第四話

 このまま無言に流れ、気まずさを携えた日々を送るのではないか。それほどまでに、長い膠着が続く。

 それをほどいたのは、隣の部屋から響く激しい物音だった。ぎくりと視線を流すと、扉からキクが飛び出してくる。


「魔石を」


 背筋が伸びた。魔力不足を即座に理解したのは、状況によるものだろう。切迫したキクなど稀有だ。最悪の事態を想像できてしまう。

 そして、素早く反応ができていたのはエミリーも同じだった。深い仲違いに気まずい思いをしていたものとは思えないほどに、身が軽い。俊敏に立ち上がったエミリーが、キクの元へと飛び出していく。


「私を使ってください」


 かちりと思考が止まった。

 それだけ聞いても訳は分からなかったが、それでなくても脳が理解を拒んだ。人体を使う、という言いざまは物々しい。

 キクの切迫感にひびが入った。それが俺の不安を煽る。


「私が精霊たちから魔力を受け取ります。それなら、魔力源になりますよね」

「それはそうじゃが」

「エルフが補給できる魔力量はそれなりのはずです」

「だからってすべてを使えるわけではないぞ」

「ですけど、キクさん。魔石の予備はもうありませんよ。キクさんが持ち込んだものだけのはずです」

「……分かっておるんじゃろうな」


 低い。厳かな問いかけに、エミリーは顎を引いた。躊躇わない。その瞬発力に、こちらの心臓がざわついた。

 自分を利用して欲しい。そんな破滅願望が……、と思考がもたげてぞっとする。キクの眼前に立っているエミリーの手首をおのずと掴まえていた。


「……なんですか?」


 底冷えした声が、腕を振り抜こうとする。力強かったが、どうにか押し切った。強引な手つきに、エミリーの顔が歪む。


「無茶するつもりだろうが」

「しませんよ」

「してんだろうが」

「放っておいてくださいよっ!」


 激昂したエミリーの手が離れた。舌打ちが零れる。

 放ってなんておけるわけがない。放置できるなら、そもそもあの夜だって手を出さなかった。そして、知ってしまったらなおのこと放ってなんかおけない。

 か弱いだけではない。強く生きているからこそ、壊れてしまいそうな女の子。放置できるのなら、こんな気持ち悪い思いをしてまで、向き合おうだなんて思いはしない。

 俺は人付き合いがいいわけではないのだ。深い関係を結ぶことなんて苦手だ。遊び人であったということは、その証左となるだろう。

 今更、放っておいてくださいなんて、そんな都合のいいことが許されるわけがない。だったら、あの日。エミリーは俺を放っておくべきだった。拒絶するべきだったのだ。

 噴火する怒りを噛み締める。ぎりっと奥歯の擦れる音が、体内で響いた。

 しかし、エミリーは意に介さない。こちらを視界の外に追い出すように、身体ごとキクに向き直っていた。


「行きましょう。キクさん」

「いいんじゃな」

「ちょっと待て。キク、どういうリスクがあるんだ」

「消耗が激しいだけじゃ。しばらく動けぬと思え」

「……命に別状はないんだな」


 押し殺したようなドスの利いた声が出る。俺の真摯さが届いたのだろう。キクが折り目正しい顔でこちらを向いた。厳しい顔をしているのは、引き留める俺が鬱陶しいのかもしれない。

 俺は現状に見通しが立っているわけじゃなかった。ただ、エミリーが身を差し出そうとしていること。安井の具合が万全ではないこと。それしか分かっていない。それでも、駄々を捏ねる場面でないことくらいは分かっている。

 しかし、今日会ったばかりの少女と、ともに生活しているエミリーを天秤にかけたとき。傾くほうは決まっている。たとえ冷たいと罵られても、その差がない人間なんていないはずだ。

 家族と他人じゃわけは違う。それと同じだ。自分の中のエミリーの順に突如として気づかされた。


「それは問題ない。大丈夫じゃ」

「保証できるんだろうな」


 詰めを抜くつもりはない。俺のしつこさに


「キクウェテさん!」


 と寝室からステリィの声が届く。


「丞さん」


 重ねて促すように呼ばれて、エミリーを睨み殺した。


「保証しよう。もし何かがあったなら、そのときはオレが全能力を賭して完治させることを確約する」

「確かに聞いたぞ」

「魔法使いの契約は絶対だとお前も知っとるじゃろう」


 頷くと、キクはエミリーの腕を取って寝室へと戻った。後は追わない。中に入らないのは、安井とステリィへの配慮だ。よほどの緊急事態であれば解除されるものかもしれないが、今のところ対処法は決定した。俺にできることはない。

 ソファに腰を下ろして、五指を組み合わせて膝の上に肘を置く。かたかたと揺れているのは、貧乏揺すりだった。空気が薄い。さきほどまでのエミリーとの間に生まれていた憂鬱な沈黙のほうがマシだ。

 エミリーには、少しでもつらい思いをしてほしくはない。孤独に慣れ過ぎている彼女の心労が僅かでも目減りすればいいと思う。

 同情だろうか。

 事情を知ってからそう思うのだから、同情でしかないだろう。

 初めから。エミリーと出会ったときから。そして、違和感を覚えていたころから。心を砕いていたのであれば、苦悩せずに済んだのだろうか。それほど簡単な問題ではないのかもしれない。けれど、今俺の心が動いているのは悲惨な過去があったからこそであるような気がして苛立つ。

 エミリー個人。

 純粋に彼女の現在を見て、彼女を心配しているのか。その確証が持てない。心配していることは間違いない。ステリィには非情に思われるかもしれないが、それでも安井よりもずっと優先的に心配している。

 キクの腕を疑っているわけでもない。それでも、もうエミリーがしばらく動けないほどに消耗することは確定的なのだ。

 元来なら、褒められる行為である。誰かを助けるために、身を犠牲にできる。人助けなのだから、名誉ある行動だ。

 けれど、とても褒められる気がしない。尊い行為だと、認めてやれない。エミリーのそれは、とどのつまり自分のことを後回しにしているだけではないのか。その疑念が拭えなかった。邪推であろう。捻くれた視点をなくすべきだ。

 分かっていても、脆くて真っ直ぐなエミリーの姿が鮮明に思い出される。溢れ返って俺のバスローブを濡らしていた滂沱。華奢な体つき。あの柔らかい心根を、守ってやりたいと。独りにさせたくないと。

 貧乏揺すりが激しくなる。遅々として時間が進んでいかない。何度も窺ってしまう寝室の扉は、閉じたまま隔絶されている。内側の様子を窺い知ることはできなかった。静まりかえっている。そして、その沈黙が恐ろしい。

 そうして感情を揺り動かされながらも、現実味が薄かった。

 手術を待つ身でも想像すればいいのか。それが一番分かりやすい気もしたが、残念ながらそんな経験すらしたことがない。

 異世界ではもっと様々な経験をしている。ただ、いつも陥るのは自身を含んだ危機だ。こんなふうに、外部へ置かれることはそうない。見知らぬ誰かの危機に遭遇したこともある。だが、大方の場合、俺たちが手出しできることはほぼ皆無なのだ。

 俺は無力で、概ね自分のできる範囲のことしかやってこなかった。そして、俺はそれを今まで割り切ってきたのだ。薄情であろうとも、これがこの世のやり方だった。俺はこちらに来てから、そうすることを学んだ。

 それはキクたち先人の姿もあるだろう。下手な手出しは、相手の尊厳を踏みにじる。そういった視点も含めて、俺は余計な手出しをせず、自分の身を守ることに終始してきた。無論、客を助けるのは仕事のうちだ。その範疇に収めてきた。

 今回のこれもそこから大きく逸脱はしていない。客を助けている。間違っていない。ただ、その救いのために、班員だけを危機に送り出す経験をしてこなかった。

 この不安は経験のなさによるものか。それとも、エミリーだからか。それすらも判断できずに、胸の靄が濃くなる。

 何にしても、考え続けているのはエミリーのことだけだった。人でなしであったとしても構わない。安井を不安の中心に置くことはできないまま、多くの時間を消費して煩悶した。

 どれくらいの時間が経ったのか。長いようで短くて、短いようで長い。スマホで時間を確認する力もなかったし、時計を見ることもしなかった。経過時間がよく分からない。経過を考えていなかった。

 その上の空の思考を叩き起こしたのは、扉の開閉音だ。


「栄斗」

「……安井さんは?」


 馬鹿らしい上っ面だった。我ながら、胡散臭くて笑いそうになってしまう。キクも顔を顰めたくらいだ。


「問題ない。エミリーをソファに運んでやってくれ」

「ああ」


 頷いて、初めて寝室へ足を踏み入れた。

 そこで何があったのか。既に落ち着いた現場では、俺には計り知れなかった。

 安井は何事もなかったかのように横たえられていたし、ステリィも静かにそこに寄り添っている。拭えない疲労感は見えるが、それが時間経過によるものなのか。この僅かな時間によるものなのかは分からない。

 椅子にぐったりと凭れているエミリーに近付く。……気絶だとは表現したくはない。眠っているそれを抱き上げて、広間のソファに移動した。

 身体が熱を持っている。そろりとソファに下ろして、額に浮いている汗をパーカーの袖で拭った。張り付いているブロンドを手ぐしで整える。瞼を閉じた姿は、健やかな寝顔だ。見える通りの状況だと信じて、息を吐いた。


「栄斗」


 後ろから追ってきたキクが、タオルケットを渡してくれる。エミリーにかけて整えた。身体が隠れると、気が落ち着く。薄手の服装は、やはり改善させたほうがいいのかもしれない。


「……栄斗」

「なんだよ」


 去っていかないキクに視線を流す。その含んだような雰囲気まで、すべてを流してしまえればよかっただろう。


「お前、エミリーとどうなっとるんじゃ」

「どうにもなってないって言っただろ」


 あの夜のことは勘違いさせたままにしてある。真実を開示するつもりはなかった。だからといって、積極的に嘘をつく必要もない。素直に答えたはずなのに、キクは渋い顔になった。


「そうじゃないわい」

「何がだよ」


 エミリーが寝るソファを背凭れにするように、床に腰を下ろす。小さな魔法使いは、まったく小さくない態度でこちらを見下ろしていた。


「身体がどうのという話をしとるんじゃない」

「……他に何があるって?」

「オレの確約を取り付けるほど、気にかけておるんじゃろうが」

「班員の安全を守るのも副班長の役目だろ」

「理屈はええんじゃ」


 すぱんと切りつけられて、眉を寄せる。


「大事にしたいんじゃったら、認めたらいい」

「なんだよ、それ」


 認めている。分かっている。俺はエミリーを大事にしている。それが同情だろうとなんだろうと、事実は揺るぎようがない。それを誤魔化しているつもりはなかった。キクに文句をつけられる謂れもない。


「放っておいてほしいなんぞ、言わせんようにしてやれ」


 痛いところを突かれて、髪を掻き上げた。


「……伝えろって?」

「分かりやすくの」


 重々しく付け足されて、髪を掻くスピードが上がる。

 露悪的な語を選んで刺激した自覚があった。放っておいて、の言い方で、俺の真意が届いていないことは確かだ。いや、届いてないとは限らない。苛立つ、という感情は引き出せていた。

 しかし、それもやめろとキクは言っているのだろう。変に勘がいいらしい魔法使いには苦々しい。


「お前にもそんな気持ちがあったんじゃな」

「……俺のことをなんだと思ってんだよ」

「すかした地球人」

「悪かったな」


 わざとらしく肩を竦めると、呆れたように肩を竦め返される。

 そうしたキクは、そっとエミリーに近付いてきて頭を撫でた。普段は背丈の問題か。エミリーのほうがお姉さんに見える。しかし、こうして愛でるような態度を取ると、キクのほうがずっとお姉さんだ。

 寝顔のエミリーは、あどけなくて頼りない。庇護欲にちくりと刺さる。


「……この子は、孤独じゃ」


 どこまで分かっているのか。俺は知らない。知ろうとも思わなかった。エミリーは秘密にしてくれと言ったのだから、詳細を伝えてはいないはずだ。

 しかし、長生きしてきた異世界人であるキクには、概ね予測が立つものなのだろう。俺が鈍感だっただけだ。ピュイも含め、ある程度は察しているようだったのだから、最悪を想定することはできるのだろう。

 孤独であることを悟るくらいは。


「分かってるよ」

「そうか」


 あっさりと納得されてしまったことが、胸に来る。分かっているくせにそういう態度を取るのか、と納得されたみたいだ。

 言い訳のしようもないじゃねぇか。

 黙り込んだ俺の頭を叩くように撫でて、キクが寝室へ戻っていく。二人きりにされて、天を仰いだ。ただ息を吐き出しただけのつもりが、重いため息になって失笑が続く。ぐしゃぐしゃに掻き乱した前髪を撫でつけて、どうにか体裁を保った。

 何より、エミリーがこうして戻ってきたことに、深く安堵している。呼吸音が耳に心地良い。そばにいれば体温や匂いがある。それを体感して、気持ちが凪いだ。

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