第四話
組み敷かれたエミリーは、焦ったのだろう。まだ何もしないうちから、ぎゅむっと胸元に抱き寄せられてしまってこちらが焦った。
頭は鎖骨辺りに埋まったが、甘い香りはするし、胸の谷間はすぐそこだ。お互いの身体の間に挟まって形を崩しているものが肌に伝わる。バスローブがズレて、素肌が触れ合っていた。触れる突起物は、つまりそういうことだろう。
声を上げようにも、口元が鎖骨にぶつかってくぐもる。エミリーは抱きついて離れなかった。これにどういう意味があるのか。分からないし、もしもこれでその気なのだとしたら、大いに間違っている。これでは何もできない。
しばらく待ってみたが、エミリーが身動ぎすることはなかった。どうするつもりだったんだ、とため息が零れ落ちる。しかし、その呼吸も上手くいかず、このまま放っておくと何かの拍子に窒息させられるのではないかと危惧が芽生えてきた。
タップしてみても、エミリーは離してはくれない。意図があっての行為なのだろうか。喋らないので分からないし、ほとほと参った。
しょうがない。
腹を固めた俺は、眼前にある柔肌に唇を寄せる。元より、それなりの段階に進む威勢は持っていた。遊び人にとって、これくらいは挨拶と呼んでも相違ない。そのまま強く吸い付くと、エミリーの身体がびくりと震えた。
「ぁ……ッ」
喘ぎの色気に本能のほうへ天秤が揺れるのを感じながら、緩んだ腕を抜け出す。腕で体重を支え、改めて覆い被さる態度で向き直った。
エミリーは自分の声に右往左往し、それから、鎖骨の異変に気がついてバラのように赤くなる。淡雪のように白い肌に映える紅は目の毒だ。やはりバスローブははだけていて、谷間どころか下乳までばっちり見えていた。
無意識に生唾を飲み込む。
その音を聞きつけたのか。エミリーは我に返ったようにバスローブの前を重ね合わせた。それから視線を彷徨わせてしばらく。宝石のようなエメラルドの瞳から、ぽろりと滴が零れ落ちた。
エミリー自身驚いたように、それを拭う。ほろほろと落ちてくるそれに、動転しているようだ。
「ち、違います」
と、勢いのまま首を左右に振っていた。
苦笑しながら身体を退ける。隣に横たわって、息を吐き出した。エミリーは慌てた様子で起き上がり、こちらへ向き直る。ぺたりと座り込んで、俺を見下ろしていた。指先が俺のバスローブの肩口を掴んだ。
「違うんですよ」
「何がだよ」
「そんなんじゃありません」
ちっとも具象的な言葉が出てこない。それでも言いたいことは分かっていた。
俺にどうこうされるのに狼狽えたりしていないと、必死に訴える。拒んでなんていないと。自分はどうでもいいのだと、必死に心を誤魔化している。見限ったような俺の仕草を見て、引き留めようとしている。
馬鹿な真似を。
「エミリー」
バスローブを握り込む手を取って、引き寄せた。倒れてきた身体を全身で受け止める。
羽根のように軽い。重力に舞うブロンドと作用しあって、天使みたいだ。それを腕の中に収めて、肉感的な身体を抱いた。
ひくっと喉が震える声がする。
「……どうしてっ」
それは何に対する疑問だろうか。
「どうして……!」
繰り返される切羽詰まった音は、涙に濡れていた。
自分を蔑ろにできない自分に気づいたのだろうか。自分がこういうことに向いていないことに気づけただろうか。どんな形であれ、納得すればいいと思った。だから、こうしている。
悔しいのか。悲しいのか。寂しいのか。そのどれもか。判断はつきようもなかったが、エミリーは声を上げて泣き始めた。
「う、ひっ……わああああ」
小さな子どもがそうするように、堰を切った泣き声を聞きながら、その背を撫で続ける。慟哭するエミリーに、俺はひどく安心していた。
エミリーは一度として泣かなかったのだ。気配すら見せなかった。哀れな現実を話す際、そこに感情はなかった。その心は空白で埋め尽くされているかのようだった。その危なっかしさが、見ていられなかった。
同情か。
どうだろう。
分からない。
けれど、放っておけなくて、エミリーの身体を強く抱きしめる。消えてしまいそうなほどに儚くて、救えるのならば救ってやりたかった。
独りにさせない。
どんな形だっていい。独りで生きているなんてことはないのだから、孤独を感じないでくれ。俺たちは一緒にいるだろう。頼むから。どうか。
自分を傷つけない方法で、幸せになってほしい。
かつて拙劣だったことを、今もまだ熟達したものを持ち合わせているわけでもないことを棚に上げて、心底そう思う。
俺はエミリーが泣き止むまで、ずっと背を撫で続けていた。時間経過など、どうでもよかった。たとえ一晩中でも付き合うつもりだった。
しかし、エミリーはじきに泣き疲れたように寝付く。涙の跡はひどかったが、寝顔は健やかで気持ちが安らいだ。顔を拭ってやり、離れようとする。けれど、エミリーの手がバスローブを握りしめたままだ。
致し方なく、布団をかぶって一夜をともにした。
同じ匂いもするだろう。朝帰りも同衾も嘘偽りない。同時に、胸も触っていないし何もしていないのも嘘ではないのだ。
過去を捨て鉢に明かし、号泣して縋ったこと。それを抱きとめて、そばにいたこと。これは俺たちだけの秘密だ。
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