第三話
本社との手続きは、すべて俺が担った。こうした業務形態は日本に倣っているので、俺が一番手慣れている。事務仕事は大抵俺の役割だ。それを終えてから、ステリィの自宅へと車を走らせる。
洞窟からそう離れていない道を進んで辿り着いたのは、お城と呼ぶべきお屋敷だ。キクを除いた班員は、揃って広間に待機することになった。キクと二人は寝室だ。間を置かず、血飲みを行うつもりらしい。
同行することにはなったが、術者でもない俺たちにできることはないという。せいぜい、看病の時間を分担することくらいだ。俺たちはただキクが協力する過程の惰性でここにいる。
だから、邪魔にならないように、というのは当然の配慮だった。
キャンピングカー待機も考えたが、何かあったときに人手を呼び出す手間がかかる。その距離を僅かでも間引いた形になった。ここならば、最悪大声や物音で不測の事態に気がつける。協力を申し出ているのだから、これくらいを惜しむつもりはなかった。
しかし、ステリィは恐縮しているらしい。ドラゴンというわりに人の常識が身に宿っていて、公徳心が鋭い。だからこそ、安井との交際が上手くいっているのだろう。
「問題ありませんよ。お屋敷にお邪魔して申し訳ないのはこちらですから」
そう伝えはしたが、あちらの気が楽になるかは別問題だ。こればかりは仕方がないだろう。こういうときほど、分かりやすい合理的な理由がいる。
それは今回で言えば、
「仕事なので、やらないわけにはいきません」
ということになるはずだ。
任務として受けたのだから、全うする。これは実に分かりやすい割り切りだろう。たとえ、ステリィが納得していようとしていまいと、事実は揺らがないのだ。食い下がれる箇所は少なく、そこに労力を割くのも馬鹿らしい。特に今は、他人に意識を割いている精神的余裕はないはずだ。
期待通り、ステリィは苦笑いに留めてくれた。引き際を分かっている。この機微を悟る賢さが、ドラゴンの能力の高さからくるものなのか。ステリィ個人の長所なのか。何にしても美徳で、今はとても重用される能力だ。
そうして、ステリィは安井の元へ向かった。広間にあるものは自由にしていいというお墨付きをもらい、俺たちはそれぞれに待機をする。
俺とブラックは本格的に用なしだった。安井がいるのは寝室だ。ステリィがいるとはいえ、恋人が寝ているところに他の男を入れるのは抵抗感があるだろう。ドラゴンの価値観は知らないが、こちらが遠慮してしまう。
結果として、緊急事態のみの立ち入りということになった。女子は入れ替わり立ち替わりしている。主にはキクの休憩時間を確保するもので、数時間の間に三十分から一時間ほどの交代だ。それでも、キクには十分なインターバルらしい。
寝室で何が行われているかは半透明であったが、聞くつもりもなかった。血飲みなのだ。大体予想ができるうえに、生々しい状況を深く知ったところでどうしようもない。ただ黙って待機をしておく。俺たちにできるのはそれだけだ。
一日半が経過しても、大きな変化はなかった。刻々と時間が過ぎていく。夜は寝室の交代と同時に、広間のほうも睡眠が取れるようにローテーションを組んだ。
今はブラックとピュイが休眠で、キャンピングカーに戻っている。ソファでも睡眠が取れないわけではないが、せっかく人員がいるのだからと離れることにした。こちらに二人残っていれば、もしものときに呼び戻す役割も分担できる。
キクは安井つきで、寝室だ。ステリィが休んでいるのかは知らないが、彼は恋人だ。安井のそばで寝てしまおうと、それは俺たちが口を挟むようなことではない。
今、広間にはエミリーと俺だけだ。
俺が三人掛けのソファの端に腰を下ろし、エミリーが一人掛けのソファに足を持ち上げて休んでいる。一人掛けのソファは俺の座っている側から遠いほうにあるので、あやふやな距離があった。
ちくたくと進む時計の音だけが、空間を支配している。小さな咳払いと、衣擦れの音。屋敷の外からは、獣が活動するような自然の物音が時折入り込む。
夜のしじまに、二人きり。
どうしても、連想する夜がある。ゆったりとした空気に押しつぶされていくような緊張があって、思わず呼吸を深くした。その音が、思った以上に室内へ響く。
その物音に、エミリーの視線がゆるゆると持ち上がった。視線がぶつかると、沈黙同士がぶつかる音がする。
「……休むなら休んでもいいぞ」
苦し紛れだった。夜に二人で残されると、どう相手をしていいものか分からなくなっている。意識するようなこともないだろう。しみじみ思っているわりに、抜け出せないものだからややこしい。
「大丈夫ですよ。丞さんこそずっとスタンバイしてるんですから、少しは寝てもいいと思います」
「ブラックと交代して昼寝したから大丈夫だよ」
「丞さんって夜型ですよね」
「そっちはそうでもないだろ」
「それはそうですけど」
言いながら、エミリーがくわりと欠伸を噛み殺す。裏付けのような反応に笑いそうになってしまって、エミリーの頬が膨れた。自然体だと途端に幼さが滲むものだ。
「寝てていいぞ。起こす」
「……平気ですよ」
「ふわふわしてんじゃねぇか」
「安井さんのためのお仕事ですから」
普段、仕事だ、と諌める自分の言葉を流用されたようで苦くなった。確かにその通りだが、隣の寝室は静まりかえっているし、キクがついている。外側に待機している身としては、常に臨戦態勢である必要性はあまり感じていなかった。
それとも、これは外部に居続けているがゆえの感想でしかないのだろうか。内側では、エミリーが油断できないようなことが起こっているのだろうか。
しかめ面しくなった感情が、表に出ていたらしい。目に留めたエミリーが、緩く首を傾げた。
「……安井さんは、どんな様子だ?」
「今のところは安定してますよ」
「……血を飲むってのは、どういうものなんだ?」
吸血鬼という種族もいるのだ。想像はできる。だからこそ、正しく確認はしていなかった。プライベート。そして、デリケートな問題だ。最低のラインさえ分かっていればいいだろうと思っていたが、知りたい気持ちがないではない。
エミリーは顎に手を当てて考える素振りを見せた。
「劇薬……副作用の強い薬を飲む感じでしょうか?」
それは、かなりこちらに歩み寄った説明であっただろう。こちらの薬と言えば薬草になるので、副作用はそれほど強いものではない。というよりも、毒性などという話になってしまう。なので、この言い回しはエミリーなりに地球人へ歩み寄ってくれていた。
「苦しんでいるのか?」
「それを抑え込むための薬があります。あとは、キクさんが熱を収めてますよ」
「……キクは大丈夫か?」
「はい。魔石を使って上手くパワーを調整してるみたいですから」
「パワー調整、ね」
「魔石には魔力が宿りますから」
それくらいは、俺も了承している。
キクとの付き合いも四年が経ったのだ。魔石で魔力をブーストして、負担を減らす。魔法使いは、そういうやり方もやるものらしい。キクがそうするのも何度か見たことがある。なので、キクの事態は切迫していないだろうと判断した。
納得に相槌を打つと、会話が途切れる。またしても沈黙が広がった。互いにどうしようもなくなって、目を伏せる。深閑は、しんみりとした夜の影に沈み込むようだ。
深夜独特の空気が、胸を揺るがす。沈黙が痛い。
しかし、これがピュイやキクだったなら雑談に興じたかと言われるとそうとも言えなかった。エミリーとだけ、底抜けに話が弾まないわけでもない。会話がなければないで、俺たちはそれぞれの時間に没頭するタイプの班だ。
今は、異様なまでに相手を気にしている。これが異例なのだ。
息を吐いて、ソファに凭れかかる。部屋にはろうそくの灯りだけしかない。ゆらゆらとした揺らめきは、眠気を誘う。さきほどのエミリーの欠伸を思い出して、時間差で釣られた。
ここが外なら、寝ずの番をするしかない。だが、ここは室内で、ある程度の安全が保証されている。今のところ、キクとステリィのおかげで安井に特別困ったことも起こっていない。待機と分かっていても、休憩時間のような緩さがあった。
一度欠伸を意識すると、睡魔は増長を始めるようだ。意識が断続的になっていく。まずいという自覚はあったが、ストッパーは緩んでいた。
しかし、物事は簡単にはいかない。眠りに落ちることはなかった。この場合は、任務が継続できることを喜ぶべきだろう。
沈黙を破ったのはエミリーだ。
「……人じゃなくなるって、すごいですね」
「ああ」
唐突なことに、頭の回転は追いついていなかった。けれど、まったく予想外のところから投げられた球ではない。その感想は確かにあって、俺は反射で相槌を打っていた。
エミリーはソファに丸く収まって、その足元とも座席の縁とも思える箇所を眺めている。
「独りじゃなくて、羨ましい」
雨垂れのように濡れた音が、空間に波紋を作った。それは垂らしたインクが水に溶け込むようにじんわりと届いて、心を動揺に染める。
表情のないエミリーの顔が、ろうそくの火に虚ろに揺れていた。ブロンドが妖しく蠢く光を反射して、輪郭を儚いものにする。
唾を飲み込んで喉を潤そうとしたのは無意識だった。
「それはどっちが?」
「どっち?」
壊れそうなおぼろげな仕草で、エミリーの首が傾く。眠そうだと思っていた仕草が、物憂いに変質した。もしかすると、まとっていたのはそうした寂寥感であったのかもしれない。
「ドラゴンのステリィさんが? 天涯孤独の安井さんが?」
口にして、気がつく。エミリーは二つの要素を兼ね備えている、と。
異世界生物であること。天涯孤独であること。
前者の要素だけで、既に天涯孤独を含んでいるかもしれないが。何にせよ、二人のことはエミリーにとって、どちらも想像しえるものなのだ。同時に、エミリー自身に相手がいないことを明確にするものでもある。
そこまで深い考えもなく尋ねてしまった軽率な自分の首を絞めたくなった。
「二人とも、ですかね」
予想通りの回答に胸が痛む。自分のなんと迂闊なことか。そんなふうに勝手に感傷に浸ることも疚しくて、ぬかるみだ。
「あんなにも想える人ができるものなんでしょうか」
あんなに、の具体例を知っているというには、俺は二人のことを何も知らない。エミリーも大きく違わないだろう。しかし、扉の向こう側。寝室で苦しむ安井を献身的に支えるステリィの姿を見ているのといないのとでは、それなりに差があるのかもしれない。
けれど、あんなに、と示されたものを想像することはできる。人であることを捨てるのだ。その熾烈さは、想像できる。自分がそうできるか、と考えてみればいいことだ。
とてもできそうにはない。
いや、どうだろう。
ちらとエミリーを盗み見る。
「私には、多分」
飲み込んだであろう言葉が、脳内で勝手に補完された。
無理。
一言一句が同じではないだろう。しかし、近い意味合いの言葉であるはずだ。俺はほとんど反射的にそれを想像したし、確信を持っていた。
エミリーの瞳は彩度が落ちているようだ。揺らぐろうそくが瞳の中に映り込んで、潤んでいるように見える。
「ゆっくり、探せばいいだろ」
エミリーが困惑の眼差しを寄越した。俺が砕いたものは、あくまでも遊びに向いていないという点だけだ。決して、誰かと恋を結ぶことができないなどという残酷なことを言ったつもりはない。
「……ゆっくり?」
「ゆっくり」
「エルフのゆっくりと丞さんのゆっくりは、きっと時間の経過が違いますよね」
「問題があるか?」
「何百年も独りでいるかもしれない未来は寂しいですよ」
規模が違い過ぎて、苦いものがこみ上げた。エミリーが独りを忌避する深い理由のひとつに、今更ながらに気がつく。
「お前なら、大丈夫だろ」
「根拠ないですよ」
「……つーかさ」
少しだけ、躊躇いが生まれた。
エミリーは一族のエルフと出会うことを望んでいるのだろう。子をなすという思考は、未だ拭えていないはずだ。そうしなければ一族が増えることはないのだから、その考えは分からないでもない。
けれど、それに執着し過ぎて周りが見えていなかった。必ずしも一族である必要はないはずだ。そうでなくても、独りでない状態にはなれる。ただ、エミリーの望む形とは違うであろうそれを口にしていいのかは憚られた。
わざわざ暴く必要はない。そう思う自分がいる一方で、別の感情もある。
躊躇いの間に、エミリーが窺うような瞳を見せた。黙って俺の台詞を待っているらしい。細く息を吐き出して、唇を舐めた。
「恋人とか家族とか、必ずしもそういうものである必要はないだろ」
「独りじゃないですか」
事もなげに切り捨てられて、歯噛みする。渡會を案内した日。みんながいる、と仄めかした言葉はひとつとして届いていなかったらしい。噴出する感情に、拳を握った。
どうにも苛立つのは、エミリーが一族以外の関係を無下にするからだろうか。沸々と湧き上がる。自分でも意外なほど、それはするりと喉のフィルターを超えてきた。
「友人知人はあくまで他人だって?」
はっとした顔が持ち上がる。それは事実に気がついた、というよりも俺のひび割れた声に反応した、と言ったほうが的確であるような気がした。こちらを見る瞳が、驚きに満ちあふれている。
やはり、前回の言葉は届いていなかったのだろう。
「友人知人がいても、それはひとりぼっちで、誰もお前の中にはいないの?」
「それは」
「じゃあ、カルツとはそれ以上の関係だったわけか?」
そうじゃないと、分かっていて言った。
エミリーが剣呑になる。
「ふしだらな想像はやめてください」
「それでも、カルツがいればお前は独りじゃないと思えるんだろう?」
「当たり前じゃないですか」
「……俺たちがこうしているのと何が違う?」
エミリーが僅かに怯んだ。しかし、引くに引けないのだろう。引くつもりがないのかもしれない。こと、このことに関して、エミリーは意固地になっている。
「カルツはエルフです。同族です。違います」
「じゃあ、もうお前はずっと独りだろ」
そういう心構えなら、そうなるだろう。一族のことに執着して、自分のことも周りのことも見えていない。俺だって、偉そうなことは言えないだろう。自分がそこまで客観的だとは思わない。
けれど、これはつまり、そういうことになるだろう。意地悪をしているつもりはない。
だが、鬱憤があった。エミリーが独りでなければいいと、孤独を感じずに過ごしていられればいいと。そう思った俺の感情はどこに置けばいいのか。自分自身を斬りつけるような、追い詰めるような。そんな考えは捨ててしまえよ。
半分は、上手く言葉を伝えられない八つ当たりだったかもしれない。
エミリーの視線が落ちる。身体が強張ったのが目に見えた。きゅっと唇が窄まって、眉が寄る。ろうそくに作り出される陰が、一段も二段も濃くなった。泣き出さないのは、意地か。それとも、涙はあのときだけのものだったのか。
「……分かってますよっ」
語尾が跳ねるように切れる。その音は、跳ねたくせに重たかった。残された沈黙が、空気に沈む。ちりちりと静電気が弾けるようなざわつきが漂った。
ぐしゃりと髪を掻き乱す。八つ当たりだな、と今になってはっきりと自覚した。
エミリーがそれを分かっていないわけがない。分かっているから、こうして追い詰められている。それが分かっていて追い打ちをかけたのだから、八つ当たりでしかない。
回収の仕方が分からない空気の重圧に、自己嫌悪が加わる。ため息を零してしまいそうで、一方で空気を揺らしてしまうことに怯んだ。エミリーも石像のように動かない。部屋ごと氷漬けになったかのような膠着状態だった。
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