月が綺麗に沈んだから~The moon was fallen slowly~

八家民人

第1話 プロローグ

 台風が来ている時に出歩くやつは馬鹿だ、という父親の声が袈裟丸耕平の頭に響いた。

 強風によって流された雨粒を全身に浴びている。

 額に髪が貼りついているが、払う余裕はない。ポロシャツやジーンズ、スニーカがぐっしょりと濡れているのは、傘を持っていないからである。

 傘を持っていたところでこの天気では、その存在理由を問われるだろう。

 勾配のついた坂道を進んでいる。緩やかではないが疲れは忘れている。

 袈裟丸は後方を時折振り向く。

 理由は二つあった。

 一つは追ってくる人間の有無を確認すること。

 もう一つは、すぐ後ろを歩く、居石要の状態を確認するためである。

 居石は神野ゆのを背負いながら、一歩一歩坂道を踏みしめるように歩いている。

「大丈夫か?」

 袈裟丸の声かけに、居石は上目づかいで、頷いた。

 滴が髪の毛から滴っている。汗なのか、雨なのか、袈裟丸には判断できない

 居石の格好が今の状況に似つかわしくなく、袈裟丸は何とも言えない気持ちになった。

 常にアロハシャツ、ハーフパンツにビーチサンダルというスタイルが、一年を通して変わらない居石のスタイルだった。

 そのスタイルを貫く理由を聞いたことが無かったな、と袈裟丸は思った。

 そのアロハシャツが今は、雨と風で悲惨なことになっている。

 すでに肩まで脱げており、ゆのを背負っているからシャツが飛んでいかない、という状況である。

 インナとして着ている黒いタンクトップが雨で濡れているのがしっかりとわかる。

 視線を海の方に向ける、

 点々と並んでいる住居を超えて、その先、灰色の海は荒れていた。

 漆黒の空には厚い雲で覆われていて、それが流れているのも分かる。

 列島に上陸しようとしている台風によって、この島は暴風域に入っている。

 台風の時に出歩く自分は馬鹿なんだな、と袈裟丸は鼻で笑った。

 でも。

 再度後ろを振り向く。

 居石に背中で震えているゆのの姿が目に入った。

 自然と両手に力が入り、袈裟丸は前に向き直した。

 その視線の先、揺れる木立の隙間から、三本の白い塔が見えている。

 ビーチサンダルにもかかわらず、袈裟丸の歩く速度に遅れないようについてくる居石を気遣いながら、歩みを進めた。

 目的地はあの三本の塔、大中小三本の風力発電用風車の先、島の南側にある小さな船着き場である。

 暴風によって勢いのついた雨は、顔や体に当たるだけでストレスが溜まる。

 絶妙な痛みが断続的に身体に響く。

 傾斜が緩やかになっていることに気が付くと、目前が開けた。

 野球場の一回り小さい面積の草地である。

 その中、まるで発光しているかのように風車が立っていた。

 雨にも風にも負けずに、自分の仕事をただ黙々と続ける、変則的な風力発電機の前に袈裟丸も居石も立ち止まって見上げた。

「おい、行くぞ」

 居石が枯れた声で言った。

 袈裟丸は頷く。

 発電機の先の茂みの一部に港へと続く小道の入り口がある。

 そちらに向けて、袈裟丸が二歩進んだ。

 その時、左手の茂みから、二人に向かって勢いよく何かが飛び出してきた。

「くっ…」

 袈裟丸の背中に衝撃が走り、そして前方にはじけ飛んだ。

 濡れた地面に顔から着地する。

「痛っ」

 顔を押さえて上体を起こす。

 すぐさま振り向く。

 居石は左脚を伸ばした状態で尻餅をついていた。

 先程の背中の衝撃は居石が袈裟丸を蹴り飛ばしたものだと理解する。

 いつもならば怒りに身を任しているところだが、今はそれを指摘する状況ではなかった。

 居石とゆの、袈裟丸との間に朱色の線。

 その線は雨を弾いている。

 袈裟丸、そして居石もその正体が分かっていた。

 朱色の線の端には、トレンチコートにスーツの人物が片手を伸ばして立っていた。

「諌…」

 居石は体勢を立て直すと諌に向かって言った。

 袈裟丸も立ち上がった。

 諌の顔の左半分は白い無地の仮面で覆われている。

 むき出しの右半分から覗き見る目は、全く感情の籠っていない目だった。

 諌の手に持っていたのは朱色の鞘の刀である。

 抜刀せずに茂みから二人の間に、正確には袈裟丸を狙って突きを繰り出したのである。

 諌は刀を回転させると、右の腰付近で保持し、左手で柄を握って腰を落とした。

「抜かせるな。娘を置いていけ」

 抑揚のない、冷たい声だった。

「交渉人が聞いて呆れるなぁ、おい」

 居石は諌と距離を取りながら袈裟丸に近づく。

「刀は使わないんじゃなかったのか?交渉人って嘘つかないんじゃねぇのか?」

 袈裟丸と居石の距離は一メートルほどになった。

 諌の左手が僅かに動いたので、居石は立ち止まった。

 背中のゆのが居石のアロハを強く握った。

「娘を渡せ」

 諌の要望は変わらない。

「交渉人らしく、交渉して見ろよ」

 居石は諌から目を離さなかった。諌も居石を見据える。

 風と雨が強くなっている。

 急がなければ間に合わなくなるかもしれない、と袈裟丸は思った。

 その一瞬。

「袈裟丸」

 ゆのが宙を舞った。

「嘘だろ、お前」

 袈裟丸は落下地点に走り、抱きしめるようにしてゆのを受け取ると、その勢いで転がる。

「走れぇ。塗師を呼んで来い」

 居石は諌の足元に転がっている。諌も一緒に転がっていた。頭を押さえている。

 その状況から、居石がゆのを投げると同時に諌の足元にタックルをしたのだろうと袈裟丸は想像した。

 宙を舞うゆのの方に気を取られていた諌がタックルの直撃を受けたのである。

「お前は…」

「いいから行け。こんな刀持ってる奴に真っ向勝負なんかしねぇよ。時間稼ぎだ」

 居石の考えが分かった瞬間、言い終わる前にゆのの手を引いて走り出す。

 ゆのは引きずられるようにして走る。

「お兄ちゃん…」

「あいつ、生き埋めになっても死ななかった奴だから。大丈夫」

 心配するゆのに袈裟丸は声をかけた。

 ゆのは変わらずに、案ずるような表情だったが、袈裟丸は嘘を言っていなかった。

「走れる?」

「うん。お兄ちゃんがここまで頑張ってくれたから。私も頑張る」

 袈裟丸は頷く。

 足が重く感じるのは水を含んだ服のせいだろう。

 スニーカの中の足も痛い。

 あと少しで港に着く。それまでは逃げきれれば良い。

 傾斜の無い道を進むと、その先は下り勾配の道である。

 その先に、船着き場が見えた。

「ゆのちゃん、見えたよ。ほら。船もあ…」

 言い終わる前に、足を踏み外した。

 いや、思ったより手前から傾斜が始まっていたのだ。

 足を踏み外した袈裟丸はそのまま転がり落ちる。

 そして。

 袈裟丸は意識が無くなった。


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