そろそろ冒険してみたい

俺は頭を抱えて唸っていた。

「うーん、冒険してみるべきか……このままで引き受けるべきか」

依頼のメールが来たパソコンの前で煩悶する。本心としては冒険したいのだが、冒険するリスクをすべて承知できるかというと、また別の話だ。

『何を悩んでるんだ?』

家事を終えてタブレットをいじっていた怨霊(黒い一反木綿のすがた)(命名:千歳)が不思議そうに話しかけてきた。千歳は、レシピを探す目的があるのを差し引いても、料理動画を見るのが好きなようなので、最近それ用のアプリを入れた。ネットに不慣れな千歳が変な動画に引っかかったり騙されたりが嫌だったので、対策をいろいろ考えたが、結局YouTubeキッズを使うことにした。たまに視聴履歴をチェックするが、千歳はペット動画も割と見ているようだ。

「いや、一言で言うと、今まで俺が仕事引き受けてた相場よりも値上げしたくて」

千歳は喜んだ。

『いいじゃないか! どんどん値上げしてどんどん稼げ。それでとっとと子孫を繋げ』

「そう簡単な話でもなくて。競争相手なんてたくさんいるから、俺が値上げしたら、じゃあもっと安い人に頼みますって言って、クライアントがよそに流れる可能性も十分あるわけだよ」

俺に仕事を打診してくる相手は、俺のこれまでの実績を見て打診してくる。特にスキルシェアサイトに書いてある実績は、発注先に見やすいようにテンプレートができているので、見れば俺がこれまで仕事を受けた値段が把握できる。しかもWebライターは、子持ち主婦のスキマ仕事や副業としての参入者がごまんといて、そういう人は多少の稼ぎになればいいから、時給換算で割に合うかどうかをあまり考えずに引き受けることも多い。質を問わなければ、いや質をある程度問うても、安い競争相手がたくさんいるのだ。

「でも今回の依頼はかなり下調べに手間かかるし、それを考えるといつもより値段を上げたいし、でも上げたらよそに流れることがあり得るし、ここ最近の仕事内容からすると、本当は俺がスキルシェアサイトに書いてる相場ももう少し上げたいんだけど、そうしたらこれまでの値段で取り引きがあった人たちがごそっといなくなることもあり得るし」

千歳は困った顔になった。

『なんか大変なんだな……』

「うん……難しい」

質の高い文章を書ける人や特定の分野に強い人なら、俺が悩んでいる相場よりもはるかに高い金額で仕事している。俺も多少は書けるようになってきたし、萌木さんにも、量さえ頼めるならもっと記事単価を上げられると言われているので、スキルに見合う稼ぎにしたいなら、値段を上げる一択だ。

だが、世の中にはスキルに見合わない金額で働かざるを得ない人がたくさんいるのもまた事実であり。

千歳が口を開いた。

『一度値上げしても、また値下げできるだろ?』

「それは、まあ」

『じゃあちょっとふっかけてみて、客が嫌がったら元の値段に戻せばいいじゃないか』

観測気球を上げてみるということか。相手の反応の仕方でこちらの出方を変えるのは交渉の基礎ではある。

難色を示す前に、さらっと交渉を打ち切ってしまうドライな相手だと通用しないが。しかし、自由業は人の縁なので、交渉が続けられるなら縁があり、交渉が続かないなら縁がなかったと考えて諦めるしかないという考え方もできる。

というわけで、俺は思い切ることにした。

「……試しにふっかけてみるか。スキルシェアサイトの値段も上げる。ダメだったら元に戻せばいいんだから」

『そうしろ! もっと稼げ!』

依頼のメールに、高くなる理由を丁寧に書いて、これまでの俺の実績より高い値段での見積もり提案を送った。スキルシェアサイトでも、労力がかかることを理由に相場を書き直した。

メールの返信が来るまで、別の作業をしていたが、正直かなりどきどきしていた。三時間くらいで返信が来た。

「……千歳!」

『どうした?』

「ふっかけたら通ったよ! 値上げした見積もりがそのまま通った!」

『おお! 稼げるのか!』

「ふっかけてみてよかったよ! 千歳に話してよかった! ありがとう!」

『お、おう』

千歳は戸惑ったような、微妙に照れたような顔になった。

『じゃあ、今日の晩飯は豪華にしてやろう』

「あ、いや、俺が作業して納品して、納品物を相手がチェックして承諾するまでお金入らないから、豪華にできるのは早くても来月」

『なんか大変なんだな……』

そういうわけで夕食はいつもと特に変わらなかったが、俺は千歳に少し多くおかずを分けた。

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