第五話

 そうして、更に一日半。安井が必要としていた三日三晩の残りの日数を、エミリーも同じように寝込んだ。

 そのそばに控える俺に、キクはあれ以来声をかけてくることはなかった。ピュイやブラックには、何が起こったのかを安井のこととして報告してある。それ以上の言葉を望まれることはなかった。

 安井は無事に、ドラゴン化に成功したらしい。だからといって、すぐに動けるようになるわけでもないし、ドラゴンの形状となるわけではないという。寝室に横になったままだ。

 俺は遠慮して、挨拶やその他すべてをキクとピュイに任せた。ブラックはステリィと人型と獣型の変化について話をしていたらしい。分類上は違うが分かり合う部分はあるのだろう。

 俺がこの辺りのことを知ったのは、あいつらが戻ってきてからのことだ。

 こちらにも寝たきりのエミリーがいる。俺は彼女を抱きかかえて、先にキャンピングカーへと戻った。時々目覚めることはあったが、今はまた眠っている。静かに運んで、後部のベッド部分へと横たえた。

 エミリーが使っているベッドだ。布団を持ち上げると、エミリーの匂いがする。それを感じ取っている嗅覚には、苦みがこみ上げた。この数日で手癖となったかのように、ブロンドを梳いて整える。


「んっ」


 呻き声に、慌てて手を引いた。エミリーの瞼がぴくぴくと動き、緩慢に開く。何度か瞬いた瞳の焦点が、ゆっくりとこちらに合った。まだ少し、ぼんやりしているのだろう。幼い顔が状況を問うように緩く傾いた。


「無事に終わったよ。気分はどうだ?」


 低速回転の脳に言葉が行き渡っていくように、エミリーはゆっくりと息を吐く。


「よかったです」


 安井の体調への感想が飛んだ。人がいい。俺が捻くれているだけか。

 俺は安井の消耗具合を念入りに確認していない。する勇気がなかった。もちろん、相当な疲弊と緊迫。精神面も含めて、負担がかかっていることだろう。弱っているのは明白だ。

 しかし、どんな様子であれ、安井の状態とエミリーの状態を比べずにはいられない。そうして、俺はエミリーを贔屓するに違いないのだ。それはしたくなかったし、してしまう恐怖に慄いていた。

 だから、俺は挨拶もそこそこにエミリーを運ぶことにしたのかもしれない。


「……体調は」

「ちょっと身体が重いですけど、それだけです」


 わざと明るく振る舞っている様子もない。淡々とした受け答えは信じるに値する。しかし、一日半寝込んでいたのだから、油断はできない。

 エミリーはそうした状況を思い出したのか。そこから連なって、俺とのやり取りまで反芻されたらしい。あのとき部屋に満ちていたような空気が巻き戻ってきた。

 ただ、今回は黙っているわけにもいかない。キクに言われたことがすべてだ。そして、黙っていたところで、きっと誰も邪魔しには来てくれない。キクたちが戻ってきたところで、永久に解消されることはないだろう。


「悪かったよ」


 降って湧いたような謝罪だった。気に留めていなければ、何に対するものか分からなかっただろう。しかし、エミリーはすぐに思い当たったようだ。それだけ心を乱していたということかと思うと、胸が軋む。


「……ずっと独りだなんてことはない」

「独りですよ」


 硬い音に、怯む。自分がそれを投げつけた現実に、胃が縮んだ。


「そういうことじゃねぇんだよ」


 ベッドの縁に腰を下ろして、寝転がっている姿を見下ろす。あの日を思い出して、ついつい逸らしてしまいそうになる視線を、しかと固定した。渋っている場合ではない。

 エミリーは硬い顔でこちらを見上げていた。真意を問うような。もう諦めているような。そんなふうに見えるのは、自分の失態を自分が一番後悔しているからだろうか。


「エミリーはエルフであることが誇りなんだな」


 硬い顔に、怪訝が混ざる。声なく首が傾げられた。気怠いだけとは言っているが、口を開くのも億劫なのではないかと不安がもたげる。


「だから、一族の血を絶やしたくないし、その血が役に立つなら矜持として使われることをよしとする。貶めるような役立ちは不本意だけど、魔力源として人を助けられるのなら、躊躇なんてしない」


 まだ少し、自棄を疑ってはいる。ゼロではないだろう。しかし、誇りであることもまた真なのだ。感情は決して画一的ではない。憧れと同時に嫉みを抱くように、献身と同時に破滅を祈ることもある。

 エミリーはそういったアンバランスさが強く、ひどく危うい。だから、放っておけなくて、少しでも純粋な方向へと手を引きたくなる。自分がそちら側にいるわけでもないというのに。


「でもな、心配するのは血族だけじゃねぇってことは理解すべきだ」

「丞さん?」

「俺がお前を抱いて眠った理由が分かってないってわけじゃないだろ」


 エミリーの頬に紅色が昇る。今や熱は下がりきっているから、怒りか照れだ。


「そういう言い方をしないでくださいよ」

「泣きついてきたのはそっちだろ」

「秘密だって言ったじゃないですか」

「俺たちしかいない」


 こう口にしていくことで、親密であるかのような錯覚が芽生える。エミリーも同じ気持ちなのか。渋い顔になった。


「抱くとかそういういやらしい言い方をしないでください」

「ついてきたくせに」

「もう分かっているじゃないですか」

「分かってるよ。だから、そんなに強がらなくてもいいだろ」

「そういうわけじゃありませんよ」

「じゃあ、こだわらなくてもいいだろ」

「こだわる?」


 ブロンドが寝転んでいる肩口から零れ落ちる。毛先が跳ねるのを目で追って、胸元が視線にちらついた。布団の上からでも分かるもんだな、なんて下世話なことを考える。現実逃避だったかもしれない。


「一族に」

「こだわりますよ。私は最後の一人です」

「……そういうことじゃなくて。エミリー、独りでいようとしなくていい」


 多分、この子は自罰的なものを持っている。きっと、仲間を見捨てたとは思わずにいられずにいる。

 そんなことはないと、ふざけた発言はできるはずもない。実際、エミリーはこうして独りで生き延びているのだ。見捨てた、と言えば見捨てたとも言える。それを否定してやれるほど、俺はできた男じゃない。そして、無責任でもいられなかった。


「どうでもいいんだと思わずに、もっと周りを見てくれよ。安っぽいことを言うぞ?」


 既に一度口にした。そのときも空々しいと思ったものだ。馬鹿らしくて口元が歪む。


「俺たちがいるだろ。エミリーは独りじゃない」


 口の中で転がして、やっぱり安っぽいなと重みのなさに渋くなった。

 こういうのは実際にそばに居続けて、エミリーの実感を伴って初めて意味があるものだ。口先だけなら、誰にだってなんとでも言える。無意味で空虚だ。つらい経験に縮こまった心をほぐすには、まったく響きが甘い。

 それとも、そんなふうに思うのは、遊び人として空疎な言葉を吐く日々を送った弊害だろうか。

 エミリーは、ぽかんとこちらを見上げている。


「俺たちが……俺が、いるだろ」


 布団から覗いている手首をそっと握った。ひんやりとした体温が溶け合う。存在がはっきりと輪郭を持つ。そばにいる。分かりやすい指標だ。


「……ずっと一緒じゃいられませんよ」

「恋人じゃないからか?」


 一緒にいると言っても、ただの上司だ。こういう場面で人を引き繋ぐには、素っ気ない間柄だろう。たとえ、一晩を一緒に過ごした仲であろうとも、表面上何かが進展したわけではない。

 俺とエミリーは職場の同僚。ただそれだけだ。

 恋人などと嘯く口が重い。そんな特殊な関係を確認するようなことになるとは思いもしなかった。しかし、俺の感慨に比べて、エミリーの返答は緩い。首を左右に振られた。


「丞さんとは生きられる年数が違います」


 それは多分、俺が思うよりも感覚の差があるのだろう。俺からすれば、生きている間隣にいればいいだけだ。けれど、エミリーは取り残される。いずれ独りの時間がやってくることが確定しているのだ。

 ……そうか。

 それは一度、すべてをなくした人間にとっては、大きな障害になりえるだろう。けれども、こればっかりはどうしようもない。どれだけ医療が発達しようとも、長生きの限度はある。健康で、となると更なる難問だ。

 人間である限り。


「ドラゴンにでもなればいいか? ステリィさんに頼めるかな」


 エミリーのエメラルドが揺らめいて、瞳孔が開いた。


「吸血鬼に吸血されればおおよそ不死身だろ? クリスティン卿なら喜んで手伝ってくれるだろ」

「何言って……」

「ああ。吸血鬼じゃ遺伝子が問題なんだっけか? ドラゴンもか?」

「丞さん」


 引き留めるような声がする。耳に入ってない振りで、舌を回した。


「でもまぁ、別に人間じゃなくなるのはすぐじゃなくてもいいよな。お前が独りじゃないって思えるくらい子どもができてからでもいいし、子どもができたら俺はもういなくても平気かもしれないし」

「ちょっと! 丞さん!」


 声が大きくなる。掠れているのは、寝込んでいたからだろうか。やけに痛々しい叫びに聞こえて、苦笑が零れた。


「冗談はやめてください」


 ゆらりと声が震えていた。


「そうだな。冗談はやめよう」


 へにょりとエミリーの表情が歪む。

 俺の言葉を本気にしちゃいなかっただろう。恋人をすっ飛ばしたようなセクハラ以上にひどい妄言だ。冗談にしてもひどい。

 それでも、エミリーにとっては冗談と割り切るには重く、本気としては軽過ぎる。感情を揺らすものだったらしい。期待のようなものを促した。だから、冗談だと分かりきっていても、気が沈む。表情が歪む。

 やっぱりどう考えても不安定で、支えて大事にしてやりたい。握っていた手首を手放して、手を握って指を絡めた。細くて白い。けれど、傷が残っている。

 同情かもしれない。

 それが何だと言うのか。一目惚れだってある。遊びだってある。そんな不確実な始まりのある世界に生きている。異世界だろうと何だろうと、変わりはない。

 たとえ同情でも、決して嘘ではないのだ。

 大事なのはその事実で、そして、これから先の言動でしかない。


「可能な限り、ずっと一緒に旅をしていようか」


 今度こそ、本当にエミリーの表情が崩れた。零れ落ちそうなエメラルドが広がる。それから、ぐしゃりと顔のパーツが中央に集まった。


「性質悪いですよ」


 唇を噛み締めて、捻り出したような音が責める。


「冗談じゃないぞ」

「だからこそですよ。タラシ!」

「遊び人だからな」


 鼻で笑ってやると、ようやくエミリーの顔が緩んだ。


「とにかく」


 手を握り直すと、同じように握り返された。自然と頬が緩む。穏やかな気持ちが広がった。


「独りきりってわけじゃないんだから、時間をかけてゆっくり相手を探せ」

「見つかるかも分からないのに」

「そこは知らねぇよ。頑張れ」

「紹介してくれるとか特典ないんですか?」

「図々しいわ」


 苦笑すると、エミリーがクスクスと笑う。


「……丞さん」

「なんだよ」

「ありがとうございます」

「ああ」


 笑顔が蕩ける。エミリーの笑顔が見られて、心の底から毒気が抜けた。心地良い余韻の中、キクたちが戻ってくるまでの間、繋がった指先が離れることはなかった。

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