもらって、羽嶋は両親へ復活した旨を報告した。両親は二人とも「分かってた。」と言った。田宮から連絡を受けて、娘が死んだことも、こうして生き返ったことも分かっていた、と言うのだ。

 食事や入浴もさせてもらい、服も老婆から家にあるものをもらうことになった。田宮は白いシャツと黒いカーゴパンツ。羽嶋は白いワンピースを選んで着た。

 外へ出て、二人で草っぱらの上に立つ。二人とも裸足だったが、地面は整備された球場のグラウンドのように清潔で柔らかかった。

「糸まだ来ないの? 発動させる場所、ここで良かったんじゃない? 一回切ってやり直す?」

 羽嶋は永遠と冗談を言っている。

「切るって言った? お前ほんとに菜緒? 姉さんのほうじゃないの?」

「お姉ちゃんの事こんな待たせたら、悠斗は間違いなく半殺しにされてるよ。」

「姉さんはそんなことする人じゃないでしょ?」

「お姉ちゃんはしないよ。私がやる!」

 羽嶋が田宮の首につかみかかろうとする。田宮はそれを避けて、逃げようとしたが腕をつかまれて二人ともバランスを失い、その場に転んで、仰向けになった。

「右手を見せて。」

 田宮が言うと、羽嶋は空に向かって右手を伸ばした。右手の糸は『暁』になっていた。

「おもしろいもの見せてあげる。」

 田宮がその右手を自分の右手で握って、そのまま少しだけ右から左へ二人の手を移動させた。回されたルーレットのように空が高速回転して、昼と夜を繰り返した。太陽や月、星の光が何重にも半円を描いていく。

「黒き世に……」

 視界は光に包まれていたが、羽嶋はそう言った。田宮が見ているものとは違う景色が見えているのかもしれない。

 回転する空の中心部から赤い糸がこちらに向かってきていた。空から斜めに伸びた糸で、二人の間までたどり着くと、羽嶋の糸と交差し始め、空に向かって二重の螺旋を作っていった。

 二人は立ち上がり、もう一方の糸を待った。空は東西が赤みがかっていてそれ以外はほとんどが白く見えた。ホワイトホールのようだと、田宮は思った。

「永遠って何だと思う? もし私たちにそれがあったとして、私たちにとってこの世界なんて一瞬の間のことに過ぎなくなっちゃったらどうする? ふと気づいたら人や生き物がみんないなくなっちゃってたらどうする? そんなの永遠なら私、欲しくないよ。」

「永遠は、オレたちが勝手に解釈して都合よく利用すればいいさ。いいところは永遠、悪いところは永遠にしなければいい。それでも世界が一瞬で、みんなの命も一瞬だって言うなら、その一瞬を大事にするしかない。目の前の幸せや儚さを感じられていれば、オレたちは大丈夫だよ。」

「それなら尚更そばにいないとね。私も悠斗も鈍感だし、私はあんまりいい人間じゃないから……とにかく、よろしく頼むよ。これからも、ずっとね。」

 二人は向かい合ってキスをした。いつの間にか、待っていた赤い糸がもう既に現れていた。左は最短距離で繋がり、右は最短距離の位置で二重螺旋になっていた。こんなにもすぐに短くなるとは思わなかった。永遠を過ごしてしまったのかと錯覚したが、初めからどちらも最短の糸になろうとしており、途中田宮に追い越されてからは短くなりながら近づいてきていたのだと、そう田宮は結論づけた。


 一週間後、二人は学校にいた。警察からの指示でまだ通常通りの登校は出来ず、この日も来た時には下校時刻になっていた。

 鈴木、藤澤、武内、三田と一緒に花束を持って階段を登っていく。屋上へ行くための扉は今現在鍵が閉まっていた。田宮がそこを指差すとどこからか飛んできた赤い糸の切れ端がドアノブの中に入っていき、間も無くその取っ手が床にコテッと音を立てて落ちた。扉は風で勝手に開いていく。

「三田の家ってどこだっけ?」

 花を供えてしばらく雑談をした後、武内がきいた。全員が「えっ?」と同時に聞き返した。

「いや、同じ電車なら一緒に帰ろうかなって。鈴木は由美は別方向だし。このヘンテコ二人は迎えが来るでしょ? だから……」

「ごめん。歩いて5分。電車乗らな……」

 バチッと、三田が言い切る前に羽嶋が額を叩いて、「家まで送っていけ。」と命令した。

 三田はそうだという顔をして、「免許取ったし、親の車で送るよ。」と武内に伝えた。武内は「やったぜ。」と照れを隠すようにふざけた声で答えた。

「やったぜ。俺たちも送ってもらお! 武内の後でいいし……」

 鈴木がそう言った後は、藤澤が鈴木の額を軽く叩いた。ただ、藤澤の一発は優しすぎて何の音もしなかった。

「私たちは駅でパフェ食べるんで! そうでしょ?」

 藤澤が鈴木を睨むと、鈴木は「そーだった、そーだった。」と言い、頭に手を置いて笑っていた。


 各々が帰っていき、田宮と羽嶋だけがそこに残った。

「高校卒業したら人の少ないとこに行きたいな。」

 羽嶋が辺りを見渡しながら言った。

「オレは菜緒と一緒にどこにでも行くよ。ただ……糸の奴隷がまだいるならどうにかしたい。それで、探して助けに行ってってなると家を空けることが多くなるかも。」

「探さなくても、行かなくても、ここで指示出して解放させられるよ。」

 羽嶋はそう言って、左手を顔の位置まで上げた。空から何千、何万もの赤い霧の塊が降りてきた。糸で黒かった景色にその霧が重なり、視界は真っ赤に変わっていった。

「オレ、その力知らないんだけど……」

「私だけの力です!」

 羽嶋が誇らしげに言った。

「そうか。じゃあ菜緒が力担当。オレは頭脳担当で、被害者のアフターケアに回るよ。」

 田宮は半分冗談、半分本気でそう話した。羽嶋から返答がないので怒っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。羽嶋は一点を見つめていた。田宮もそちらを見る。

 羽嶋より視力が良かったので、それが何なのかはっきりと分かったのは田宮が先だった。

 誰もいない校庭に二人、男と女がいて、こっちの方向に向かってきている。その男女には赤い糸がなかった。黒い糸が両手から出ている。黒い糸で結ばれ、黒い二重螺旋を持つ二人が、ゆっくりと確実に、こちらへ迫ってきていた。

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