第五話
その衝撃は、一瞬のことだった。
脇の路地裏から飛び出してきたものに、渡會が突き飛ばされる。エミリーを放り出して、それを支えた。目を走らすと、ぼろぼろの衣服に身を包んだ男の背が逆の裏路地に消えていく。
何だったんだ、と眉を顰めた。そのときだ。
「スマホ!」
叫んだのは渡會で、その視線は逃げ去る男を追っていた。
「ブラック!」
すかさず叫んだ俺に、ブラックは即応した。二足歩行で駆けていたかと思うと、その姿は見る間に獣型へと変貌していく。仕方があるまい。速度の差は段違いだ。
ブラックはあっという間に男へと追いついたようだった。闇に紛れて、こちらからではよく目視できない。把握できるのは、黒い塊が何やら動いているくらいだ。しかし、そばに立ったキクが目を凝らしているから、きっとブラックは上手くやっている。
魔法使いのキクはここ一番の古株だ。それでもたったの十年ほどしか歴史はないが、古株は古株だ。そして、ブラックはAW経営者の親族にあたる。生まれたときから会社とは密な関係で、キクのこともずっと前から知っているようだった。
二人は言葉もなく、お互いの姿を目に入れていることがよくある。特にキクは見守るような顔をしてブラックを見ていた。ペットというよりも、親戚の子どものように思っているのかもしれない。
遠く。夜の帳に、ブラックの鳴き声が轟く。男の情けない声が遠ざかって行った。
浮浪者だっただろうか。歓楽街ともなれば、一人二人いたところで何もおかしくなかった。身体を差し出す代わりに養ってもらう道を選ぶものもいれば、脇が甘くなっているものにスリを働くものもいる。ナンパや客引きだけに意識が向いていたのは痛恨だった。
渡會は呆然としている。
「大丈夫ですか?」
支えていた肩を離して、声をかけた。頷いたのか。反動で揺れたのか。判別が難しい反応が返ってくる。日本にいると、ここまで大胆なスリには滅多に遭わない。少なくとも、俺は生まれてきて一度も遭遇したことがなかった。
そんな犯罪がないというほど脳天気ではないが、確率は低いほうだろう。その犯罪に巻き込まれたのだ。呆然ともしよう。エミリーが物言わず、渡會のそばに寄り添ってきた。こういうことができるくせに、と少し哀感を覚える。
その感情を切り離し、ブラックのほうへ視線を戻した。暗がりの中から、ブラックの姿が薄らと浮かび上がってくる。闇と同化する黒い毛のシルエットに、金色の瞳が瞬いてぎょっとした。
しかし、次の瞬間上がった低い唸り声と剥き出しの牙の光に、更なる驚愕を叩きつけられる。
「がう」
空気に噛みついたように見えた挙動の中から、別の生物の姿が浮かび上がってきた。その小柄で不格好な姿は、何かのモンスターだと臨戦態勢へと移る。
すぐにキクがぶち上げた光源に照らされたのは、ごつごつとした無骨で緑色のずんぐりむっくりした体躯。棍棒を片手に腰布を巻いた低身長。ゴブリンだと認識した瞬間、ひゅっと息を呑む音を聞いた。
渡會が硬直しているそのそばに、すとんと腰を抜かしたエミリーが震えている。寸分違わず、無意識下で舌打ちが零れていた。
光が薄れていく中で、がしゃんと物体がぶつかる音がしたと同時にブラックがゴブリンに噛みつく。光が消えてしまうと、絡み合う二つの影に余計な手出しができない。じりじりと歯噛みをするこちらに、ブラックの唸り声が届く。
再びキクが打ち上げた光は、今度はすぐに消えることはなかった。すぐに動いたのはピュイだ。うちの火力担当は、近距離であってもどんなモンスター相手であっても、怯むつもりはないらしい。
そして、俺はその力を信用している。硬直している渡會の肩を引いて、
「こちらへ」
と脇に避けさせた。
こちらまで被害が及ぶかは分からないが、多少は距離を取るべきだろう。かといって、離れ過ぎるわけにもいかない。下手に違う道に逸れてしまうと、それはそれで当初懸念していた問題がある。
とはいえ、大変なのはそばに置きながら戦わなくてはならない二人のほうだ。俺はそちらに背を向けて、エミリーの前に腰を下ろす。
「エミリー」
真正面から見据えても、目の焦点が合っていない。しかし、フォルビーのときに感じた狼狽は湧いてこない。事情を知っていれば、落ち着いていられるものだ。
……だからといって、気持ちが軽くなるわけではないが。
エミリーの頭を掴んで引き寄せた。肩口に顔を押し付けて、視界を奪う。両手で耳を塞いだ。それで恐怖を退けられるとは思っていない。ただ、僅かなりとも力になれればそれでよかった。
こんな緊急の場面で、無頓着にやることではないだろう。その自覚はある。だが、仲間がいるからこそ取れる手段だ。頼むから、この状況でこれを優先できる環境に気がついてくれと思う。
エミリーは、独りじゃないのだ。
奥歯を噛み締めて、震える身体を抱きしめる。少しでも収まるように。意識はそこに集中していた。
「丞浪さん……!」
小さな悲鳴を上げたのは渡會で、エミリーを見下ろしていた視線を上げる。瞬間、目の前に渡會の背中があった。事態がはっきりと読めたわけではないが、危機感だけは即座に急上昇する。庇われている、と気がついた途端、渡會の背に手が伸びていた。
よくない。ダメだ。間に合わない。まずい。
マイナスな言葉が身体中を駆け巡る。とにかく乱暴に服を引っ掴んで引き寄せたと同時に、飛び上がって襲ってくるゴブリンの背後からブラックが覆い被さるのが見えた。
そのまま噛みついたのか。力任せに引っこ抜いたようにゴブリンの姿が消える。地面に肉がぶつかる鈍い音がした。間髪を入れずに発砲音が連続する。硝煙が周囲を包んだ。
粗雑に寄せた渡會は、地面に尻餅をついて息を整えている。
「怪我は、ありませんか」
「……はい」
「ありがとうございます」
「……いえ」
どうにか絞り出したのだろう声は、掠れてほとんど音になっていなかった。それでも、戦闘の終わった宵闇では十分に聞き取れるものであったが。
すぐに戻ってきたのはピュイとキクで、キクの手にはスマホが握り込まれていた。
「すまぬ」
渡會に差し出して零された一言で、スマホの状況は知れる。ブラックが取り戻していたとしても、あれだけ縦横無尽に立ち回っていたのだ。放り出したとしても致し方がないことだった。
「いえ……いえ、隙を生んでしまって、すみませんでした」
緩く振られた首が力なく項垂れる。決して、このピンチは渡會が作り出したものではない。発端を言えば、多少は渡會の好奇心も噛むかもしれないが、それは結果論だろう。災いをもたらしてきたのは、浮浪者だ。
キクがスマホをぐっと渡會の手元へ押し込みながら
「そちらのせいではない。この世界はこんなもんじゃ」
「でも」
「でもも何もないわ。渡會が気にしたところで、安全にはならん。遅いか早いかの問題じゃっただけじゃ。渡會、良い旅を経験したの」
無理やりの言い分ではあっただろう。だが、キクが励ましていることだけは手に取るように分かった。
それは渡會にも通じたようだ。眉尻を下げた表情が晴れることはなかったが、情けない笑みを浮かべるくらいの脱力はできたようだった。
その笑みのまま視線がうろつく。
「ブラックさんは?」
探していた瞳を導くように、キクたちが後方を見た。ここまで近付いてこないブラックへ、同じように視線を投げる。その口元には血が滴っていた。まさしく獣としての正しい姿だ。それはつまり、渡會には恐ろしさを抱く姿であるだろう。
渡會は距離を置いているブラックをじっと見つめた。身動ぎひとつしないのは、ブラックの気遣いだろう。
渡會はふらふらとその場に立ち上がった。弱々しかった表情に、一片の頑なさが混じる。唇を引き結んだ硬い顔で、ブラックの元へと近付いていく。残念ながら、眼前まで近付くことはできていなかったが、会話をするのに不便のない距離だった。握りしめられた拳を見れば、その勇気は窺い知れる。
「助けてくださって、ありがとうございます」
そう言って下げられた頭には、驚きが隠せなかった。
相手を獣と認識していれば、出てこない行動だ。しかも、ブラックはたった今、モンスターを噛み殺す所業をしたばかりである。その生物に頭を下げる行為は簡単ではない。ただでさえ苦手な生物であろうに。
俺だって、ブラックじゃなきゃ無警戒に頭を下げる……首を晒すなんてことは早々できない。仮に相手がブラックと同様に意思疎通が可能だと分かっていても、忌避感はある。それを成し遂げた渡會の歩み寄りは目に見える形だった。
「わふ」
返事のように吠えたブラックに渡會はビクつきはしたが、車内で見せていたような持続性はなく、力を抜いたように笑う。一段落ついて、感情が通じ合ったのがよく分かった。
その後、キクがゴブリンの死骸に消失魔法を使い存在を消し去り、ブラックに洗浄魔法を使って綺麗にする。すっかり綺麗になったブラックはしっぽを振って喜んでいた。その隣に自然に立っている渡會の成長には驚くばかりだ。
そうした和やかな後始末の間に、俺は胸の中にしまったままのエミリーに取りかかった。
「エミリー」
「……はい」
「落ち着いたか」
「渡會さんが、無事で、よかったです」
「……お前にも何もなくてよかった」
ぱちくりと瞬いたエミリーが、緩く首を縦に振る。とんと肩を叩いて立ち上がって、手を差し出した。緩慢な態度で伸び上がってきたエミリーの背を叩く。
「大丈夫じゃなくてもいいから、心配はいらない」
「心配……」
視線が前方を捉えた。
人と獣人が心を通わせているような姿がある。束の間であるかもしれない。この先もずっと続くとも、これが確固たる絆であるとも言えるほどではないだろう。この世界でこれを言うのはひどく軽率かもしれない。
だが、ひとときの平和を垣間見ている気になった。エミリーも同じように感じているだろう。そこに一緒になっているキクとピュイの存在はきちんと目に入っているだろうか。
「みんないる」
なんてチープな台詞だろうかと愕然とした。力のなさに惨めになる。
エミリーは何も言わなかった。感ずるところがあるのか。何ひとつ心に届いていないのか。それはまるで分からない。
もう戻ろう、と歩き出した四人の後ろをエミリーと二人で追いかける。とても励ませるような言葉を繰り出せる気がしない。俺は言葉を重ねることもできずに、無言で歩を進めた。
そんな中、何を思ってのことか。エミリーの指先が俺の袖を引く。振り返ると、同じく無言のエミリーがこちらを見上げてきた。周囲の狙うような目は変わらずある。少しは頼ることを覚えたのだろうか。やっぱり分からなかった。
だが、その手を払いのけることはできない。それを掴まえて、しっかりと繋ぎ止めた。ブラックと渡會の間に生まれた繋がりのようなものが、こいつにもできますように。僅かでもいい。こうして人に頼ることを覚えますように。
そう願いながら、指を重ね合わせる。暗闇でも失くしてしまわないように、きつく絡ませて歩いた。
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