第四話
自分の方向音痴具合はよく分かっているので、意識を高く持って移動した。ぼんやり歩いて目的地に辿り着くなんて、夢物語だ。
しかし、その心配は杞憂だった。俺がコーナーの場所を見極めようとするより先に、向こうからアクションがあったのだ。
一角がやけに騒がしい。輪の中心には、ビビッドな赤髪と深緑色の日本かぶれに、黒いマント。どう見たって自分の連れであった。額を押さえて、大息を吐き出す。
できつつある人垣を割って、中心へと向かった。三人揃ってはいるが、主たるものはクリスティン卿であるようだ。ピュイを背に、向かい合った二人の男に牙を剥いている。この場合の牙は、比喩表現ではなくリアルな凶器だ。
俺は考えることもなく、向かい合った男どもの間に身を滑らせた。
「クリスティン卿、いかがなさいましたか」
しらばっくれているわけではない。実際、起こった事柄は知らないのだから、この問いに意味はあった。揉めているのは一目瞭然で、空々しいと言えばそうであっただろうが。
クリスティン卿の顔つきは、ほの暗く歪んでいた。瞳孔が開いている。その顔に凄まれて引けそうになる腰をどうにか据えた。
「退くのだ、丞浪」
「こちらでは暴行罪脅迫罪、殺人未遂。何にしても罪に問われます」
「知らん」
「クリスティン卿!」
魔族に油断してはならぬというのは、こういうところだ。道理など、一切合切役には立たない。知性があってこの判断であるのだから、その凶悪さは他の追随を許さぬであろう。
「あんた、なんだよ」
俺はクリスティン卿に向き合う形で間に入った。背後からかけられるのはただの地球人の声だ。それに邪魔者扱いをされて、ほのかに苛立つ。この危急の事態を感知する感性がないらしい。俺がここを退けば、どんな痛ましい未来が待っているのか。想定できないようだ。
自分の勘が随分優れたものに思えてきた。
「連れです。お騒がせして申し訳ない」
謝罪は男たちではなく、周囲に投げる。男どもに謝罪する必要があるかどうかは、この時点では不明だ。吸血鬼の火に油を注ぐかもしれぬ事態は避けたい。
「丞浪。君はわけもなく謝罪をするなんて弱者たる振る舞いを俺にさせるつもりか。そいつらが先に絡んできたんだ。正当防衛とやらが認められるのだろう?」
「過剰防衛がありますよ」
付け焼き刃の知識に臍を噛む。こんな偏見を持ちたくはないが、都合のいい解釈ばかりしてくれる魔族にはうんざりだった。地球へ厄介ごとを持ち込んでくる異世界人は多い。逆も大概で、結局俺たちの仕事はアテンドよりも橋渡しや仲裁のほうが格段に多かった。
「俺たち、声をかけただけだけど」
「そうそう。ただそっちの彼女に声をかけただけ」
視線の先は、恐らくピュイだ。キクと二人前後に並んでいるので分かりづらい。何故そんなポジション取りをしているのか。
「貴様ら」
かっと開かれた口元から覗く鋭い牙にある殺意に、友好的な声かけでなかったことが窺い知れる。程度はさておき、ナンパの悪質なバージョン辺りだろうか。予測は容易い。この男たちの空気の読めなさから察するにあまりある。
「クリスティン卿」
その肩を捕まえて、力尽くで抑え込んだ。向こうはほんの少し身を進ませているだけだろうが、こちらは全力だ。覆らない腕力差に、歯を食いしばった。
周囲には俺の力みが滑稽に写っているだろう。大人と子どもでも、もう少しまともなパワーバランスになるはずだ。限界はあっという間で、身体が押し込まれる。後ろでばたばたと足音がした。逃げていないのならば、距離を測ったのだろう。
遅ぇよ。
もう、ダメだ。堪えてはおけない。どれだけ鍛錬したところで、地球人では綱引き合うには限度がある。いっそ脱力して隙を狙うような姑息な手口を使うしかない。そのために弛緩しようとして、留まった。
クリスティン卿の背中に、ピュイが手を這わす。シャツを引くように縋った指先に、クリスティン卿は力を緩めた。
「そのような下等なものを相手にして、クリスティン卿の手を汚してはなりません」
凜とした言い草に、背中側から気炎が上がる。しかし、そんなものただの遠吠えにしか聞こえなかった。前方で収められた殺気の一ミリにも達していない。クリスティン卿は険を潜めて、ピュイに向き直っていた。
「ピュイ」
「あたしはあのような言葉で辱められるほど低俗な人間ではありません」
「ああ」
「どうぞこのような輩どもの前に姿を晒すのはおやめください。キク先輩、クリスティン卿を外へ」
「任せておけ」
目を眇めてピュイを見下ろすクリスティン卿は、物言わずキクの導きに従った。刃を押し込めてくれたことに安堵し、背後を振り返る。ピュイが峻厳な態度で隣に並んだ。
「悪いですが、とても要望にお応えできませんので失礼致します」
九十度。極端な礼儀正しさで、ピュイは場を辞退する。放っていくなよ、と呆れながらこちらもお辞儀を残した。
流石に、男たちもわけの分からない集団という認識を持ったのか。諦めてくれたのか。面食らっていたのか。定かではないが、食い下がってくることはなかった。安いやつらで助かったと、そのまま店内を進む。
「ナンパか?」
「セクハラの上位互換のようなもの」
「クリスティン卿はそんなことを気にするのか」
「高貴なお方だから」
「それとお前が馬鹿にされて憤るのがどう繋がるんだ」
「お供を馬鹿にされるのも我慢ならなかったはず。そういうもの」
そういうもの、と断言されると追いすがる術がない。
ピュイには付け入る隙がなかった。たとえクリスティン卿がプレッシャーをかけずとも、あいつらはぶった切られたことだろう。まだクリスティン卿が乱入したことでうやむやにされただけ、女子に切り捨てられずに済んでプライドは傷つかなかったかもしれない。
外に出ると、クリスティン卿はピュイを気遣うかのようにすっ飛んでくる。お供を見舞う主人というよりは、主人に駆け寄るお供といった様相だった。
「ニホンは安全だと聞いていたぞ」
「あんなものは戯れ言ですよ」
まったく堂に入ったものだ。クリスティン卿は眉を顰めたが、ピュイはふるりと首を振った。
「どこにいても不穏な輩はいますし、不穏当なことには出会います。それはあちらでもこちらでも変わりませんよ。あちらであれば、あんなものでは済んでいなかったでしょうから、よほど安全でしょう」
「ふん。変わらないからこそ、のさばらせるなど言語道断だ」
「旅のススメは気に食わぬものは忘れてしまうことです」
「何を呑気なことを」
「楽しいことで上書きしてしまえば、ピンチも旅のエッセンスです。日本人はそれが上手い。グレイベアストに襲われても、まるでイベントのように楽しんでいた旅人もいましたよ」
「それはなかなか肝が据わっているな。不用心とも言うが」
「しかし、楽しんだもの勝ち。これが旅の極意です」
「流石ツアーコンダクターだな」
「嫌味ではなく、あたし……たちがフォローしますというお話ですよ」
毅然としたピュイが、淡く表情を緩める。滅多に笑わない子だが、喜怒哀楽がないわけではない。その柔らかな笑みは、涼やかな風を運び込むようだった。
「……仕方がないな」
クリスティン卿はピュイの意を汲んでくれたのか。その笑みに負けたのか。それは当て推量であろうから置くとして、根本から矛先を収めてくれたようだ。
「任せよう」
二度目の声に、ピュイは華々しく笑った。
「あれ、どうしたんですか?」
合流したエミリーが、前方の二人を見てぽつりと零す。二人は手こそ繋いでいなかったが、昵懇のカップルに見えるほどに和気藹々としていた。たった数十分のうちに歴戦のオタクなのかというほど、豊かなトークを展開するクリスティン卿の知能には驚かされる。
「冒険したんだよ」
「こっちでですか?」
「クリスティン卿にとっては冒険だったんじゃないか」
「楽しい冒険でしたか?」
「旅には色々あるもんだよ」
エミリーは僅かに苦みを含んだ笑いで引き下がった。これだけ空気が読めるくせに、男を落とせない。この半端さが生み出される事情を思い出して、気が滅入る。
そのことについて、俺ができる行動なんてない。変に反応してしまえば、シリアスな事情を察したことを伝えてしまうのだ。できるわけもなかった。
いや、空惚け続けていいのかという葛藤もある。勝手に事情を他人と共有して黙っている。卑怯であるかもしれない。思案を巡らせ始めると坩堝に陥る。だったらいっそ、忘れることだった。
俺にできることはそれしかない。
半ば開き直りのような決意で、心に区切りをつける。自分でもどうかと思うが、踏ん切りさえついてしまえばどうにでもなるのが俺の強みだ。だから、ここに配属されている。何が起こっても、異世界の事情を割り切れた。その一部として、エミリーを含んでしまえばいいだけのことだ。
「丞浪」
こちらのきりの良さを見計らったようなタイミングで、クリスティン卿がこちらを振り返る。目顔で応えると、相談だと零された。
「どうされました?」
「明日、君たちは休みなんだろう?」
「そうですね」
次は日本から異世界への旅行者を連れて行く。その日程の間の休日だった。頷くと、クリスティン卿はピュイへと視線をやる。
「ピュイを借りてもいいだろうか」
「休みなんでご自由にしてもらっていいですよ。そこは二人の問題でしょう」
「では今日帰る予定だったものをこちらへの宿泊へ変更したいのだが、それは可能か? 明日はピュイと観光をしたいと考えている」
「分かりました。それじゃ、ピュイも同じホテルを取るか?」
「できるの?」
「提携ホテルがあるからな。二部屋くらいなら取れるだろ。本来のプランはどうされますか?」
今回は、異世界へ送り届けるまでが仕事になっていた。しかし、予定変更となれば話は変わってくる。
「帰りは不要だ。ホテルまでの案内で終わりとしてもらって構わない。そこから先は、友人としてピュイに相手をしてもらおう」
涼しい顔で佇んでいるピュイの風貌からは、何も掴み取れない。反発もなさそうであるから、同意しているのだろう。非常に仲を深めたものだ。エミリーよりも距離を縮めるのが上手い。下心や執着がないからだろうか。
「それでは、そういう形で手配しますので」
「融通が利いていて助かる」
「ご利用いただいてる身ですから」
適材適所。適宜判断。そういうことを求められてるのには慣れている。そうでなければやっていられない。俺は直ちに手配を整えて、クリスティン卿をホテルまで案内した。
「今日はよき一日だった」
「そう思ってもらえれば幸いです。明日もお気をつけて楽しまれてください」
「ああ。そちらもよい休日を過ごすといい」
「ありがとうございます」
どんな異世界人でも、別れ際ってのは同じになるものらしい。挨拶に互いの無事を願って別れる。吸血鬼を一人で置いていくとなっていたら苦慮しただろうが、ピュイがいるので問題はない。
二人の休日については、あずかり知らぬところだ。
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