温泉家族

北見崇史

温泉家族

「さしみ、さしみ」

 黒く光沢のあるテーブルに身を乗り出して、男の子が騒いでいた。

 彼の眼下には高価な食材を使用した料理が並び、あるものは丁寧に盛りつけされ、他のものはそれなりに整えられていた。

「智也、そんなに焦らなくてもなくならないから、ゆっくり食べなさい」

「まあ母さん、いいじゃないか、こんなご馳走久しぶりなんだから。好きにさせてやれよ」

 信雄は満足そうな表情で、やさしく妻を諭した。

 父親の許しを得た息子は、テーブルの上に膝を乗せて、刺身の山に箸を突っ込むと、行儀悪くかき回した。「イカ、イカ」

「あんたはホントバカね、イカばっかり食べて。マグロとかアワビとか、もっとおいしいものがあるじゃないの」

 長女で中学一年生の珠美が、三つ年下の弟をなじった。

「姉ちゃんだって、いっつもシオカラばかりたべてるじゃないか」

「しょうがないでしょう、家には塩辛しかないんだから」口をとがらせた珠美が、弟の尻をたたいた。

「痛って、もう。ねえねえ、見てこのイカソーメンつながってるや。姉ちゃんがつくる料理みたいだ」

「本気でぶっ叩くよ」

「ほら、せっかくおいしいもの食べてるんだから、ケンカしないの」

「母さんの言うとおりだぞ珠美。ご馳走は笑いながら食べるものだ」

「どうして、いつもあたしばかり怒られるの」

 長女はむくれていたが、その場は和やかなままだった。

 彼女が本気で怒っているとは誰も思っていないし、険悪な雰囲気にもならなかった。両親はおだやかな表情で子供たちを見つめ、智也は相変わらずイカの刺身に夢中だった。

「あたし、刺身はもういいや、イカ坊やにまかせるわ。そのかわりメロンとって、そこの半分になったやつ。それとイチゴも」

 信雄は、子供たちのうれしそうな顔を見るのは何年ぶりだろうと、しみじみと感じていた。瞬きする間にも、笑ったり怒ったりと表情が目まぐるしく変わり、とにかくにぎやかで沈黙ということを知らない。子供たちのそんな素振りに接していると、どことなく心地よくて愉快でもあった。

 とくに最近では、生気の感じられない能面ばかりが目についてばかりだったので、なおさらそう思うのだ。娘や息子が見せてくれる嬉しげで柔和な表情は、信雄のすり減って錆びついた心を和ませてくれる温かさをもっていた。妻がひっきりなしに注ぐビールを飲みながら、これ以上の悦楽はこの世に存在しないだろうと、いまさらながらに思っていた。



 父親から引き継いだ小さな鉄工所の経営に没頭し、資金繰りに振り回され続けた日々が、信雄には遠い昔のできごとのように思えていた。

 仕事仕事で、それ以外のことは頭の片隅にも入らない日々が永らく続いていた。家のこと子供たちのことは、妻にまかせっきりだった。

 仕事は死ぬ気でやらないと失ってしまうが、子供は放っておいても勝手に育つものだと思っていたし、信雄自身も、鉄工所一筋に生きた父親にかまってもらえたことなどなかった。

 家族団らんとかにうつつを抜かしていると、汚らしい姿の貧乏神がヘラヘラ笑いながら居座り、一家もろとも地獄の底へ引きずりこむのだ。何よりも仕事を、鉄工所を守ることが優先した。

 もし仕事がなくなれば、すぐさま生活は困窮し、生活費はおろか子供達の給食費さえも払えなくなって、みじめな思いをさせてしまう。信雄には夜も昼も休日もなく、家族と言葉を交わす心の余裕も時間さえもなく、その必要性も見出せなかった。

 固い殻に閉じこもり、がむしゃらに働いて鉄工所を守りきることが、できることの全てだった。そしてそれが家族に報いる唯一の方法だと、かたく信じていた。



「智也、たくさん食べたかい。遠慮することないんだよ」

「もういいや、またあした食べるよ」

 母親がさし出した茶碗蒸しをイヤイヤした後、智也は両親の顔をまじまじと見つめて言った。

「あしたも、ごちそうなんでしょ」

 夫婦は一瞬言葉を失ってお互い見合ったが、すぐに信雄が言った。 

「おう、明日もあさっても、はらわたがパンクするくらい食わしてやるからな」

 長男は二人が隠しきれなかった一瞬の翳りを見逃さなかったが、それに気づいたことを感づかれないように、いっぱいの笑顔を見せた。

「焼肉が食べたいなあ」

「まだ食べる気なの、あんたは」

 痩せた下腹を手のひらで満足そうに撫でながら、珠美が言った。

「あたしはメロンもイチゴも食べちゃったから、お風呂に入ってくるかな」

「ぼくもいっしょにいく。いっしょに入る」

「やあねえ、バカじゃないの。あんたは男なんだから男湯に入りなさいよ、あたしは女湯なんだから」

「智也、父さんと一緒に男湯にいくか。母さんは珠美と入ればいい。ここの風呂はでっかくて気持ちがいいからなあ」


 鉄工所の注文が減っていくなか、長い付き合いのある銀行からの融資が打ち切られた。

 なじみの担当者は信雄が聞いたこともない町に転勤させられ、新しい営業マンは差し出したお茶を、さも不潔なものであるかのように見つめる無愛想な若者だった。

 彼は信雄に会うなり、支店長の指示だといって融資の停止を一方的に通告した。突然の宣告に頭が真っ白になった信雄は、しばし絶句してしまい、若者の額にあるホクロをしばらく眺めていた。やがて猛烈な怒りがこみ上げてきた。

 大声で怒鳴りながらその若者に詰め寄り、口のまわりを泡だらけにして叫び続けた。融資を継続しなければ、どういうとりかえしのつかない事態になるかを訴えた。血反吐を吐くような苦労も痛みも経験していない若者に、何を言っても無駄だと悟りながらも、叫びが止まらなかった。

 それほど苦しい時期でもなかったのに、借りろ借りろと揉み手をしながら金を差し出したのは銀行自身なのだ。それを少しばかり経営が苦しくなったからといって、先代からの長い付き合いを、血も涙もない回収に切り替えた。

 手形の書き換えができなければ倒産はまぬがれない。築き上げてきた信用も、親から受け継いだ鉄工所も自宅も全てを失ってしまう。どうしようもない絶望感が腹の奥から沸きあがってきた。

 パニックが信雄を責め立てて、感情の糸がぐじゃぐじゃになっていた。気がついたら、愛想笑いもできない若造に、何度もがむしゃらに土下座をして頼みこんでいた。涙ながらの懇願だった。

 しかし、若者に銀行の決定を覆す権限などなかった。融資打ち切りは既定の、冷たい事実でしかない。信雄は鉄工所ごと見捨てられたのだった。



「ねえお母さん、こんなに立派なホテルに泊まれるって、クラスでもそんなにいないよ」

 珠美は顔中真っ赤になりながら、アゴの付近まで湯につかっていた。

「せっかくの温泉なんだから、母さんはもうちょっと鄙びた所でもよかったのにねえ」

「ひなびたって、なあに」

「静かで気品があるところよ。きれいな日本庭園があったりしてね。ここはちょっとゴテゴテしてるから」

「やだあ、そんなおばあちゃんばかりの旅館なんて、絶対にイヤ」

 長女は仰向けに浮かんで、足をばたつかせ始めた。

「見てお母さん、ほら、ここのお風呂おっきくて泳げるの。背泳ぎだって、バタフライだって」

「珠美、そんな行儀悪いことしちゃだめよ」

「いいじゃないの、どうせ誰もいないんだから」



 資金繰りがどうしようもなく悪化するに至って、信雄は先代から働き続けていた老従業員を、退職金を払う余裕もなく辞めさせてしまった。恨み言ひとつ言わずに去っていった老人の後姿が頭の内側に焼きついて、永らく患っている不眠症の原因の一つになっていた。

 その従業員には、会社で年金もかけてやれなかった。正社員にすることもなく、日給月給で数十年も働かせていた。本人も待遇をよくしてくれなどとは言わず、毎日黙々と作業をこなしていた。腕はたしかで貴重な労働力でもあったが、もうクビにするしかなかった。

 家族も友達もいない一人ぼっちの老人だった。無口で孤独だった老人にとって、鉄工所だけが安心できる唯一の居場所だったはずだ。休憩の時間に妻が入れる安いお茶を、背中を丸めて、さも美味そうに飲む姿が印象的だった。

 最後月の給料さえ満足に払えなかったのに、律儀に頭を下げて去ってゆく老従業員に、信雄は別れの言葉もかけてやれなかった。

 事務員でもある妻の二三子は、ガス溶接機にかけられていた年季の入ったよれよれの帽子を、胸に抱いて泣いていた。その老人が最後の従業員だった。



「テレビはどこも同じニュースばっかりで、つまんない」

「アニメが、はいんないよ」

「下にゲームコーナーがあるから、二人して遊んでこい」

「えー、だってお金かかるよ。あたしが出すのはいや」

「じゃあ、ぼくがだすよ」

「無駄使いはだめよ」

「いいじゃないか母さん、今日は好きなだけ遊ばせてやれよ。ほら、金をやるから」

信雄は、いくらかの小銭を渡した。それは、フロント奥の小さな金庫にあったものだ。

「お父さんがお小遣いをくれるなんて、めずらしい。地震でもおこるんじゃないの」

 子供達は喜び勇んで出ていった。

 広い客間に夫婦は二人きりとなった。信雄は部屋の照明を淡くすると、妻の体をそっと抱き寄せた。

 二三子と肌を寄せ合うのは久しぶりだった。しばらくふれ合わないうちに、腕の中の肉体は驚くほど軽く小さくなっていた。背中の肉はすっかりおちてしまい、魚の鱗のような汚いシミが拡がっていた。痩せて骨が浮き出したなで肩から弱々しい吐息がもれた。口臭の生臭さは、彼女の体調がよくないことを告げていた。

「あの子たち、あんなにはしゃいで、ホントに楽しそう」

「ここには俺達だけだから、なんにもビクつくことはないんだ」

「そう、わたしたちだけの家だから」

「ああ、もう誰にも邪魔されない。ぐっすりと眠れるんだ」



 いわゆる街金融に手を出したのは、手形の決済日を間近にして、やむにやまれぬ決断だった。

 二三子はお茶をお盆にのせたまま、目つきの悪い営業マンを前に、何枚にもなる借用書に押印する夫を、張り裂けんばかりの不安な気持ちで見ていた。

 生前、義理の父はどんなに資金繰りが逼迫しても、銀行以外の金融業者から金を借りることはしなかった。そのような高利に一度手を出したら骨の髄までしゃぶられ、行き着く先は一家そろっての首くくりしかない、というのが持論だった。

 息子に鉄工所を引き継ぐ際にも、もし高利貸しに手を出すまで首が回らなくなったら、自分が苦労して作り上げた工場を手放し、おまえ達は勤め人になれと言ったほどだ。その厳命は、二三子と信雄の夫婦二人になされたのだった。

 だが信雄は、鉄工所を存続させることしか頭になかった。亡き父親の最後の助言を、まるっきり無視した。あきらめようと言う妻の願いにも聞く耳を持たなかった。

鉄工所を救ってくれるのは、たとえ素性のいい金ではないにしても、街金融の融資しかないと確信していた。景気がよくなればすぐに返せると思っていた。

 金融業者に手形を差し出す夫を見つめながら、二三子は義父のきびしい視線を思い出していた。


 朝を迎えても、そのホテルの中は静かだった。宿泊客の足音も楽しげな笑い声も、館内を駆け回る子供の叫び声も、大声で喚き散らす外国人も、おのぼりさんを陰で嘲笑するホテルマンの姿もなかった。革張りの椅子が仰々しく並ぶ広いロビーにも、人影はその四人の家族以外まったくなかった。閑散とした広い空間に、廃墟にありがちな暗く透明な空気が充満していた。

 ホテルのロビー前面には景色を遮る無粋な障壁はなく、階上へと開けられた吹き抜けに合わせてガラス張りになっていた。その隔たりの前に立つと、眼下に静々と流れる清流を見下ろすことができ、見上げると、恰幅のいい大きな山が厳しく立ちはだかる絶妙な眺めがあった。

 浅く緩やかな流れが川底を叩き、耳で聞くよりも先に、心の中に清らかなせせらぎの音が響いていた。そこかしこから白い蒸気が、ゆらりゆらりと立ち昇っていた。どんな力で流されたのか、人の背丈ほどもある大きな石が、どっしりと腰をすえて流れの端のほうに居座っていた。その川原は宿泊客や観光客にとって、自然の中で入浴したり涼んだりする格好の場所となっているはずだった。

 だがいまは、水辺でたわむれる恋人や親子の姿は見えなかった。名物である川原の露天風呂にも人影はない。人がかかわることのない無機的な静寂が、なにかの切実な予感を抱えたまま、時の流れに身をまかせているだけだった。


  

「母さん母さん、山の上のあの玉、どんどんおっきくなってるね」

 その家族以外、誰もいないロビーの長いすに寝そべりながら、智也は外を見上げていた。

 今朝から全館の電気が止まり、きらびやかなシャンデリアを含めた照明設備は、まったく用を足さなくなっていた。吹き抜けにあわせたガラス窓から自然光が入り込む設計になっているとはいえ、ロビーは薄暗かった。山の頂から噴出した煙が陽光を遮っているので、昼間といえども冴えない明るさだった。

「ずっとテレビでやってるけど、すぐそこで見られるのはぼくたちだけだ」

 息子の傍らで、二三子はだまったまま座っていた。なにも言わずに、ただひたすら山を見上げていた。

 トイレの横の壁に立掛けられた等身大の鏡に全身を写しながら、珠美は身支度を整えていた。普段からよくしてもらっている、隣家の女子高生からもらった服にシワがつかぬよう、慎重に着込んでいた。それは彼女が自慢のできるただ一つの、よそ行きの服だった。

 信雄はロビーのあちこちを駆け回っていた。フロントや事務所をうろつき、電気を復旧させようとして配電盤を探していた。しばし無言だった妻が、後ろを振り向いて言った。

「あなた、そんなに動き回らないで、ここにきて座ったら」

「そんなこといったって、電気がないと不便だろう」

「停電しているのよ。なにをしても無駄よ」

「そうだろうけども、自家発電でもありゃなあと思って」

「ゆっくりしましょうよ、もう誰も来ないのだから」

「まあ、そうだな」

やんわりと諭す妻の言葉に、夫はせわしなく動くことを止めた。



 金融業者は脅かし、なだめすかして追加の融資を迫った。

 彼らが貸そうとした金額は、その高利を考えると、零細な鉄工所が受け取るには分不相応な額だったが、信雄はそれを断ることができなかった。業者の金が入らなければ、すでに生きていけないところまで追い込まれていた。

 嫌がる親類や知人を死に物狂いで説得し、土座下さを繰り返して連帯保証人になってもらった。落日の経営者に、人前で地べたに這いつくばる行為を恥じる感情は、もはやなかった。

 何かと口うるさかった父親の顔も思い出せなくなった。経営手腕どころか警戒心まで麻痺した社長は、悪魔がくれる不浄の金を、ただ差し出されるままに受け取るしかなかったのだ。



「ねえ母さん、この服ちょっと大きくないかなあ。あたし、少し痩せちゃったから」

「そんなことない、ちゃんと似合ってるわよ」

「そうだ珠美、モデルみたいで格好いいぞ」

「姉ちゃん、すげえや」

「もう、みんなしてバカにするんだから」珠美はまんざらでもない気持ちで、鏡の中の自分に見とれていた。



 街金融の返済に苦しめられた一家が、闇金融の魔の手に陥るのに、そう時間はかからなかった。手を出してしまって後悔しても、それはまったくの手遅れだった。一家は、法定金利など無視した滅茶苦茶な利息にただ呆然とするしかなく、まして、返す返さないの問題ではなかった。

 闇金融業者の取立ては熾烈を極めた。

 脅迫や恫喝は昼夜を問わず無慈悲に、そして暴力まで加えて実行された。曖昧な態度でかわそうとする経営者は、その角ばった四角い顔の角が取れて丸くなるまで殴られた。髪を振り乱しながら夫をかばう妻のわき腹にも、容赦なく蹴りが入れられた。

利息分として、中学生になったばかりの娘を児童ポルノ業者に売りとばし、役に立たない息子は、海外に連れていって臓器や目玉を抉り取るといわれた。残虐で執拗な取立ては、子供達の無垢な魂をずたずたに引き裂いた。

 連日の過酷な脅迫に、珠美は嘔吐を繰り返すようになり、智也は小便が出なくなった。闇金融業者は、悪辣な取立てに自分達の存在意義を見出しているがの如く、血も涙もない行為はエスカレートこそすれ収まることはなかった。

 家族は、金目のものを次々と売り払う毎日が続いた。胸の焼け付くような怒声で取立てに来るヤクザ者に、やっと拵えた僅かばかりの金も毟り取られた。一家は生きていくのに最低限の生活費にも事欠くようになり、妻は買い物にいく理由を失っていた。鉄工所に顔を出しにやってきた老従業員が、律儀にも持参した大量の塩辛が、家族の食卓を彩る唯一のおかずになった。 

 やがて手形が不渡りをだし、鉄工所も隣接する自宅も差し押さえられることになった。血の気が失せて死人のような顔で立ちすくむ信雄は、仕事に関するなにもかもを失った。経営に失敗した社長ができることは、家族もろとも借金地獄の中で、もがき苦しむことである。

 何よりも辛かったのが、連帯保証人となった親類、知人からの突き上げだった。彼らも生活を一変させるほどの苦痛を味わっていた。

 金切り声にも似た悲鳴が家族のもとに押し寄せた。どうしようもなかった。親子四人そろって泣き喚きながら、地べたに這いつくばった。真っ赤になって怒り狂う連帯保証人に包丁を差し出し、一家全員を刺し殺してくれと涙ながらに懇願した。そこまでしないと、彼らは容易に帰ってくれなかった。   

 闇金融からの脅迫電話が息子の小学校に迫って、一家は生まれ育った街から消えてなくなることを決断した。売る価値もなく残されたボロ車に乗って闇夜に脱出したのだ。行き着くあても、期限もない出発だった。



「ほら、みんなここに座って」

「珠美と智也は、父さんと母さんの間に入って」

「なんか記念写真みたい」

「そうよ、ここがわたし達の記念となるの」



 持ち金も車の燃料も尽きかけたころ、一家はここまでやってきた。火山の麓にひらけたこの温泉街は、湯量が豊富で、大小さまざまなホテルや旅館が立ち並び、たくさんの観光客が往来して、とてもにぎやかだった 

 しかし文無しに限りなく近い状態の家族は、どこにも泊まることができなかった。ガス欠寸前の車を公園の端に停め、なるべく人目につかないように、四人は狭い車内で寝起きしていた。息が詰まるほど苦しかったが、親類に責め立てられヤクザに恫喝されるよりは、まだましだった。

 親子は僅かばかりの食べ物を分け合って生きていた。一つのカップラーメンの麺を子供達が食べ、親がその汁をすすった。不器用で実直な父親が、やっとの思いで万引きしてきたバナナの中身を姉弟が食べ、のこった皮を夫婦が腹の中に押し込んだ。親子は空腹と窮屈に苦しみながら窓の外を見ていた。楽しげに行き交う人々の姿を、自分達に投影することで、なんとか心の平静を保っていたのだ。

 この温泉街にたどり着くずっと前から、夫婦は覚悟をきめていた。

 ただ子供達の顔を見ると、可哀そうで可哀そうで、踏ん切りがつかないだけだった。しかし子供は、親が思っているほど鈍感でいられるものではない。息子と娘は、すべてを悟っていた。両親が最後に決断することを、じっと待ち望んでいた。

 温泉街のシンボルとなっていた火山が突然噴火を始めたのは、そんな時だった。

連続した地震が人々の平衡感覚をかき乱すと、胸にわだかまったなんとも形容のできぬ悪い予感が、皆の視線を山のほうに向けさせた。

 すると頂上付近から激しい轟音とともに噴煙が立ち昇り、真っ黒い煙が邪悪な姿となって蒼空を覆った。そして下界の建物や人間に、ためらうことなく岩や灰を浴びせかけた。温泉街は一気にパニックに陥り、がむしゃらに逃げ惑う人々の悲鳴や怒声が飛び交った。

 天から降ってきた火山岩に肩を砕かれた観光客の女を、黒服を着たホテルのマネージャーが、血だらけになりながら担いでいた。はっぴ姿の男連中が、車椅子の老女を車椅子ごと担いで走っていた。人ごみの中で迷子になった幼児が、なぜか下半身丸出しで泣いていた。平和な温泉街は、逃げ惑う人の群れで、収拾がつかない悲惨な状態になった。

 まもなくその地域一帯には避難命令が下され、警察と消防が、遅まきながら本格的な救助と誘導を開始した。

 観光客は、すでに大半が自家用車や送迎バスやなんらかの方法で逃げ去っていた。あとは地元の人間と宿泊施設関係者が避難するだけだった。最後に自衛隊の装甲車が出動し、自宅にしぶとく居残っている老人や犬猫を回収し、誰も残っていないかを確認して、急ぎ引き上げていった。

 乞食同然の惨めな終わりを迎えようとしていた四人は、この好機を見逃さなかった。腹をすかし家族にとっての目標は明確だった。

 混乱の虚をついて、温泉街でも一番大きなホテルに忍び込んだのだった。ホテルの従業員も避難を確認しにきた警察も、誰もその一家に気づきはしなかった。命が危険に晒されている時に逃げていく人間がいても、飛び込んでくる者がいるとは思わなかったのだ。

 完全に人の気配がなくなるまで、四人はホテルのリネン室の片隅に閉じこもり、まるで呼吸を忘れたかのように、じっと息を潜めていた。そして皆が逃げ去り家族だけになった頃合いを見計らって這い出し、そのホテルでもっとも大きな部屋を占有した。

 厨房から値の張る食材を拝借し、それを手前勝手に料理しては何年ぶりかになる豪華な食事を楽しみ、温泉で溜まりにたまった垢を流した。ホテルの各設備は、噴火があまりにも急だったので、まだ電気も水道も止められてはいなかった。

 痛々しく地肌が露出した山の頂上付近に、奇妙なコブができていた。それは、家族がご馳走や温泉を満喫している間に徐々に大きく成長していた。コブというよりも、巨大なドームといったほうが適切だった。

 テレビのニュースでは、それが成長する様子を逐一知らせていた。火山の専門家がその正体と危険性を、まるで親の敵であるかのように説明していた。彼によると、それは絶望的なほど凶悪なデキモノであった。



「あっ」智也が小さく呻いた。

 それが、この家族がこの世に残した最後の言葉となった。 



 溶岩ドームが崩壊した。核ミサイルが爆発したような衝撃を伴い、火山岩や灰や軽石などを包み込んだ火山ガスが、大火砕流となって駆け落ちてきた。

 それは家族が暮らすホテルよりも大きく、しかも内部は数百度に達する灼熱の地獄である。その体内に燃える業火で山の木々を舐め尽くしながら、ものすごい勢いで斜面を下っていた。 

 四人はしっかりと手を握り合いながら、迫り来る黒雲を見ていた。

山の斜面を下りながら、もくもくと成長している巨大な化け物を静かに見ていた。

夫婦だけではなく子供たちも、その性質は十分に承知していた。それが及ぼすだろう熱さや苦痛も十二分に想像できた。

 しかし、家族は動かなかった。逃げる気などこれっぽっちもないのだ。四人はホテルに忍び込んだときから、もう覚悟していた。ここで最後を迎えようと。踏みにじられ毟り取られた毎日を、この場所で終わりにしたかったのだ。

 借金取りの血走った鬼畜の眼に怯えたり、親しく付き合っていたものたちの嘆きと絶叫に、もだえ苦しむことはない。悲しくはなく、むしろ家族一緒で旅立てる喜びでいっぱいだった。

 久しぶりに幸せな時を共有した親子は、ぎゅっと、それぞれの手を握った。汗ばんだ手が親の、あるいは子供の生きた感触を伝えていた。夫婦と二人の子供は胸を張り正面を見据えた。

 熱く猛り狂った闇が、その家族を優しく包み込もうとしていた。


                                  おわり

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温泉家族 北見崇史 @dvdloto

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